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[小説 祭りのあと(20)]三月のこと~紫紺の帯締めと鶴の恩返し(終)~
ときわ公園の梅が見頃になると、三月になったのだなと実感する。
そして街中に卒業証書の入った筒と花束とを持つ笑顔や涙顔の学生たちが溢れ出すと、いよいよ桜も彼らを祝うように咲き始めるのだと思うのだった。
あの石を彰君に貸してから二週間は経っただろうか。
鈴屋呉服店の裏口には、引っ越し業者の軽ワゴンが止まっていた。
彰君の荷物を運び出す作業服の男性が二人。店は昭次さんにお任せして、それを見守るひろみさんが路上に佇んでいた。
そこに現れたのは彰君だった。右手には何か色彩豊かなものが紐で繋がれてあった。
よく見るとそれは折り鶴だった。千羽まではいかないが、かなりの数が繋がれてあった。
彼はそれをひろみさんに手渡し、何か懸命に語りかけていた。修理で預かった冷蔵庫の中を掃除している僕は、その一部始終を見届けていた。
するとそんな僕を見つけて、彰君はこちらへと駆け寄ってきた。
「おぉ、彰君、こんにちはー」
「下村さん。長くお借りして申し訳ありませんでした。ようやく終わりました」
黒い石を僕に返し終わった彼の表情は、とても晴れやかだった。
「これ、役に立ったかなぁ?」
「はい。僕も力をもろうて、ようやく思い切れました。何も隠さずに書き切りました」
折り鶴を持ったひろみさんは、僕に話しかける彰君のほうをちらっと見た後に、家の中へと入って行った。
僕はようやく事態を飲み込むことができ、彰君に尋ねてみた。
「もしかして、あの鶴って……」
「はい。百羽全てに、十八年間の思いを全てぶつけました」
なんと彼は折り紙一つ一つにメッセージを書いて、鶴を折ったのだった。以前広島の平和記念公園に贈られた千羽鶴のニュースを見たことと同じことを、彼は実践したのだ。
僕は息をのんだ。そこまでやれるだけの意志がどれ程のものか、想像さえできなかった。
「でも、まだお母さんの反応は分からんじゃろう。大丈夫?」
「いつどうなっても仕方がありません。いつかは分かることですけぇ……あ、そうでした。僕、明日京都に出るんです」
旅立つ前日を見計らったのか、偶然前日に出来上がったのかは知る由もない。だが晴れ晴れとしたその笑顔は、行き場のなかった思いを全て吐き出した証拠なのだろう。
「そうなんだ。頑張って夢叶えてきてよ」
「はい。帰ったらまた顔出します」
そう言うと彼は、軽ワゴンの方へと戻っていった。
別れの瞬間に訪れる壮絶な現実さえも、きっと彼は覚悟している。
大人から見たら若さ故の無謀な挑戦であっても、未熟なりに思い悩んだ末の決断であれば、誰にそれを止める権利があるだろうか。
彼の通り過ぎた公園の桜は間もなく満開だ。
僕は羨ましかった。
頑張れよ。もう一度心で呟いた。
翌日の朝八時過ぎ。
アーケードにはゴミ収集車さえまだやって来ていない時間に、鈴谷一家は琴芝駅へと歩いて向かって行った。
まだこの時間であるにもかかわらず、ひろみさんは桜柄の着物に淡い紫の帯と紫紺の帯締めという艶やかな出で立ちで現れた。
あの紫紺の帯締めは、ここぞと言った時に必ず出てくるものだと確か大崎さんが教えてくれた。息子の門出を祝うという最高の舞台に、彼女も立ち会おうとしたのだ。
いや、それ以上の気迫を、きっと彼女はその帯締めに込めたのだろう。
駅に到着しても、ひろみさんの表情は硬いままだった。
三人の間が緊張感で満ちていたのは、きっと前日の折り鶴が関係しているのだろう。彰君も下を向いたままだった。
新山口駅行きの電車が来るまであと八分ちょっと。
先に口を開いたのは、彰君だった。
「父さん、母さん、今までありがとう」
そう言い終わり、彼が頭を上げた直後のことだった。
