自分らしさという呪い
こちらの記事を読みました。
朝井リョウ氏は好きです。
「桐島、部活やめるってよ」は小説も映画も何度も見たし、直木賞を受賞した「何者」も衝撃だった。(就職活動中に「何者」を読んではいけない気がする。)
上記の記事では、「ナンバーワンよりオンリーワン」という個性が重んじられる平成という時代について語られている。
朝井リョウ氏は平成を「個人間の対立をなくそうとしていった時代」と表現している。
例えば、男はこうあるべき、女はこうあるべき、など価値観が外部からおしつけられ、苦労や抑圧があった時代が平成以前ならば、平成という時代はそう言った価値観を押し付けられることに疑問が持たれ、「自分らしさ」「個性」が尊重され始めた時代だというのだ。
それはとても素晴らしいことだけど、それは自分自身で「自分らしさ」つまり「自分がどう生きたくて、どう在りたいのか」ということを自分で考え、自分で決めなければならない、ということだ。
外部からの抑圧や、強制された価値観は、(過度なものであったり、本人の意向や趣味嗜好などと大きく乖離がなければ)それはそれで楽なことかもしれない。
自分の人生を自分で決める、ということは(当たり前のことだけど)自分の人生に自分で責任を持つということだ。
うまくいっても、失敗しても、自分の責任だ。
それに対し、自分以外の外部の価値観や物差しに任せている状態というのは、責任転換ができる。
うまくいったら、そこに対する信頼性が増すし、失敗したら自分自身を責めず、他者を責めることもできる。(結局は自分の責任なのだけど)
でも、みんなが「自分らしく」というものを持つことは酷なのではないかとも思う。
自分が何をしたくて、何が好きなのか本当に理解することはとても難しいから。
だからみんな「自分らしく生きること」に執心し、悩むのだと思う。
僕も「自分らしさ」や「自分の本当にやりたいこと」がわからず、悩んだこともあるのだけど(というか今もわかっていない)
豊島ミホ氏の「底辺女子高生」というエッセイを読んだときにかかれていた一文が答えなのではないかと思った
その一文とは
「本当の私」なんて探してもいません。、
というものだ。
「本当の私」というものがいるようにみんな思っているけど、そんなものはなくて、今自分が向き合っている自分自身がすべてなのだと思う。
「こんなはずじゃない」「もっと出来る」などと思うかもしれないが、今現在自分にできていることが自分のすべてだ。
じゃあ、ずっと変わることができないのかというとそんなことはなくて、努力や行動で変わることは出来るとおもう。
でも、そこで出会うのは「本当の自分」ではなくて「新しい自分」「今まで知らなかった自分」だと思う。
どちらが「本当の自分」ではなくて、どちらも「自分」だ。
自分を探しにインドに行っても、「本当の自分」は見つからないが「新しい自分」には出会えるかもしれない。
(例え、インドに行った結果「インド合わない」「インド無理」という感想を抱いたとしても、それを知ることができたのは「自分の知らなかった新しい自分」と出会えたということだと思う。)
そう、自分とは「探すもの」ではなくて「出会うもの」だと思う。
だから「自分らしさ」や「やりたいこと」がわからず悩んでいるなら、とりあえず自分を探すのではなく、興味があること、楽しそうなことをやってみればよいのではないだろうか。
そうした先におぼろげながら見えてくるのが「自分らしさ」なのかもしれない。
「あなたはあなたらしく生きればいい」という言葉はとても素敵だと
思うけど、
それは「あなたらしさ」「自分らしさ」が分からないととても辛い言葉かもしれない。
だから、その前に
「あなたは楽しく生きればいい」であれば良いなと僕は思う。
久々に朝井リョウ氏と豊島ミホ氏の本を読んでみたくなった。