なぜ「ダウンロード権」は人権なのか

著作権法の改正による違法ダウンロード範囲の拡大に対し、さまざまな方面から激しい反対が起きています。その反対の多くは、「適用範囲が広すぎるためにネット利用が萎縮すること」を理由にしているようです。

しかしこの反対理由は、問題の本質を少し外しているように思えます。国民にとって、真に問われるべきことは「ダウンロードする権利を、著作権がどこまで制限していいか」ではないでしょうか。「著作権という権利をどう守るか」という視点からは、この本質は見えないと思われます。

そして、ダウンロードする権利は人権である、と国民は言って構わないと思います。

憲法には「表現の自由」や「言論の自由」などは書いてあります。でも「ダウンロードの自由」なんて書いてありません。そんな権利はあるのか?と思われるでしょうから、少し説明してみます。

(ちなみに、今では広く人権と認められているプライバシー権も、憲法には書いてありません。)

憲法には人権の一部しか記されていない

わが国の憲法は、前文と第13条で広く自由主義をうたっています。前文の「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」という部分と、13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という部分です。

その上で、具体的な権利として、思想と良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、言論・出版・表現の自由(21条)、学問の自由(23条)、財産権(29条)などを規定しています。私たちは普通、この具体的な権利が人権だと考えています。「新聞社への弾圧は言論の自由を侵害する」などと言うのはそれです。

では、憲法に明記されている、こういった個別の権利だけが人権なのでしょうか。これらの権利だけが守られていれば、人権は守られていると思っていいのでしょうか。

仮にいま国会(わが国の最高権力ですね)が、「国民は家の外では目を開けてはいけないし、耳もふさいでいなければならない」という法律を作るとします。国民が家の外で目を開ける権利や耳を開けている権利などというものは、具体的な権利としては憲法に書かれていません。

では、そんな人権はなくて、こういう法律を国会が作るのは構わないのでしょうか。そんなことはないですよね。憲法に書かれていなくたって、何か見たり聞いたりするのが自由なのは当たり前です。表現の自由や学問の自由が憲法に書かれていても、そういう活動を実際にするための、何かを見たり聞いたりする行為が制限されているのでは、表現や学問の自由が国民にあるとは言えないでしょう。

だから、外で目を開けたり何かを聞いたりする自由というのは、憲法に明記されていなくても、国民にとっては守られるべき人権の範囲に入っていなければおかしいのです。13条に書かれている広い意味での自由に含まれていると考えることもできますし、表現の自由などがそういう人権を前提として含んでいると考えてもいいと思います。どのように条文を解釈するにせよ、国民からしてみれば、その権利がないと、憲法が規定する人権の全体が矛盾した意味不明なものになってしまうからです。

別の例として、もし国会が、麻薬などと同じように、「国民は紙やハードディスクなど、情報を記録できる物や、実際に記録されている物を所有してはならない」というような法律を作って、書物や電子メディアなどの記録物や記録媒体の所有を完全に禁じたらどうでしょう。これは財産権の制限ではありますが、それだけのことでしょうか。思想・信条の自由、表現や言論の自由、学問の自由のためには、その元となる何かを知る必要があります。記録できる物、記録された物を持つことが一切禁じられたら、いったいどうやって十分な知識を得て、どうやって学問の成果や文化を引き継いでいけるのでしょう。聖書などの教典の所有を禁じておいて、信教の自由があると言えるのでしょうか。

このように、自由はお互いに関係しています。何かを禁止する法律に、憲法に明記されている表現や言論などの個別の自由を直接に制限する規定がなくても、そういう自由の目的を達成できなくすることで、事実上その自由を国民から奪うことは可能なのです。

デジタル化と人権

わが国の憲法は、デジタル技術が広まる前に作られたものです。デジタル技術に関係する人権というものがもしあるとしても、それは憲法に書かれていないでしょう。

デジタル技術はどのような情報でも、0と1という数の並びで表わします。これが、ネットでさまざまな情報を正確にやり取りできるようになった理由です。デジタル化以前は、情報は主に紙に書かれ、その紙という物体を受け渡すことで情報をやり取りしていました。デジタル化によって、物体を受け渡すことなく、情報だけをやり取りできるようになったのです。それがネットです。

