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マイコン少年だった思い出
私自身はまだ秋葉原に路面電車が走っていた時代から親に連れられてアキバ通いをしていたのですが、その時代のアキバのイメージは無線や真空管は当然として「米軍放出品」という看板も残る問屋とジャンク屋が混在している街でした。
そんな環境で電子工作を始めた頃は真空管の時代ではあったのですが、値段が高い上に電源が大変すぎるので、ようやく広まりつつあったトランジスタを手に入れて簡単な回路を組んだりしていました。とはいえゲルマニウムの頃ですからなかなか思ったように動かなくて、電子工作は難しいものだなぁと、あまり熱心でも無かった気もします。
時代は進んでトランジスタはシリコンになり、足も3本ではなく何やらたくさん生えているICと呼ばれる部品が売られるようになり、デジタル回路であれば思ったよりも簡単に動かせると知り74シリーズで遊ぶようになりました。そんな時代にマイコンというものが登場し、今までのような部品やさんではなくチップメーカがお店をだすようになっていったのです。
それはちょうど中学生になった頃で、今までのように部品やさんや無線やさん、それにテープやさんなんかにも通っていましたが、BitINN(NEC)にも顔を出すようになり、なにやら難しい命令表なんかとニラメッコをするようになっていました。最初はさっぱりわからなかったのですが、アイ・オーという雑誌も創刊され、学校でも電子工作の天才が集うクラブに入ったので、いろいろ教えてもらって何とか扱えるようになりました。
その後、パソコンと呼ばれるようになる(当時は部品も基板も製品もみんなひっくるめてマイコンでした)ケースに入った組み立て済みの装置が売られるようになると、マイコンショップと呼ばれるお店がたくさん出来て、そこには憧れのマイコンが並べられていました。マイコンはとてもお高くて、買うことなんかとてもできない少年たちは、お店に並んでいるマイコンたちを弄り倒すことで満足していました。時間ができるとマイコンショップに通って、自分で考えたプログラムをその場で打ち込んで、お店にやってくる人や店員さんたちにひけらかすのです。目を引きたいのでキレイなグラフィックを活用したり、何かしら楽しむことができるゲームなんかが多かったです。中にはこっそりカセットテープを持ち歩く人もいましたが、基本はその場でキーボードから打ち込んでいました。お陰でキー入力も上達します。
APPLE][ Graphic Demo - 当時打ち込んでいたようなデモの一例
だいたいどこのパソコンショップにも、そんな少年たちが数人たむろっているのが普通でしたし、お店の人もやさしく接してくれていました。少年たちの方も、ひけらかすのが目的なので、人がたくさん来るようなお店を好みましたしね。そういう意味ではアキバとは限らずデパートの一角にあるお店のほうが人気があって、私の場合は出来たばかりのシブヤ東急ハンズにも通ったりしていました(マイコン売り場があったんですよ)。
そういえば映画Winnyにもそんなシーンが挟み込まれていましたね。まあ都会と地方ではちょっと時期的なズレもあったようにも思いますが。
そんな時代、少年たちはいろいろな方法でマイコンを手に入れるようになり、その実力を活かして月刊誌に投稿したり、いつも通っていたお店で配ったり売ったりしてもらうなんていうようにもなりました。マイコンショップではモノを売るだけではなく、徐々に何らかのコミュニティも自然発生し、情報やソフトを交換する場にもなってました。
結局、私もマイコンを手に入れたのですが、お世話になったマイコンショップには通い続け、拡張ボードやソフトを手に入れるために、いろいろなお手伝いをするようにもなりました。たまたまバイトに来ていた大学生に手ほどきを受け、瞬く間に基板設計からファームの作り方、果てにはインタプリタやコンパイラまで弄くり倒すようになってしまいました。
その時に、その大学生に言われたのが「マイコン少年になってはいけない」という言葉でした。いわゆるマイコン少年は、独学で特定のハードウェアに特化した知識を身に着けただけで頑張っているので、情報の勉強をしてきたわけではなく基本が足りないので、応用力が足りていない。まず基本を身に着けなさいと言うのです。ということでもう使わない情報の講義で使ったという教科書をくれました。さすがに中学生の知識では数式が厳しいところもあったのですが、それでも微分方程式が出てくるわけでもなく、ブール代数は既にお馴染みになっていたので、何とかこなすことはできました。いやいや普段の授業よりはぜんぜん楽しく勉強できましたよ。
こうして勉強してみると、プログラミング言語の仕組みやアルゴリズムを理解することが楽しくなり、大型機がマイコンと違うところもわかるようになりました。そうなるとゲームももちろん作りましたが、テキスト処理や音声、画像のデータ処理なんかも興味が出て、覚えることが増えるばかりです。勉強するには本だけではなく人が作ったものを解析するのが一番で、当時流行したゲームの基板を解析したり、売られていたソフトの中身はどうなんだろうと調べることに熱中していました。
当時はハードとソフトの境界がまだ曖昧で、ほとんどの人は両方の知識を持っていました。とはいえデジタル回路と複数のCPUのハードとソフトを扱えるとなると頼まれごとも増えてきて、その結果、自分の机の上にはたくさんの拡張カードやデバイス、ソフトが並ぶようになってしまいました。必要なものをお借りしているだけでしたけどね。勉強もそっちのけで、そんなことに忙殺されていた高校生活を送ってしまったので、自分で好きなソフトを作ったり、それを発表しようなんて言う余裕はどこにもありませんでした。いつの間にかマイコン少年は卒業して、立派なソフトやさんになっていたわけです。
実は高校ではパソコンサークルを立ち上げたり、テーブルゲームのクラブも始めましたし、男子校なのにちゃんと女の子とデートもしていたので、その意味でもマイコン少年の持つイメージとはだいぶ違う学生生活だったのですが、少しばかり世間離れしていたのは間違いないです。
その後、大学生になった時代の話はまたいずれ。
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