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小説 俺が父親になった日(第六章)~あいつの思いと俺の事情(3)~

 樋口保育士は明らかに心配そうな表情だ。

 「随分きつそうですが…」

 「だ、大丈夫です…インフルエンザじゃなかったんで……」

 おい、何を言っている。全然大丈夫じゃない。俺の頭はもうどうにかなっている。
 それよりも大事な話があると、園長先生はまだ居られるのかと俺は尋ねた。目配せをしながら通り過ぎる俺をキラは少し不安げに見つめていた。

 「えっ…保育園を替えたいと?」

 俺はマスクをつけた顔を俯かせたまま、黙って頷いた。園長も樋口さんも困惑気味だ。

 「散々お世話になっているのに心苦しいんですが、私のほうがもう限界で…」

 自分が頑張りさえすれば乗り切れるだろうと、しかしそうではなかったと素直に告げた。
 通常通りに仕事をこなそうとすれば迎えの時間も定まらない。遅くなる日が増えれば増える程、自分自身にもキラに対しても全く時間が割けない事実に直面したことを。
 そしてその余裕のなさが、最悪の事態を引き起こしかねないと。

 病んでいる俺の醸し出す雰囲気が、応接室の空気を一層重苦しくさせていた。

 「しかし、府中近辺で今の時期に空きがあるかどうか…」

 保育園不足なのはどこも同じだ。新たな場所を探すことは困難を極めるだろう。
 今ここにキラの居場所が確保されているだけ、正直幸せなことなのだ。

 俺はこの空気にいたたまれなくなり、窓の向こうのキラへと視線を移した。
 同じくらいの背格好である男の子と絵を描いては見せ合い、そうかと思えばいきなり追いかけっこを始めたりしている。

 「あぁ、はるとくん。貴羅くんと一番の仲良しなんですよ」

 池内陽人。キラの次に迎えの遅い子なのだそうだ。
 母親は共働きで出産前の職場に復帰し、役職付きで仕事をこなしている。
 それでも遅くとも十八時には迎えに来ている。対して俺は二十一時を超えることだってある。

 「貴羅くんがいなくなると、淋しがるな、はるとくん…」

 小さく樋口さんが呟いた。

 俺は思い付きだけで動いたことを心底後悔した。
 それは俺だけの事情じゃないのか?
 俺はキラから、この場を、この時間を奪おうとしているのか?

 生きるためとはいえ、子供は大人にどこまで我慢を強いられたら良いのだろうと思う。
 遅くまで待つ我慢、親の都合で親友から引き離されることの我慢。
 どっちがいいなんて…どっちも嫌に決まっている。欲しいおもちゃが手に入らないといった些細な我慢ではない ー

 「今年もクワガタ獲ろうって、言ってたじゃないか!」

 ー 小学一年生の時の記憶。親の転勤で何処かへ引っ越していった健。
 いつもと違い黙って車に乗り込む姿を、俺はただ呆然と見送るしかできなかった。
 あんなに笑い騒ぎ合った仲だった筈なのに、もう最後の日なのに、俺は一言も声を掛けられなかった ー

 マスクの裏に隠しながら、俺は溜息をつくしかなかった。この判断は高熱で弱った今この時でなくとも、きっと難しい。

 「取り敢えずは風邪を治されてから考えましょうよ、中島さん」

 園長先生がそう言った矢先、やたらと元気一杯に少年のような声が響いた。

 「分かりました。こうしましょう! 中島さんが遅い日は私が貴羅くんを一時預かりしますよ!」

ー つづく ー


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