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小説 俺が父親になった日(第一章)~不機嫌な俺と不遇なあいつ(2)~

 俺はようやく自分の部屋の前まで辿り着いた。こいつを抱えたせいで、ポケットに入れた鍵に手が届かない。俺はヒクヒクと愚図るこいつを床に立たせ、取り出した鍵を挿してドアを開けた。無言で背中を軽く叩いてこいつを中へと促す。
 外廊下にくっきりと残った濡れた靴の跡をちらっと見て、俺は深く溜息をついた。

 「ほら。まず脱がねえとな」

 油断した。でももう手遅れだった。こいつはベチョベチョに濡れた靴を脱いで、ベチョベチョに濡れた靴下のままで廊下へと上がった。先のことなど想像ができない、いや想像しようとも思っていなかった俺は、再び深く溜息をつき額に手を当てて天を仰いだ。

 「ち、ちょっと待ってろよ……動くなよ!一歩も動くなよ!一歩もな!」

 我に返った俺は、多少は大事に履いてきた白いスニーカーまでもあっさりとぞんざいに脱ぎ捨てて、リビングへと猛ダッシュで駆け出した。
 手にしたのは何日分もの新聞紙。おとといの新聞、五日前の新聞、今日の新聞……あっ!?まだ読んでもいないのに、勢い余って一番上に広げてしまった。小さな日付に気付き慌てたが、既にこいつの小さな足がそこに乗っかっていた。

 「はぁ……さて、どうしようか、なぁ」

 今日のだろうが何だろうが、ただの古新聞となったものの上にいるこいつは、半ズボンにパンツ、そして靴下を脱いだ。俺は未だ収まらない速い鼓動と共に肩を揺らせ、廊下にへたり込みながらその姿を見ていた。
 ……んっ?
 血液がドクドクと全身を巡っている。苦しいくらいに息をしている。
 意識的に止めていた思考が恐ろしい程自然に働く。
 死んだように生きていた俺は今、目覚めたかのようだ。

 鼻をすする音が静まった廊下に響く。下を向いたこいつの表情は、何処か窮屈そうに服を脱ぐ瞬間にしか伺うことができない。

 「あっ。お前、これまだおむつじゃねえのか?」

 新聞紙の上にパサリと落ちた音で、パンツだと思っていたものは紙製だとすぐに分かった。しかもそのおむつは、一度どころの濡れ方でない程に膨らみ黄ばんでいた。
 これじゃ漏れて当たり前だ。こいつの親は……いや、ジイさんだかバアさんだか知らないが、こんなになるまで一体何をしていたんだ。

 「おい。お前、誰と来てたんだ?どこではぐれたんだ?」

 そう俺が言うと、こいつは何度もくしゃみをした。
 そうだ。こんなことを尋ねるよりも、今は早く綺麗にして何か着させてやらないと。

 「風呂入るか?寒くないか?」

 俺が尋ねると、そいつは首を小さく横に振った。
 俺はバスタオルで拭き取り、殆ど着なくなった時代遅れの服を掘り起こしてこいつに着せた。明らかにサイズ違いの裾をグルグルと折り曲げて、取り敢えずは我慢してもらう。
 怯えるのも当然か。知らない大人の家にいきなり連れてこられたのだから。俺は小さく手招きして、ショートパンツを立派な長ズボンにしたこいつを部屋の中へと呼び寄せた。

 「ここ、ここ。座ったら?」

 固い表情の幼子は、それでも俺の促すがままにソファにちょこんと腰を下ろした。
 俺はようやくまともにカーテンを開けて、光と共に小さな客人を迎え入れた。

 俺はフローリングに胡坐をかいて、肩を落としてソファーの前に座った。
 俺はこの時、初めて同じ高さの視線でこいつと対峙した。
 ダボダボの黄色いTシャツの裾辺りをずっと見つめたままの心細い表情。きっと今、何を聞いても何も答えたくない筈だ。
 だが時が解決するような関係性は、俺とこいつには一切ない。なぜ一人きりでいたのかを知らない限り、次へは進めない。
 俺は順序をすっ飛ばした上に乱暴過ぎた尋問を多少反省した。子供に分かる表現を考えながらもう一度質問してみた。

 「親父さん、うーん、お父さん……パパはどこいったんだ?一緒にいたんじゃないのか?」

 床に映る二人の影が随分と短い。もうそんな時間になっていたのか。
 俺はそんなことを観察できるくらいに、こいつの返事をとにかく待っていた。せっかちで身勝手な人間だと自覚する俺にしては、結構我慢ができている。
 しかし結局我慢の足りない俺は、一分も待てずに口を開いた。