この「情報だけをやり取りする」というのが、違法ダウンロード問題の大きなポイントです。

情報を、紙に書かれた本や雑誌、新聞などとして手に入れる時や、何らかの出来事に出会って紙にメモする時などには、紙という物体が手元に残り、その紙は所有権で守られます。政府や他人が勝手にそれを奪うことはできません。そこで紙の所有が禁止されているなら、上に書いたように、表現などの自由は事実上ないも同然です。

デジタル化は今よりもさらに進むでしょう。紙の本や雑誌や新聞が消え、すべての情報がネットでやり取りされるようになったとき、ネットを通じて触れた情報を手元の媒体に記録することが禁じられていたら、やっぱり表現などの自由は事実上存在しないことになってしまいます。

考えてみて下さい。そんな状況で、誰かが何かの言論を発し、それがおかしいから反論しようと思ったとき、相手が何を言ったのかどうやって正確に引用できますか。それより、誰かが何かを言ったと誰が確信を持って言えるでしょう。そんなことでは、学問の進歩だって文化の発展だって期待できないでしょう。

憲法に具体的に書かれている思想・表現・言論・出版・学問などの自由の基礎となっているけれど、憲法に書かれていない人権がここにはあるはずです。それは、「触れた情報を取得し保持する自由」と名づけられるでしょう。この権利(長いので、仮に〈知る自由〉と呼ぶことにします)があって初めて、表現の自由などの人権が実質的に守られます。表現の自由が人権であるなら、〈知る自由〉も――外で目を開ける自由と同じように――国民にとっては人権であるはずです。

デジタル化前にこの〈知る自由〉が意識されることなく、またあまり大きな問題にならなかったのは、紙などの媒体に対する所有権が間接的に〈知る自由〉を守っていたからでしょう。デジタル化によって多種多様な情報が媒体を離れて流通するようになったために、問題が大きくなってきたのだろうと思います。

ネットで触れた情報を取得し保持するとは、まさに「ダウンロード」のことです。だから、表現などの自由が守られるべき人権ならば、それと同時に〈知る自由〉である「ダウンロードの自由」も人権であるはずなのです。

「違法ダウンロード範囲の拡大でネット利用が萎縮する」と言われます。自由であるべきと当然に思われる限度を超えて禁止される、と私たちは感じているのです。その結果、表現(二次創作など)や言論(批判など)や学問(資料収集など)の自由が狭まるのですよね。このことは、それらの自由の基礎になっている、意識されてこなかったけれど実はとうに存在していた人権である〈知る自由〉が、著作権の強化によって狭められようとしている証拠ではないでしょうか。

以上から、憲法に明記されていない〈知る自由〉という人権が国民にはあり、だからネットにおいては「ダウンロードの自由」という人権がある、と結論できると思います。

こう考えると、著作権法においてもともと私的複製が許されているのは、お目こぼしなどではなく、〈知る自由〉という人権から当然に要求されるからだと言えます。許される私的複製の範囲を狭めると、それに応じて〈知る自由〉が制限されます。この規定の変更がしょっちゅう問題になるのもわかりますね。人権の範囲を変えるのはおおごとですから。

まとめ

「触れた情報を取得し保持する権利」である〈知る自由〉は、憲法には明記されていないけれど、表現や学問などの自由の基礎として当然存在している人権のはずです。デジタル化以前はこの権利は所有権で守られてきましたが、デジタル化によって情報そのものが流通するようになり、所有権で守られなくなりました。

ネットにおける〈知る自由〉は「ダウンロードの自由」ですから、ダウンロードをする権利は国民にとって守られるべき人権です。この権利はもっと強く意識されてよいと思います。

著作権法改正による違法ダウンロード範囲拡大の話は主に、著作権をどう守るか、それによる萎縮効果は、という点から議論されているように見えます。しかしここで示したようにダウンロード権が人権であれば、それは人権の中でも重要とされる精神的自由権に属する権利です。著作権が一種の財産権(重要性のより低い経済的自由権)にすぎないなら、ダウンロード権を著作権によって制限することは、少なくとも原理的にはできないはずだと思われます。

(このノートの内容はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際ライセンス(CC BY 4.0)の下で自由にお使いいただけます)

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kazutomi
ありがとうございます。これからも役に立つノートを発信したいと思います。