【小説】ふくろう
はるかとおくに、ほんのかすかな、葉ずれの足音をきいたふくろうは、音もなしに飛びたちました。
月があかるいよるで、星も出ていました。えものがよく見えて、狩りに出るには絶好のよる。森の木々の間をぬうように、ふくろうは、むだのない動きで、えものへ向かっていきます。秋から冬へ向かう季節のつめたい空気を、ひだりへ、みぎへ、それをいなすようにして切りながら、ふくろうは飛びました。その飛行はよるのように静かで、かぜのように速いのでした。
飛びつづけていくうちに。目標にしていた足音が近づきます。はじめは、気配をわずかに感じるほどの小ささだったその音も、ふくろうが近づくにつれ、ささ、さささ、、、とあきらかに聞こえてきました。
(ひとつ、きょうも狩れそうだ。)
夜狩りの飛行に冴えた頭で、ふくろうは、よろこぶでもなく狩りの成功をみとおします。ふくろうは狩りがうまかったので、いちど足音をとらえたら、これまで一度もえものを逃さなかったのでした。
飛びつづけていくうちに。目標にしていた足音が近づきます。はじめは、気配をわずかに感じるほどの小ささだったその音も、ふくろうが近づくにつれ、ささ、さささ、、、とあきらかに聞こえてきました。
すると。灰色で、おおきな黒目をした、一匹のねずみと目があいました。目があったしゅんかん、お互いは、お互いの役割を無表情で察しました。狩るがわ。狩られるがわ。死をやりとりするはずなのに、どちらも、うれしくも、かなしくもないのです。ぶおん、とこんどは羽音をはばからずに、ふくろうはおおきなひと羽ばたきで、ねずみのもとへ加速しました。ねずみはもう、立ち止まっていました。
そして、かぎ爪が、じゅわりとねずみの肌に突き刺さり、よるの空に、ふくろうはねずみをとらえて連れ去りました。
***
ふくろうは、近くのてごろな木の枝に留まりました。かぎ爪で、つかまえたねずみの胴体を押さえつけ、くちばしでねずみの喉元をえぐろうと、とどめの狙いをつけます。
しかしそのとき、ねずみが、くくく、とわらいだしたのです。くくく、くくく。
「…なにを、わらっている。おまえはわたしに、ころされるのだぞ」
ふくろうは、すこしの苛立ちをおぼえながら、ねずみに問いました。
「いえいえ、だんな。はやくころしてくださいよ。まるで本望だ」
ねずみに悲哀のようすはありません。むしろ、からっとひょうきんな口調でした。
「……しにたいのか、ねずみ」
「しにたい、というわけでもないんですが、生きていたかったというわけでもないのです。そんなにたのしくないですからね。よわいねずみの一生は。こそこそと、あなたのようなつよい動物からずっと逃げまわりつづけないといけない。おまけに、ぼくはもともとよわいねずみの中でも、とびきりよわい個体ですから、まわりのやつらにもいじめられるし。ほらみてください、後ろ足のここのところが、みじかくなっているでしょう。」
ねずみは、胴体を押さえつけられたままに、足をひらひらと振ってみせました。それがあまりにみじめな様態だったので、ふくろうは足をどけて、いったんねずみの体を離してやりました。急に足を離したので、ねずみはいったん、よろっと枝からずり落ちかけましたが、かりかりと足で枝を掻いて枝の上にもどりました。ねずみは、ふくろうから逃げ出そうとは、つゆとも思っていないようでした。
「ちょっと、あせりましたよ。離すときには言ってください。まあでも、ありがとうございます。おかげで話しやすくなりました。なんの話をしていたのだっけ。そうそう、ぼくの足の話だ。ひだりのうしろ足だけがすこしみじかくてね、どうしてもほかのやつらよりは走るのが遅くなってしまうし、うっかりしているとひだりへ、ひだりへ、と曲がっていってしまうんですよ。それでまあ、文字どおり足手まといってやつですよね、ぼくは。だからほかのねずみにいじめられるんですよ。」
どこかあきらめたような調子で、ねずみは淡々と言葉をはなしました。おおきな黒目がふくろうを真正面にとらえ、ぼんやりとみつめていました。ふくろうのことや、自分に待ち受ける死は、すこしも恐れてはいないようでした。その態度にふくろうは、やっぱり苛立ってしまうのでした。
