[小説 祭りのあと(15)]一月のこと~フラミンゴのじいさん(終)~
繁華街を避けながら幾つもの橋を渡ると、標識に広島港という文字が見え始めた。
その名も宇品通りという道に入ると、そこには線路沿いに歴史のありそうなお店が幾つも立ち並んでいた。古びた暖簾のお好み焼き屋もその中にはあった。
僕らは近場のコインパーキングに車を停めて歩いてそのお店に向かい、ようやく一息つくことができた。
そのお店は観光客相手ではないのだろう。おじさんとおばちゃんの二人で切り盛りをしていて、周りのお客さんの口々からは生粋の広島弁が飛び交っていた。
メニューは少ないが値段はかなり抑え目だった。僕らはおやじさんの作る手捌きに暫く見入っていた。そろそろ出来上がる。鉄板に零れた甘いソースの香りは、誰でも食欲をそそられるだろう。
「おぅ、おにいちゃんたち。食べ方知らんのか?」
「ええ。箸がないんですね。このコテはどうするんですか?」
「あぁ。そのコテで切って食べるんよ。箸もあるけど、どうする?」
「じゃあ、コテでいただきます」
広島風の基本中の基本である豚玉そば入りが、僕らの目の前の鉄板に現れた。
それはここが有名店ではないことなど、どうでもいいくらいに美味しかった。僕ら二人は口の中の薄皮が剥けるのも気にせずに、それぞれの大きさに切った塊を次々と口に放り込んだ。
僕が食べることに熱中している間も、話好きのかおるはおかみさんとの会話をしっかりと楽しんでいた。
どんな話を振られても、かおるは自分のペースに惹き込む話術を持っている。
お好み焼きの作り方のコツでも、カープなどの野球の話でも、すぐに対応できるのはやはりその頭の良さにあるのだろう。
「そうだ、おかみさん。上河内さんっていうお家、宇品にありますか?」
おっ。自然な流れでかおるは本題に触れてきた。こういう所もまた、彼女に感心する所なのだ。
「ああ。上河内…宇品って言うても広いよー。この辺りから港まであるけーねー。確か二軒、いや三軒あったかねぇ、父ちゃん」
「いや二軒じゃ。一軒は再開発で立ち退いてもうないわ」
僕らは思い掛けなく、偶然入ったお好み焼き屋で一気に核心に迫ることになった。
「そのなくなったお宅は、何処かにお引越しされたんですか?」
「ああ。年寄りしかおらんかったけぇ、子供が引き取って取り壊した筈じゃ」
「あと二軒、どちらにあるか教えていただけませんか!?」
僕らのお願いに、繁忙時間にも関わらずおばちゃんは地域の詳細地図を取りに行ってその場所を教えてくれた。僕はお礼がてらにお好み焼きを二枚追加注文して店を後にした。
歩いて行ける距離の一軒を訪ねたが、何も知らないとのことだった。
もう一軒は元宇品という海沿いの場所にあるとのことで、僕らは車に乗り込んで広島港へと向かった。
雨は本降りになってきた。たくさん駐車する車の中から、空いている場所をようやく見つけて、僕は車を駐車場に停めた。
歩いて十分近くしただろうか。僕らは古い小さな船舶部品のお店に辿り着いた。
店の名前に上河内とあり、間違いなくここだと二人は確信を得て、扉を開けた。
店の奥からは頭の上が少し寂しげな主人らしき男性が現れた。
僕は単刀直入にマスターを知らないか、彼に尋ねた。
「あぁ、角田さんねぇ……久し振りにその名前聞いたのう」
「ご主人、ご存知なんですか?」
外観と異なり白い壁がとても美しい店舗の天井を眺めながら、そのご主人は呟いた。
「彼はねぇ、わしの妹の旦那さんじゃったんよ」
「元気にしとりんさるんかねぇ」
「えぇとても。僕ら宇部から来たんですけど、いつも優しくしてもろうて」
「そうじゃろそうじゃろ。あの人はほんにええ人じゃったけぇのぅ」
上河内さんは一切躊躇することもなく、穏やかに僕らと話を続けてくれた。
「角田さん、何も昔のこと話してくれんのですよ。広島におったことさえ全然」
僕のその言葉に、上河内さんは少しだけ表情を陰らせてこう言った。