ひろみさんが何も言わないまま、彰君の頬に平手打ちを一発食らわせたのだった。
「……それだけで、もういいん?」
彰君は動揺一つしなかった。こうなる覚悟はできていたのだ。
しかし昭次さんの驚きはもちろんのこと、狭い駅のホーム内は突然の出来事にどよめきが起こり始めていた。
彼女はもう一回、更に一回、何度も何度も彰君の右頬を叩いた。
見事に結ってあった髪も乱れる程に、息子の頬を何度も叩いた。
周りのどよめきはいつしか静まり、頬を叩く音だけがホームに響き渡った。
彰君の頬は真っ赤に腫れ上がった。それでも彼は叩かれる衝撃にもよろけることなく、ホームに重心を載せて微動だにしなかった。母の目を一点に見つめていた。
「それでもう、気が済んだ?」
そう言った彰君の目には、明らかに瞳を潤ませた母の姿が映っていた。
「あんたの実力なんて、世の中に出たら大したもんじゃないんじゃけぇ」
「知っとる」
「そんじゃそこらの努力じゃあ大成なんてしないこと、分かっとるわね」
「うん」
「彫刻家なんて、金にならん商売よ。それでもいいん?」
「もう決めたことだから」
「簡単に諦めるくらいなら、学校なんて辞めて帰ってきんさいよ」
「絶対に、そんなことしない」
「これからは全部自分でやっていくんよ。分かっとるの?」
「もちろん」
「成功するまで、戻ってくるんじゃないわよ。芸術は時間と命を削ってこそ、本物が出来上がるんじゃけぇ」
「はい」
短い返答に、彰君の固い信念はしっかりと込められていた。
その意志をひろみさんは確かにその目で耳で、再認識しただろう。
「成功するまで戻ってくるな」と発したのは、きっと彼女が口を滑らせたのだろうが、一度言った限りは取り消せない。二人ともよくそれを知っていた。
ホームに列車到着のアナウンスが流れた。
見慣れたスポーツバッグを肩に掛け、買ったばかりのキャリーバッグを手にした彰君はホームの丸の目印まで歩き出した。
ひろみさんは立ち尽くしたまま動けなかった。
「卒業まではちゃんと仕送りするけぇ、心配すーなよ」
帯同していた昭次さんが彰君の右耳にそう囁くと、彼は黙って微笑み頷いた。
列車が到着し、彰君は乗り込んだ。発車ベルが鳴り始めた。
自動ドアの前に立ったままで、彼は首を精一杯伸ばして母の様子を覗いた。母の涙はもう乾いていた。
いつもの様子になったと安心して正面を向き、父親の手を振る笑顔を見たその時だった。
ベルは鳴り終わり、扉が閉まった。
扉で隔てられた途端に、堰を切ったように彼は込み上げるものを抑えられなくなった。しゃくり上げる度に、赤くなった頬へと涙が次々と伝っては痛く沁みた。
吹っ切るということは孤独が隣り合わせであることを、彼はこの時知った。不安も迷いも抱えた彼は、それをようやく露わにできたのだ。
しかしそれを受け止める人は、傍にはもういない。
動き出した窓の向こうに母が見えた。
通り過ぎる瞬間に、彼は精一杯の笑顔を母に見せつけた。
いつも以上に凛とした母の姿に、まだ敵わないと悟った。だが同時に、彼はきっと乗り越えてみせると決意を新たにしたのだろう。
自立への一歩を踏み出した息子を乗せた列車が遠のいていく。父も母も最後までそれをしっかりと見届けたのだった。
「さぁあなた、行きましょうか」
列車が見えなくなると、何事もなかったかのようにひろみさんは改札へと歩き出した。
「お前、痛くないんか、右手」
「あれごときで音を上げる程、私は弱くありませんから」
そう言った彼女の手のひらもまた赤く腫れていた。それを一瞥した昭次さんは、思わず笑ってしまったのだった。
「何ですか。何がおかしいんですか」
「いいえ。何でもありません」
駅構内の桜もまた、彼女の纏う反物のように満開に咲き誇っていた。彼女の花道を薄紅の花吹雪が華やかに飾った。