[小説 祭りのあと(26-終)]五月のこと~万年筆の教え(後編)~
答えは難しくなんてなかった。そうか。そうだったんだ。
「今の僕は、繋がること……繋げていくことだと思っています」
彼らは僕の言葉に、穏やかに頷いているように見えた。
「信頼し合える関係を誰かと築いて、その思いをお互いに、ずっと長く持ち続けられるように努力し続ける……それがきっと、誇りを持って生きることに繋がると思っています」
僕は手の中の万年筆を見つめながら、導かれるように正解を口にした。彼と峰夫さんは穏やかに微笑んだ。
若い頃……今でもまだ若造なのだけど……一人で立派に生きている、生きていけるなんて思い上がっていた。初めてこの街を出た時など、なんとなくせいせいとしていた。
その時だろう。自分のてっぺんからつま先にまで巡っていたものを、自分でも気付かぬうちに、うざったいと乱雑にしまい込んだのは。
それが何なのか、気づかないままに。
社会に出て大分慣れた頃だろうか。
気が付けば、何処かも分からないところに、小さな穴が空いていた。
順調にいっている筈なのに、その穴からじわじわと巣食われているように思えた。
僕はみんなとこんなに楽しくやっているのに?いや、そもそも本当にそうなのか?
ー孤独ー?
一言で言えばそんな感じのもの。でも、ずっともっと、仄暗いもの。痛々しいもの。
返信のないメール。すれ違いの終業時間。何ら特別でもない、いつものことなのに。
誰もが自分のことで精一杯なんだと感じた。いつしかその誰かに、愚痴という率直な思いを口にすることさえためらわれた。日増しに勤怠の挨拶以外、無口になっていった。
代わりに目の前に差し出してもらえる楽しげな業務で、その穴を埋めようとしていた。
こいつだけは、僕を相手にしてくれる。そう信じたかった。
そんな日々の中……残業続きの末に終電を逃したある木曜日。梅田の地下街で行き先を見失った瞬間、ここには僕の居場所がないと、ふっと胸の中が凍えた。
ーお前が望んだんだろ。この世界をー
不意に苛立った。飲みかけのブラックコーヒーのカップを、床に叩き捨てた。
気付かなければそのまま幸せでいられたと思う。でも、気付いてしまった。
日に日に増していく仕事での達成感で麻痺している間に、僕はそれがどこにあるのかを忘れ、遂には思い出せなくなっていた。
すぐ近くにある時には必要だなんて気付かないのに。故郷での日々では手を伸ばせばすぐにあったのに。ふと寂しく、苦しくなった途端に、助けて欲しい、支えて欲しい、あの感覚…でも……思い出せない。
そいつをしまい込んだ筈の引き出しを、幾つもひっくり返して何度も探した。どこにもない。大声で叫びたい苦しさを、深いため息でごまかす日々。
でも、もう塞ぎ切れないほどに大きくなり過ぎてしまった。
いつしか僕は、一人ではまともに立っていられなくなっていた。
金曜二十三時過ぎの帰り道、淀屋橋の欄干にもたれて滲む大阪駅を見ていた。僕は泣いていた。
すぐに券売機で新山口に停まる新幹線を探した。明日の朝六時なら……
降車駅……特急券……そんな操作など、とっくの昔に指が覚えていた。
でも、最後の「発券」が押せなかった……
肩を落として改札を通り、責任と意地のためだけに、一人きりの部屋へ帰った。
そんな僕が二年半前、この街に戻った。父の代わりになるため、戻ると決めた。
居場所ではないと思えた街以上に、僕がいてどうなるものでもないと思っていた。
小さな電器店やこんな古びた商店街なんて、今時すぐに無くなってしまうものと諦めを抱きながら。こんなことを続ける意味って何なんだって、腑に落ちていなかった。
でも今ここにいる僕からは、そんな思いは頭から消え去っていた。
あんなに探しても見つけられなかったものが、ここにあったんだ。
未来に迷い悩みながら前に進む若者たちに、それを見守り、見送る大人たち。
「しゃーないなー」と僕のくだらない思い付きに、とことん付き合ってくれる陽治に幸。
「一生懸命やるあんたの顔は、やっぱ最高じゃ」負けて悔しがる僕をいつでも励ました母さん。黙って微笑み頷いていた父さん……
一瞬でも人生が交差する。それだけでも僕らは繋がっている。
その繋がりはきっと切れない。それを実感すること、ただそれだけのことで、毎日が喜怒哀楽に満ちてくる。
それは拒否することだってできるだろう。そういう人生もあっていい。
だが自ら望んで、努力さえすれば、その数多な繋がりは長くも太くもなり、絡み合ったり解けたりしながら強くなり、また増えてもいく。
僕はそっちを選んだ。最初から手の内にあった、気付かぬうちに見失っていたもの、今ここに、確かにあるものを大切に持ち続ける。
そのほうが、自分らしいと思った。
そして今の僕には、その糸がたくさん見える。
余りに多過ぎて、時に複雑で、面倒でもあり困ってしまうくらいだ。
でも、これがいい。答えのない謎解きがずっとできると思えば、楽しいものだ。
「この石はお返しします」
僕は老紳士の右の手のひらに錫石をそっと置き、手離す前に言った。
「次の人が、待ってますから」
彼は黙ったまま、笑った。
「僕にはまだ、誇れるものはないかも知れません。ただ、衝き動かされるがままではなく、そこに意志があれば自分の誇りにきっと繋がる。そう信じています」
恥ずかしげもなく真面目顔で答えた僕に対し、老紳士は柔和な表情を返した。
「大いに結構。私の直感はやはり間違っていなかったようですね」
僕は一礼し、万年筆を握って外へと駆けていった。後ろなど一切振り返らなかった。
石を初めて手にした頃の僕はまだ未熟だった。今でもまだ一人前とは言えない。
だが今は、それを知っただけで十分だ。
やり切ったなんて思わない。やるべきことだらけだ。
もう黒い石はこの手にはない。でももう大丈夫だ。
これだけの人たちに支えられて、他に何の助けが要るんだ。
これからもずっと、彼らに見守られて僕は生きていくんだろう。
それならいつかはお返しをしなければならない。その人たちを支えられる存在になってみせる。
それが繋がるということ。これからは、僕の番だ。
「あれ、恭介さん。何を急いでいるんですか?」
これからアルバイトのかおると擦れ違い、僕は右手を挙げた。
「あーまいどー。また後でねー」
とにかく今は母と店番を替わらねばならない。夕飯が遅くなるからだ。
夕方の少し肌寒い晩春の空気を切り裂くように、僕は古惚けたアーケードを駆け抜けた。
完