[小説 祭りのあと(11)]十二月のこと~ユウジの鳴らすAマイナー(前編)~
冷たい雨が降り出した午後六時過ぎ。いつものようにパフォーマーたちがアーケードにちらほらと現れ始めた。
革製のトランクから様々なジャグリングの道具を取り出す者。
大きなケースから出した中古のウッドベースをセッティングする者。
テーブルマジックを披露する者もいれば、ヴァイオリンを構える者もいる。様々な人々が毎日のように集まってくる。
一般的にこういった路上パフォーマーは人が集まることで騒ぎにもなり易く、何処でも敬遠されがちだ。
しかし大崎代表はその「人が集まる」という点を有利な方向と捉えた。
二年前、彼の発案から、人通りがまばらになってくる午後七時以降に限り、商店街を彼らの活動の場として提供することになった。
雪の降り続く駅の狭い軒先でジャグリングを続けていた若者を哀れに思って、その提案をしたのである。
何を隠そう、かつてミュージシャンを目指した大崎さんにとっては、かつての若き自分の姿と彼らの姿が重なって見えたのだろう。
もちろんいい顔をしない店主もいるが、そこは大崎さん。好意的な店の近くに限り活動を許可することにした。少しではあるが商店街の集客にも彼らは貢献しているのが、何よりの救いなのである。
彼たちにも当然暗黙のルールが存在する。他人の縄張りには決して踏み入れないこと。新入りにはなかなか難しいところで、時にトラブルも発生する。
しかしそこは大崎さんの光らせる目で騒ぎはすぐに収まる。
彼の見事な管理によって安心してパフォーマンスできるとの評判が広まり、宇部はもちろんのこと小野田や小郡、防府からまでここを目指してくる者がいる。
「仏の大崎」と密かに言われるほど、彼はパフォーマーたちから慕われているのだ。
太田ユウジもまたその中の一人だった。
彼は何処のメーカーだかモデルなのか分からない、中古のアコースティックギターをいつも背負って現れた。
しかしそんなギターがとんでもなく上等と思えるほど、彼のギターテクニックは見事なものだった。
実は医大生である彼の手捌きは、一体どうなっているのと思える程の繊細かつ大胆、流れるようでもありながらメリハリの効いたものだった。
彼の指から奏でられるメロディに、通りすがる誰もが一度は足を止めるのだった。
「やっぱり凄いわー。ギターだけは」
午後九時五十分。幸はこの日もユウジの前に座り込んで、彼の奏でる音色に聞き惚れていた。僕はナガタピアノの二階にあるピアノ教室の音響設備の修理後に偶然通りすがって、久し振りに彼の曲を聴いていた。
「だけは」という幸の言葉に、僕だけでなくきっとあなたは引っかかっただろう。
そうなのだ。彼はギターセンスは抜群なのだが、重大な問題を抱えていた。
「ユウジ君。ギターだけにしたら?歌は止めたほうがえーと思う、やっぱり」
彼はこの言葉を何度も聞いている。苦笑いするのもすっかり慣れてしまった。
そう。彼は天才的に音痴なのだ。
ユウジという青年は無口で大人しいのに、演奏するのは海外のハードロックやヘビーメタルといった激しいものばかり。そういう曲のヴォーカルは、大抵高音でシャウトするのだが、当の彼は声が低く音域も狭い。
声質に選曲が完全にミスマッチなのだ。折角のプロ顔負けの演奏も、音域を無視した彼の歌声が全てを台無しにしてしまうのである。
路上ミュージシャンというものは、演奏と歌の両方がそこそこできる人の筈だ。そして実力のある者は場を踏む毎にどちらも上達してきて最終的に生き残るのだ。
しかし彼の場合、人目に晒すことでみるみる上達していくのはギターだけで、歌のほうは勘弁してくれと言わざるを得ない程に全く進歩がない。
「ユウジ君の一番得意なのって、何?」
「えーっと……ブラック・サバスですかね」
誰だそりゃ。幸にコソっと聞くと、イギリスの結構有名なバンドらしい。