「そうか、まわりの仲間にもいじめられて。私に捕まって、これから食われてころされる。どうなんだ。お前はくやしくないのか、恐怖は感じないのか」
なじるような強い調子で、ふくろうはねずみに言葉をはなちます。
「こわくはないですよ。ねずみはころされることを諦めて一生を過ごしますからね。後悔もないですし、せいせいするくらいです。だんなに捕まったその瞬間は、ぞぞぞとした絶望感がいやだったし、かぎづめが痛かったですけどね」
月明かりに、茶みのかかったねずみの灰肌が、きたなくうつります。
「ただしね、だんな。ほかのねずみのやつらへの悔しさだけは、これはもう、はらわたが煮えくりかえりそうですよ。あいつらほかのねずみは、"仲間"なんかじゃあ、ないんです。だんなはさっき、"仲間にもいじめられてくやしくないのか"なんて仰っしゃりましたけどね。それはまるで的外れです」
ねずみの黒目が、一瞬、ふくろうに対する嘲りのようにゆらいで細まりました。
「ぼくらはただ同じようなかたちをして、よわく生まれただけ。どうせみんな、さいごはきつねや山猫や、だんなみたいなふくろうに食われてころされます。いつしぬともわからない時間のなかで、幻でもいいから、つよさを感じたいんです。だから弱いねずみを標的にきめて、いじめるんだ」
最後は吐き捨てるようにしてねずみは言葉を出しました。どうやらいくぶん、感情的になりはじめたようでした。死を前に怒るねずみのすがたはあまりにみにくく、感情の圧をまわりにはなっているようで、完全に組み敷いているはずのふくろうが、なぜか、ねずみに気圧されているのでした。
「だから、おまえは、どうしたいんだ」
狼狽を隠すように、ふくろうはねずみにたずねました。もはや、食うか、食わないか、ねずみの意見を聞くよ、とでも言いたげな問いでした。
「しんで、いいんですよ。ぼくなんて、いくつの命も、あってもなくても、同じようなものです。どうせねずみの命なんて…あってもなくても同じようなものです」
なんだかその言葉は、ねずみの負け惜しみのようにふくろうには聞こえました。「あってもなくてもいい」とうそぶきつつも、命がなくなる悔しさをねずみが惜しんでいるように聞こえたからです。ふくろうはその時はじめて、今まで自分が食べてきた獲物それぞれに、命があるのだと、実感しました。
日々を通り過ぎてきた当たり前のことに気づくとき、世界はまるで違ったものにみえます。
ふくろうは、急に頭のなかがうるさくなったような心地がして、めまいにも似た嫌悪感に襲われました。あたりはまだよる。夜目に秀でたふくろうでも、あたりは輪郭と影の濃淡でしかものはみえないはずなのに、木の葉の一枚いちまいや、土や、虫や、空気が、いっせいに、くっきりと、感じられるようになったのです。それは視覚でふくろうがものを捉えられるようになったというよりは、どうやら、まわりの万物の放つ存在感を、急に感じられるようになった、というようでした。
ふくろうは、それら――森の万物の存在感――を無視して、ただ枝から枝をかぎ爪で鷲掴みにして飛びまわりながら、ねずみや、虫や、小鳥を狩りつづけてきたのでした。ふくろうは、自分がとんでもない悪事をはたらいていたような、罪の意識にさいなまれました。
(もう、自分よりよわいものを食べるのはやめよう)
ふくろうは、心のうちで、こう決心をしました。そして足元で、なお縮こまりながらじっと黒目をあわせてくるねずみに、目をやりました。あらためて、ねずみは、なににも抵抗していないのでした。それは目の前のふくろうにも、森のなかの強さと弱さからなる法則にも、なににも。抵抗していないのでした。
「……」
「……」
ふくろうは、沈黙を守りながら、急に翼をばさりとひろげました。ひろがるシルエットとおおきな羽音に、ねずみはびくりと体を震わせました。そんなねずみを冷たく一瞥し、ふくろうは、月の方向に向かって、荒々しく、その森の空気を切り裂くようにして、飛び立っていきました。
そして、ねずみはその枝に、ただいっぴき取り残されて、まだつづく明日に向かって、また生きはじめたのでした。