「そりゃそうじゃろ。明子のことをほんに好いとってくれたけぇ。死んだんが耐えられんかったんじゃろう」
マスター。いや角田さんは生まれも育ちも広島の呉で、東京が本社の大手商社に勤めるエリートだったのだそうだ。
明子さんとは彼女が勤めていた宇品港の旅券売場で偶然知り合い、一目惚れした角田さんの猛烈なプロポーズで付き合うことになったのだそうだ。
「わしもそうじゃが、明子は被爆二世じゃけぇ、結婚には乗り気じゃなかったんよ」
迷惑を掛けるのが嫌で、それまで誰の誘いも断っていたのだが、角田さんの押しはもの凄く、断るにも断れなかったのだそうだ。
「明子が言うたことじゃがの。
『それが何なんじゃ。二世だろうがなんじゃろうが、わしは全く気にならん。わしがあなたを絶対に幸せにする、絶対にしてみせるけぇ』
とな、角田さんが何度も言うたそうじゃ」
気を遣い過ぎる彼女を精一杯元気付けたかったのだろうと、上河内さんは続けた。
「動物園の写真を、私たち見させてもらったんですけど」
「おぉ。あれは安佐にできてすぐに、彼が明子を連れてってくれんさったんよ。あの頃はまだ広島も遊ぶ所が少なかったけぇ、張り切って角田さんがドライブして行ってくれたんじゃ。あぁ、ちょっと待っとってよ」
そう言って上河内さんは奥へと何かを探しに行った。
戻ってきた彼の右手には、ガラス製の小さな置物だった。
「フラミンゴ、ですね」
「そうよ。綺麗だって明子がえらく気に入ってのぅ。角田さんに買ってもろうたって、えろう喜んどったわ」
それから結婚までは早かったそうだ。
派手なことは恥ずかしいという明子さんの思いを尊重して、身内だけのささやかな挙式だけを開いたのだそうだ。
「じゃがのぅ。間もなく明子の調子が悪ろうなったんよ。放射能のせいか何かははっきりせんかったんじゃが、血液に異常が見つかってしもうたんよ」
倦怠感に悩まされた彼女は、病院で精密検査を受けたのだそうだ。そして出された結果は、慢性骨髄性白血病だった。
「明子はえろう落ち込んでのぅ。角田さんに別れようとも言うたみたいじゃ。じゃけど角田さんは言うたそうじゃ」
『絶対に幸せにすると言うたじゃろ。わしが治してみせるけぇ、待っとれ』
角田さんは県内、いや全国各地の病院に問い合わせをして、仕事で多忙な中でも彼は受け入れ先を必死に探したそうだ。
当時は骨髄移植も広まっておらず、不治の病としてほぼお手上げの状況だったのだが、せめて辛さを緩和できる病院はないかと、角田さんは探し続けたのだそうだ。
その間に治療法ができれば、きっと助かる筈だと。諦めるつもりなど一切なかった。
「ようやく受け入れ先が見つかったと、彼が喜んで家に来んさった時、療養しとった明子はほんに嬉しそうじゃった。丁度今日みたいな雪の日じゃった」
雨の音が穏やかになった。ふと店の外を見ると、雨粒は水気を含んだ大柄な雪へと変わっていた。
「ほいじゃがのぅ、病院に移る日の朝のことじゃ。明子の状態が急変したんよ」
たった一日を、何故神様とやらは待ってくれなかったんだろう。
「赤十字に緊急搬送されて、出来る限りのことはしてもろうた。角田さんもわしらも、廊下でただただ祈った。でも、いかんかった。前日までご飯も普通に食べよったのに、急過ぎた。何でじゃ、何で連れていくんじゃと、角田さんは明子の手を握って泣き続けたんよ。今までの威勢は何処に行ったんかと思えるくらいに、憔悴し切ってのぅ……」
店の前を通り過ぎる車の音も年代物の路面電車のレール音も、降り積もる雪に包まれていつの間にか聞こえなくなっていた。
「葬儀が終わってすぐに、彼は家に挨拶に来たんよ。
『明子さんは上河内の墓に入れてあげてください……』
あげんに好いてくれよったのに、何でじゃと聞いたらなぁ……
『……守れんかった僕には明子さんを弔う資格がありません……』
明子のためにあげんにしてくれんさったのに、何もできんかったと全部背負うてしもうたんじゃろう。そんなん言われちゃあ、わしらもそれ以上、何も言えんかったわ……」
