見出し画像

小説 俺が父親になった日(第六章)~あいつの思いと俺の事情(1)~

 薄暗い駐輪場からバスロータリー側に、同じ方向への乗客に流されながら俺は一つ咳をした。
 到着した一台のバスの窓には、指で書かれた筈の、垂れた滴のせいで原型が既に分からない文字が見えた。それが何なのかを想像する気力もなく、切り替えるための息を一つ吐いて入口へと向かった。キラを送り届けて火照った身体に、駅前で気まぐれに吹く寒風は一層冷たい。

 駅から離れた幼稚園と俺のマンションとの直線距離は近かった。キラの送り迎えという点で自転車という手段は至極合理的なものだった。しかし通勤するには遠回りになる、相当ヘビーなスケジュールという事実には、何ら変わりがない。

 満員の区間急行で吊り革の輪に右手をくぐらせてぶら下がり、俺は吊り革の揺れるがままに揺れながら、高速で通り過ぎる冬枯れの街を視界に入れていた。
 半年も経っていないのに、俺はすっかり疲れていた。心も折れかけていた…いや、もう折れているのかも知れない。
 仕事と子育ての両立なんて世の中はよくも簡単に言えたものだ。世の母と、親と呼ばれる人々に対する尊敬と、まともな親になれない自分自身への苛立ちと無力感とを同時に感じる日々ばかりだ。

 朝から晩まで、未だに俺はキラから易々と目を離すことができなかった。
 朝に起こす。トイレを粗相なく済ませる。朝晩の食事をきっちりと取る。そして寝かしつける。どれもこれも、半年経ってもこれという正解に辿り着けない。
 言葉で言うのは酷く簡単なのに、どれか一つが上手くいかないだけで、俺の一日のリズムはあっという間に狂ってしまう。

 幼稚園でもきつく言われたこと。俺の乱れやすい生活にキラを合わせさせることはできないし、させてはいけない。分かっている。
 幼いうちは自分で規則正しくなんてできない。それが当たり前なのだから、親がそうできるように環境を作らなければならない。

 そうだ。理屈は正しい。分かっている。
 ただ、頭では分かっていても現実にはできないこともある。

 子供と対峙することで、大人になってすっかり出来上がったリズムとの違いを、ここまで思い知らされるとは。
 子供との日々をただ淡々とこなす。ただそれだけのことがここまで自分自身を日ごとに消耗させ、じりじりと追い詰めるものだなんて、俺は思ってもみなかった。
 
 「同じこと何度言わせんだよ!?」

 疲労と余裕の無さから感情的にキラを怒鳴ることが、日に日に増えていった。

 「またかよ!?面倒臭ぇな!」

 俺の調子の良し悪し、キラを受け入れる余裕の有り無し。俺の怒号にキラの泣き声。けたたましい応酬の数とそれはいつも比例した。
 情けない。子供のケンカだ。子供が子供を育てているとは、よく言ったものだ。

 気付けば自分の子に、莉紗にしていた過ちを再び犯してしまっていた。
 困るのはその自覚があることだ。すぐ自己嫌悪に陥ってしまう。
 口にしてしまった直後に訪れる後悔。その繰り返し。繰り返せば繰り返すほど、不甲斐なさが積もり積もる。

 出来の悪い日ほど、ベランダでの煙草の数が増えてくる。

 なんであいつは上手くできない…俺のやり方の何が間違ってるのか…
 どうやったら言うことを聞くんだ…いや、なんで俺はああしか言えないんだ…
 なんであいつはー

 締め切った窓の向こうのあいつは、サインペンを何色も使いこなしてお絵かきをしている。集中した表情。時たま出る「よくできた」といった笑い顔。
 まるで俺が怒鳴った今朝のことなんて、すっかり忘れたかのように。
 そんな姿を、表情を俯瞰する度、ようやく思い直す。

 俺以外に、あいつは誰を頼ればいいというのか?
 そんなキラに、俺は一体、何をしている!?
 立派に育てると言ったのは、何処のどいつだ?

 あの頃決して自分を責めるなんてなかった俺だからこそ、そのダメージは深い。
 それでも俺なりに、周りの助けを有り難くも借りながら、ここまでやってきた。一度は失いかけた社内の信頼も大分戻ってきた。もちろんキラに不自由がないようにと努めてきたつもりだ。

 しかし今、俺自身が壊れそうだ。

ー  つづく ー


いいなと思ったら応援しよう!