***
万物が存在感をはなつその森で、ふくろうはすこしも心が休まることなく、ただ闇雲に、そのよるを飛び続けました。やがて空が白みはじめ、東の空から、燃えるようにあかい、太陽が顔を出しました。飛ぶふくろうに、木々の間からこぼれるようにして、ひかりがあたりはじめます。まだ地平線に近い太陽とは逆の方向へ、ながい、ながい影がまっすぐにひきのばされて、土のうえにうつされました。
あさがやってきたのです。
寝ずのまま、あさをむかえるのは、ふくろうにとっては、はじめてのことでした。眩しさに観念するようにして、ふくろうはやみくもに飛び続けるのをやめ、近くの枝にじっと留まります。万物の存在感はさらに強まりつづけて、目覚めてくるのは、小鳥、動物、虫、小動物、川や木々や、土。
太陽はのぼりつづけていきます。もちろんふくろうは眠ることなどできず、ただ太陽が登って森が目覚めていくのを見守っていました。あさは深まりつづけ、やがて、ひるの世界がやってきます。
ふくろうが生まれてはじめて目にしたひるの世界は、生の散らかりとやかましさにみちみちていました。空はなんの鬱屈もないようにひろがって、むじゃきに青く。水の流れる音も、よるには泣いているようなのに、ひるまにはぴちゃぴちゃと微笑みつづけているかのようです。
時おりふくろうのそばを通る、かつての獲物たちーーちいさい哺乳類や小鳥たちーーはふくろうが起きているのをみると、ギョッとしてただちに逃げだしていきます。不殺の約束を心に誓ったふくろうは、まったく追いかけようとはしませんでしたが、自然の摂理で、すこし腹は減ってくるのでした。
(……あのねずみはどうしているだろうか)
なども考えながら。ひるはどんどん深まり、やがて太陽は傾きはじめます。あの爽やかで悩みもなさそうな青はずっと続きそうなのに、やっぱり、その森も、いつかは終わりが来て、よるをむかえるのでした。
***
空腹と眠気にうつらうつらしはじめたふくろうがはっと気づくと、まさに森は、つぎのよるを迎えようとしているところでした。
西の空のきわが、あさがはじまるのと同じようにあかい色で染まり、そこから東の濃い群青へとグラデーションになっていました。薄ぼけた月が、空の真上の高いところに、白くあらわれはじめています。その表面の陰影の模様は、つるんとまっしろく輝く太陽の表面にくらべると、なんだかやけどの痕を持っているようで、よるの鬱屈を予感させるのでした。
飲まず食わずであさひるを起きとおして、ふくろうは、もう限界を迎えようとしていました。朦朧とした意識のなかでは、さきほどまで感じていた万物の存在感もなんだか薄まりはじめて、よるの森は、ただのっぺりと暗いフィールドに戻りつつありました。
時間と記憶の感覚がおかしくなってきたふくろうには、太陽が落ちていくのが、とてもはやく感じました。大きな誰かが、持っていた太陽を地平線の下へと、落っことしたようでした。重力にまかせて、もっと大きな法則にまかせて、太陽が落ちていくのをふくろうは感じました。その法則には、どうやらふくろうは諦めるようにしかない、と感じました。
(そういえば、あのねずみもずっと何かを諦めていたようだったな)
ぼんやりとした意識のなかで、ふくろうはそう考えました。そして、なにかがふっきれたように。ばさりと翼を広げ、月の方向に向かって、荒々しく、その森の空気を切り裂くようにして、飛び立っていきました。
それはやはり、自分の空腹をみたすため、あのねずみのような誰かを、狩りに出かけたのかも、しれませんでした。
<完>
この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』10月号に寄稿されている小説作品です。今月号のテーマは「たべる」。おいしい食べものでいっぱいの、読むとお腹が空いてくるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
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