試しに歌ってみてと言うと、ただのひっくり返った雄叫びでとても聴けたものじゃなかった。そのバンドを知らない僕でさえ、そのメロディは間違いだろうと分かるくらいの酷さだ。
確かにギターはバリバリに乗りまくっていたのだが、そもそもこの曲を、この商店街を通る何人が知っているのだろうか。
「えっとね……人に聴いてもらうんなら、まずはメジャー処を押さえないといけんね」
溜息交じりの苦笑いで、幸はベクトルを変えて質問をした。
「例えば、ボン・ジョヴィとか?」
「そうそう。それなら結構知っとう人もいると思うわ。歌える?」
幸の苦肉の策に応えた、彼なりのメジャー処はリヴィン・オン・ア・プレイヤーだった。
僕はあの女性芸人の歌う姿を想像して、一瞬吹き出しそうになった。
ギターは当然問題なし。ただ当然の如くあの高音が彼に出せる訳がなかった。出だしから見事に音を外した。
笑えるどころの話ではない。楽器の音階は完璧なのに、何故歌がここまでグダグダなのか、本当に不思議でたまらない。
「うーん。日本人のメジャーなアーティストとか……あぁ、サカイトシノリは知っとう?私、あの人の曲好きなんじゃけど」
「あぁ……知ってることは知ってますけど、あんなに明るく歌えません」
見事に即却下。歌ってみる以前の問題だ。
確かに最近の一二を争う人気のシンガーソングライターだが、幸も何故にそれを持ってくるかなぁ。そもそも路線が違い過ぎるし、あの難しい節回しを彼が歌える筈がない。
僕らは完全に頭を抱えてしまった。
「どうしてもって言うなら、ロックに拘らなくてもえーんじゃないんかなぁ?声に合った曲を探すとか……」
「どうやったらいい曲って、見つかるんですかねぇ」
聴く音楽が偏っている人間にとって、これは結構な難題なのだ。
僕だっていきなりブラック・サバスを歌えと言われても、絶対に無理だ。
「よぉ、こんばんは。随分お悩みだねぇ」
幸の背後からいきなり大崎さんが現れた。
彼の右手には一枚のCDがあった。
「これとかどうじゃ」
大崎さんが差し出したのは、なんと鶴田浩二大全集。
背は高いが色白でひ弱に見えるユウジと、まさに昭和の男といった任侠系の風貌が映るジャケットとを見比べて、僕と幸は相当なギャップに苦しんだ。
「さすがに『傷だらけの人生』はないでしょう」
「そうか?聴いてみんと分からんじゃろう。ユウジの声には合っとうと思うんじゃが」
さすがのユウジでも選ぶ権利はある。
ところが当のユウジの顔……その提案が何故だかまんざらでもなさそうだ。
気付くと例のごとく、僕の右ポケットが携帯カイロのようにほんのりと温かくなった。
この石を仕込んだら、あれ、使えるかな……。
「ちょっと待っとってよ。これ今聴いてみん?」
そう言って僕は家に駆け戻り、テープ再生の壊れた古いCDラジカセを持ってきた。
壊れたカセットデッキ内に黒い石を忍ばせて、そのCDをかけてみた。
「これ…面白そうですね。お借りしてもいいですか?」
思い掛けない出会いだった。彼は鶴田浩二大全集に魅かれたのであった。
今までに聴いたことのないその渋さに感銘を受けたのだ。
ユウジはいそいそとギターを片付けて、CDをギターケースの中に入れ、ラジカセを右手に下宿先のある暗い街へと去って行った。
彼の足取りが心なしか軽やかに見えたのは、僕の見間違いなのだろうか。
大崎さんはその後ろ姿を見て、満足げに腕組みをしていた。
一方幸は、彼がその歌を歌う姿が想像できず、疑問が残ったのだった。
「大丈夫よ。彼の演奏は完璧じゃけえね。ただコピーする訳じゃなーと思うよ」
僕と幸にはまだ、大崎さんのその言葉の意味がよく分かっていなかった。
歌の酷さに気を取られて、二人は彼の音楽センスの奥深さにまだ気が付いていなかった。
そんな僕たちを尻目に、大崎の爺さんはユウジに絶妙なキラーパスを蹴り込んだのだ。