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「電力会社の憂鬱」雑記

電力会社にお世話になっていた40年間。
振り返ると「緊張と緩和」に繰り返しであったような気がします。
「緊張」は「管理」、「緩和」は「緩み」と読み替えていただくこともできます。原子力職場という特殊な環境に身を置いていたためか、このことは特に実感として記憶に残ります。
記憶に新しい、東京電力福島第一原子力発電所事故。
テレビ会議で本社役員のさまざまな発言は「管理」そのものでありました。
また、関西電力の金銭授受問題や一連の不祥事は「緩み」の典型でしょう。
更にその前には、九州電力の現地説明会でのやらせメール事件などというのもありました。
関西電力の問題で、第三者委員会がガバナンス強化を提言しましたので、
これからは「管理」の局面に向かうのでしょう。。
何かあるとその対策として「管理強化」が叫ばれ、ほとぼりが冷めるとまた「緩み」が何かを起こす。
翻弄され続けてきたような気がします。

こんなことは、電力会社でなくてもあり得る話と思われることでしょう。
ただ電力会社には3つの不幸が重なって、目を覆いたくなる現状に繋がってきたものと考えています。

まずはその重厚長大さです。
戦後復興から高度経済成長を支えてきた電力。それぞれの時代の成長の血液としての役割を果たしてきました。電力マンはそのことにプライドを持ち、家族は「うちの子は、旦那は、電力マンだから一生安泰。もし出世できれば家の誉れ!」電力マン花の時代です。
でも、電力会社に群がる周辺の人々の意識は少し違いました。
水力・火力から、信じられないような電力量を生み出す原子力まで。どの時代でも電力会社の膨大な設備投資や運営資金は、それに関わる人たちの大利権であり続けました。時におだてまくり、時に恫喝し、利権の分け前にありつこうとする人と何度も出会いました。
プライド先行で、純粋培養のような社員が多い電力会社(これを自分たちではエリートと呼んでいます)では、全く無意識に、あるいはわかりながら「捨て置く」というか「無関心」であるケースがよくありました。
この風潮は今でも続いており、「電力さんに食わせてもらっている」という会社や個人は多数存在します。

次の不幸は、電気という商品特性です。
生産即消費という商品で、ユーザーは下手すれば商品を買っていることさえ意識にないかもしれません。
私も小説で使用しましたが、美しい送電線の姿はオブジェではなく流通設備です。(最近では少し変化はありますが、)特にお客様に営業するわけでもなく全くというほど外部から姿の見えない会社でありました。
何十年も続いた閉ざされた空間の中で、自分たちだけの企業文化・ルール・考え方を持ち、外部からはどんどん置き去りにされていってしまったように思えてなりません。
関西電力の「元助役から金品授受はあったが、怖くて返せなかった。何が悪いんだ!」というあり得ないような記者会見は、そんな中からでてきたものと思えます。
あの瞬間、記者や世間の反応をみて「世の中、少し変わっているかも。。」と初めて気づいたのかもしれません。

最後は、そのような電力会社を国が守り続けたことです。
総括原価主義の是非とか議論はいろいろありますが、この点は現役の経産省キャリアである、若杉冽氏の「原発ホワイトアウト」に論を譲ります。

現役の時は気づきませんでしたが、離れてみて思います。
電力会社はまるで明治維新の時に鎖国を解いた日本のようです。
外国では、鉄の船や大砲を建造しているのに、かたやちょんまげと袴、武器は刀だけ。
士農工商という自分たちにだけ通用する掟があり、武士=エリートだけがプライドのかたまりで、時代を乗り切れると勝手に思い込んでしまいました。切腹する勇気だけはありませんでしたが。

ではどうすれば良いのか。
私の私見は「電力会社の憂鬱」本編で、中村資源エネルギー庁長官に語ってもらっています。

ぜひご一読願います。
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