結婚してたった半年で最愛の奥さんを失った角田さんは、全てを失ったも同然だった。
会社を辞めて、広島からも離れると告げたきり、二度と現れなかったのだそうだ。
駐車場へ向かう僕らの足取りは重かった。
湿った雪を、敢えて踏み潰すように僕は歩いた。
かおるは視線を下に向けたまま、みぞれ雪を軽く蹴った。
知らなくてもいい、思い出す必要のない過去もあるのだと二人は知った。
「少し休憩しません?」
沈んだ空気を変えようと、かおるは提案した。僕はそれに乗り、広島港のターミナルビルへと入った。
一階の待合席に二人は座り、缶コーヒーを飲みながらガラス張りの港を眺めていた。
風が一瞬強くなり、降り続く雪は高く舞い上がった。
江田島行きの船の出発アナウンスが響いた。雪の舞う中、人々は足早に小さな船に乗り込んでいく。
そして船が汽笛を鳴らすと同時に、電光掲示板には呉行きの出発予定が表示された。
「なんか、寂しいね」
僕がそう呟くと、かおるは「でも」とその言葉に反応した。
「私、分かります。多分だけど。明子さん、凄く嬉しかったんです、マスターにあれだけ愛されて。全てを受け入れてそれでも守るって言われたら、どれだけ嬉しいことだろうって。短かったけれど、幸せだったんじゃないのかなって」
「マスター、今でも気にしとるんかな」
あの写真を見つけた後、僕よりもマスターと顔を合わせている彼女に僕は尋ねた。
「気にしているというより、まだ整理できてないのかも……写真を見た時の笑顔は、嫌なことを思い出していたら出なかったと思います。広島を離れた時のまま、時間が止まっているのかも知れないですね」
松山発のフェリーが到着した。ターミナルに様々な人が押し寄せてきた。
誰かが迎えに来るのだろう。籠を背負ったおばあさんが腰を下す場所を探していたので、僕らはこちらへと席を譲った。
「さて。帰ろうか」
車へ向かう間も、車中も二人の間の言葉数は少なかった。さっき買ったお好み焼きは当然冷め切っていたが、親へのお土産だからこれで十分だろう。
行きはあれだけうるさかったかおるもまた、土産など特に気にする様子はなかった。
帰りは上河内さんから預かったものを手にしたまま、ずっと黙ったままだった。
バレンタインデーという、僕のような男にはとても鬱陶しい日がやって来た。
ここ一週間くらい、東口すぐのパティスリー・ウエムラはもちろん、和菓子専門の筈の岡本製菓店までもがお客さんで賑わっていた。
何でもあの光男さんがキューブ状のカラフルなゼリーを小さな箱に入れて売り出したところ、女性たちに可愛いと評判になったのだそうだ。
もちろん僕は、その恩恵には与かっていないので、どんなものかは知らない。
「はい。マスターどうぞ」
ピンクの包装紙に包まれた小箱を、かおるはマスターにカウンター越しに渡した。僕はかおるに呼ばれたことは内緒にして、仕事終わりにフラミンゴでコーヒーを頂いていた。
「おっ。もしかしてこれは、バレンタインデーかね」
嬉しそうに包みを開けると、マスターは一瞬言葉を失った。
しかしすぐに箱からその原因となったものを取り出して、マスターはかおるに微笑んだ。
「そうか……うん……なかなかやるのー、君たちも」
パステルピンクの硝子のフラミンゴは、温かな光に照らされてより一層華やかに輝いて見えた。
「上河内さん、久し振りに話したいって言っておられましたよ」
マスターは笑顔のままで頷き、いつか必ず行けるさと僕らの前で呟いた。
彼はそのフラミンゴをしばらく灯りにかざし、カウンターの端に置き、小さなハート形のチョコレートをつまんで口に入れた。
その味は甘かったのだろうか、ほろ苦かったのだろうか。
どちらも複雑に絡み合って、その小箱はマスターの止まったままの時計を、少しだけ前に進めたように僕らには思えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?