[小説 祭りのあと(25)]五月のこと~万年筆の教え(前編)~
日もすっかり長くなってきた。
五月病ともすっかり無縁になった僕は、無事にその季節を乗り越えた。
祝日が来なくてうんざりし始めた学生やサラリーマンを尻目に、お客さんのお宅からの帰り道で、鼻歌混じりに自転車を走らせていた。
「あっ。頼まれとった……」
ここ最近頭だけは一年中春の僕は、すぐに頼まれ事を忘れてしまう。父から万年筆を預かっていて、それを文具店に修理に出さなければならなかったのだ。
家に着くと母が帰っていた。僕が大枚を叩いたくるくるドライヤーよりも、恵美さんのクッキーにニコニコする母が。店番を頼み、西田文具店へと急いだ。
西田文具店は県内では知らない者はいない程の名店だ。
店主の峰夫さんは六十を過ぎてもなお、客の流れをしっかり読み取りながら店の改良を重ねている商売熱心な人だ。
そして実は万年筆の修理にかけては、西日本では「マイスター」と呼ばれる程の腕の持ち主なのだった。
「おお。恭介君いらっしゃい」
そう言って僕を迎えた峰夫さんのカウンター越しには、見覚えのある老紳士。
「あれ?」僕は平和ボケした自分の頭をフル回転させて、記憶の中の写真を何枚も何枚もめくってみた。
すると、一致する一枚が見つかった。
それは名前のない写真で、真締川の土手の風景と共に脳裏に蘇った。
「あっ!あの時の人じゃないですか!?」
僕の大きな声に男性は振り返り、気付いたように僕に向けて微笑んだ。
あの時の別れ際と同じ表情がそこにはあった。
「おや。こんな所でまたお会いするとは。不思議なご縁ですねぇ」
「西田さん。この方はどなたなんですか」
僕は万年筆を手渡しつつ、峰夫さんに尋ねた。
遂に正体が分かる時が来たのだ。
「ああ。お得意さまですよ。今日はたまたまこちらにいらっしゃってね」
完全に肩透かしを喰らった。お客さんのプライベートの秘密は守る。
商売の基本を破ろうとした僕のほうが無粋という訳だ。
「どうでしたか。あの石はあなたに力を見せてくれましたか」
「これですね……何度も僕にいろんなことを教えてくれました」
僕は右ポケットから黒い石を取り出して、二人の前に見せながら話を続けた。
「そのお陰で、今までの僕ではできなかったことが、できたような気がします」
「ほぅ、それは結構……いい艶ですねぇ……あの頃より素晴らしいものになっているじゃないですか」
老紳士は僕の手のひらの上の石を、幼子をあやすように人差し指で優しく撫でた。
「毎日持っていたので、角は丸くなってしまいました」
彼はそう答える僕を見つめて、軽く頷いた。
「形あるものは、飾っているだけでは価値が下がります。あなたに使っていただいたからこそ、この石は輝きを放ったのです。あなたは原石を立派な宝石に変えたのです」
あの時なら間違いなく拒絶していた僕も、今なら素直にその言葉を受け入れられる。
だが一つ、疑問がまだ残っていた。
「どうしてこの石は熱を発したんですか。何故熱を発すると、持った者は思いも寄らない力を発揮することができたんですか?」
老紳士はふふっと軽く声を出して笑い、見事な回答を僕に示した。
「それが分かれば、おとぎ話などこの世に存在しませんよ。私も理由は分かりません」
またもや僕の問いは上手くかわされた。
僕はやっぱりそうかと、肩を落とした。
「……ですが、一つだけ分かることがあります」
優しげな雰囲気はそのままに、力強さを感じる語感で彼はこう答えた。
「形のないものを信じようとする者にしか、その石は特別な力を与えてくれないということです」
この黒い石は、僕と彰君の予想通り、錫石だった。
老紳士が若い頃、仕事で世界中を飛び回っていた時に手にしたものだった。マレーシアの山岳地域で、とある民族の酋長から彼はこの石を譲り受けたとのこと。
「あなたはこの石を持つ価値がある、と彼に言われました。私があなたにそう言ったようにです。当然私だって、あなたのように訳が分かりませんでしたよ」
まるであの時の土手での僕のようだ。
「石だけでなく、その人々の質素ながらも何処か満たされている暮らしに触れることができました。言葉は片言でも、全く通じなくても、伝わるものはあるのです」
その柔和な言葉に語る表情。見知らぬ人の懐に屈託なく飛び込めるのが、彼なのだろう。
「目に見える成果だけを信じて疲れ果てていた私にとって、見えないものの価値を知ったことは、大変な衝撃でした。それでも曖昧ながら、そういう力が何かを衝き動かしている。そうあって欲しいと信じたい自分がいたからこそ、気付いたのでしょうね」
僕も投げ捨てなかった。期待した自分がいた。
何かにすがりたいという彼のような思いが、もしかしたらあったのだろうか。
僕は彼の言葉を、何度も心の中で繰り返していた。
一年と二ヶ月、余りにも目まぐるしくて、振り返ることをすっかり忘れていた。
周りから見たら些細な出来事も、本人にとっては大事件だ。
そんな困難を自分のことのように何とかしたい。そんな思いをこの石は僕に湧き上がらせてくれた。
その人が少しでも幸せになればいい。それだけの動機だけれど、僕はそれに背中を押されて動いたんだ。
気付くと午後六時半をとうに過ぎていた。確実に母に怒られるが、この機会は逃してはならない。答えはまだぼんやりとしたままだ。そんな僕に老紳士は質問を投げ掛けた。
「それでは一つ。あなたが今、最も大切にしたいと思うものはなんですか」
彼の語り口に騙されて、難しい質問だと思い込んだ僕は考え込んだ。これという正解があるのだろうか。
「はい。修理が終わったようですよ。これが答えです」
峰夫さんは父の万年筆を彼に手渡し、彼の手から僕は万年筆を受け取った。こんな立ち話をしている間にもう修理が終わったなんて、本当に凄い腕前だ。
「今あなたは、西田さんの技量に感嘆しましたね。その彼の仕事が、答えなのですよ」
「えっ……」
僕は万年筆を凝視した。流行りの色ではないが品のある光沢を放つ黒。金属部分に何気なく彫られたメーカー名のロゴは明らかに年代物であることを示している。
父はこれをどれだけ使い続けているのか。そして西田さんは何度この万年筆を蘇らせてきたのか。
使い続けること……使い続けたいと思えるもの…そう思わせるものって……