小説 俺が父親になった日(第一章)~不機嫌な俺と不遇なあいつ(1)~
遮光カーテンを開けた起き抜けの俺には、差し込む光はただ鬱陶しいものだった。真夏の太陽はその邪魔臭さを数倍増しで感じさせた。
もう十時半過ぎか。こんな時間に起きた自分自身のせいで、更にその眩しさは俺自身をより一層憂鬱にさせた。
そういえば、日中の明るさを嫌い、遮光カーテンへと替えていた。それなのに習慣だけで反射的に開けてしまう俺は、やっぱりどこかやられている。
あんなに好きだった夏の暑さも、俺を不機嫌にさせるだけだ。シャツがベトベト肌に纏わりつく。学生時代はバリバリのサッカー部。汗をかいて気持ちいいなんて、平気でほざいていた頃の自分に反吐が出る。
今日は二台目のスマートフォンを解約しなければならない。つまりこの暑苦しい外気に触れなければならない訳だ。まさか自分で踏み付けて液晶を粉々にするなんて。もう不要なのだから、手放すには丁度いい機会なのだが。
ついていない事が立て続けに起こり、いつしか俺は自分自身を心の底から失笑していた。きっと、顔にも出ている。
気が進まないまま、似つかわしいと思われる格好にはどうにか着替えて、部屋を出た。
仕事へ向かう道を休日に歩くと、どうしてこうも気持ちが沈むのだろう。
平日は外面のいい営業マンを気取っていても、こんな休日の姿が剥き出しの本物の俺だ。そのみすぼらしさを曝け出すことが情けない。それがカーテンを開けたくない、外にも出たくない理由だ。
そういえば子供や学生は夏休みの真っ最中だった。
デパートやショッピングモールへと繋がる駅前の広場への階段を、重い足取りで一歩一歩上っていく。
学生や親子連れがやたらと楽しげに行き交う。幸せの真っ只中にいる誰も彼も、俺のことなど見る訳がない。
そんなことくらい、分かっている。
それでも…つまらない今日を生きているだけの姿を、偶然にでも目にされるのは結構堪える。格好付く筈の百八十センチ近い背丈も、今はただ目立つだけで却って迷惑だ。
俯きつつその広場を通り過ぎようとする視線の先に、突然行く手を遮る何かが現れた。
栗毛の男児はリュックの肩掛けをギュッと握り、明らかに不安げだ。
不自然な足踏みをしつつ周りをきょろきょろ見回してはいるが、俺の存在には全く気が付いていないようだ。
俺は一瞬躊躇したが、無関係とばかりに避けた。
ところがその子供は、何故か俺についてきた。
立ち止まっていたその小さな足が、俺が目の前を通り過ぎたと同時に、急に俺の歩みに追いつこうとし始めた。
俺もちょっとはその存在を気にしていたのだろう。ふと見返った。
必然的に目と目が合った。クリっと見開いた両目が何かを語りたがっている。
俺はこんな子供と面識などない。こいつは俺を知っているのか?
俺は立ち止まって面倒臭そうに振り返り、目の前に立ち塞がって一言尋ねた。
「なんだ?なんでついてくるんだ、お前?」
見下ろす先の髪の毛のメラミンの少なさに薄幸さを感じるのは、俺の感性が鈍っているからなのだろうか?
俺を見上げるこいつの瞳はとても澄んでいて、だからこそその奥に、何かに怯える姿が見て取れた。俺の威圧した尋ね方はやはり怖かったのか。しかしそんな不躾な俺を、こいつはずっと見つめたままで立っている。
そしてこいつの口から出たのが、これだった。
「におい…」
「へっ?」
唐突過ぎて気の抜けた声が出た。
「……おんなじにおい……」
何と俺とが同じ匂いなんだ?
その言葉の指す先が分からない俺は、そんな疑問を抱いたがために、更に鋭い眼光でこいつを見下ろしていた。
すると、俺の目の前で大事件が起こった。
見下ろす視線の先に、何かが地面を這いずり広がりみるみると濡れていった。
まさか……視線を恐る恐る上げていくと、目の前の子供の股から下が濡れているじゃないか。そう、こいつはお漏らしをしてしまったのだ。
固い表情がみるみるうちに泣き顔へと変わる。甲高い鳴き声が駅前の雑踏を切り裂いた。周囲の人々の視線は明らかに俺たちへと向いていた。
おい。これじゃまるで俺が泣かせたみたいじゃないか。ひそひそ声が無実の俺を責め立てる。落ち込む俺は頭を垂れて目を伏せた。客観的に見てこのシチュエーションは、どう見たって大人が子供を泣かせている。
どうしてここまで俺はついてないんだ。俺は一体何をどうすれば良かったんだ?
いや、過去はもうどうでもいい。こんな時『大人』はどうすべきなのか、さあ考えろ。
気付けば俺は、そいつを抱えてその場から立ち去っていた。周囲の圧力に耐えられなかったのは間違いない。
泣き声と滴る小便が後を引き続ける。適当に着たとはいえ、それなりに値が張るTシャツも綿パンも、こいつを抱えてあちこち濡らせば、いよいよどうなっても良くなった。
そもそも俺は、何でこいつを抱えて逃げているんだ?これって誘拐って言われないのか?大体、どうして俺はこいつにここまでしてやらなけりゃならないんだ?
答えなど出ないまま、俺はただひたすら部屋へと向かって走り続けた。泣きわめくこいつをあやすなど器用なことができる筈もない。
その後に待ち構えるとんでもない展開を想像する余裕なんて、一切なかった。
ー つづく ー