 「じゃあ、ママはどうした?」

 今度は手短に聞いてみる。
 これくらいの歳格好の子供なら、誰でも思うがままの言葉を口にする筈だと、俺は思い込んでいた。
 だがこいつの挙動が他の子供と違うことに、視線を合わせた瞬間でようやく気が付いた。
 そうするうちに、目の前の小さ過ぎる口元が動いたように見えた。何か答えようとしたのか?躊躇しているのか?俺は慎重に微かなその言葉を拾うことに集中した。

 「…いない…」

 「え?何だって?」

 到底想定できなかった言葉。俺はもう一度聞き返した。
 それがどれだけ残酷なことかさえ知らないままで。

 「―もう、いない―」

 「えっ……」

 なんてことだ。俺はまさか、こいつにとんでもないことを言わせてしまったのか?

 デリカシーがないというのは、まさにこういうことを言うのだ。
 無責任な屁理屈をぶつけてくる訳の分からない爺さんやおっさん相手ならまだいい。
 抵抗さえままならない、意思どころか表現力さえ曖昧なこんな幼子にまで、俺は鋭い刃を突き付けてしまった。
 根深く宿る思慮の浅い酷く恐ろしい俺の醜態は、この幼子に決定的に暴かれてしまった。
 言葉が見つからない。繕いようもない。耐え難い沈黙が部屋中を覆う。こいつは俯いたまま。そうだ。ここで何とかするのが、大人の役割だ。

 「お、お腹減ってないか?」

 懺悔の思いで精一杯の俺が搾り出した言葉は、何とも半端な話題のすり替えにしかならない残念なものだった。
 しかしこいつは、そんな言葉に小さく頷いてくれた。
 俺はその素振りをなんとか見逃さずに済んだ。密かに安堵した俺は、妙に元気よく立ち上がって冷蔵庫のほうへと歩みを進めた。

 ……っていうか、これくらいの子供、何食べるんだ?

 結局俺は何も思いつかず、カップラーメンを二人で分けることにした。一応歯も生えているようだからと小さなお椀に移して、使わないままのコンビニの先割れスプーンを渡して食べてもらうことにした。

 「そっか、まだすすれないのか…ちょっと貸してみな」

 俺はスプーンの背で麺を押し潰したりザクザクと椀を目がけて切り刻んで、出来の雑な離乳食のようなものに仕上げた。
 真夏に汗をかきながらガタゴトやっている俺を、この子はじっと見つめている。お椀とスプーンを再び目の前に置くと、コクッと首を縦に振って本当に大人しく食べ始めた。俺は麺をすすりながら、自然と上目遣いでこいつをじっと見ていた。

 俺の中で何かが変わっている…
 いつの間にか見ず知らずのこいつに対して、何かしらの感情が生まれている。
 そのことに気付くとほぼ同時に、俺は基本的な情報を聞き忘れていることにも気付いた。

 「なぁお前。名前なんて言うんだ?」

 口にしたスプーンを気持ちいいくらいに前に向かって抜き取り、モグモグとさせた後にこいつはこう言い放った。

 「キラ」
 えっ?何だって?聞き違いか?これが所謂今時の名前ってやつか?そういう名前を付ける親の気持ちを俺は一切理解できない。首を傾げ、眉間を険しくしたまま何度も瞬きをして、俺はこの状況を無理矢理咀嚼して理解しようとしていた。

 「キラ…?キラで合ってるのか?」

 そう尋ねるとキラはにこやかに右向き下へコクンと頷いた。
 こんな顔を見たのは、この時が初めてだった。それを見た時、俺に向けられたそのけれんのない笑顔の理由が、初めて会った時のこいつの言葉にあるのだとようやく分かった。

 名前を呼ばれること。いつもと同じ匂いがすること。
 たったそれだけのことなのに、こいつはそれが嬉しいのだ。

 「これやるよ、キラ」

 俺は小さな黄色い玉子の塊をキラのお椀に二つ入れてやった。羨ましい程に真っ白な歯を見せながら、キラは俺を見て素直に喜んだ。俺もまた自然と笑みがこぼれた。
 しかし、こんな時間ももう少しで終わりだ。本来の居場所へとキラを帰してやらなければならない。ほんの少し寂しさが心を過ったが、仕方のないことだ。
 俺は玄関先に置きっ放しにしていたキラの服を洗濯機に投げ込んで、中途半端で無用な思いを断ち切った。

ー つづく ー

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