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ごまめのごたく:サルタヒコとの遭遇(2)
4月末に、強烈なぎっくり腰になった。
一か月経過してもまだ痛くて、歩くのもぼちぼちなのに、前からの妻の計画で、近江八幡二泊の計画で、琵琶湖北回りで車で。
あちこち、予定が組まれてて、落ち着いて見学、ではなくて駆け足観光。
白髭神社にて
一日目、「白髭神社」を参拝。
湖中の鳥居が観光スポットのシンボル
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紫式部の歌碑
紫式部が、越前の守に任ぜられた父、藤原為時とともに、琵琶湖を船で越前に向かう途中、この白髭神社付近を北上しているときに読んだ歌が、「光る君へ」のおかげで有名になりましね。
三尾のうみに あみ引くたみの てま(手間)もなく たちゐ(立居)につけて みやこ恋しも
慌ただしく、歌碑のある場所まで行きませんでした。
多くの観光スポットの紹介では、神社のご祭神や由緒をたいがい省略してしまっています。インスタ映えすればそれでいい、とでもいうのでしょうか。
御祭神は猿田彦命
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ご祭神:猿田彦命(猿田彦大神)
別社名:白髭明神・比良明神
でてきました、サルタヒコ
サルタヒコのもろもろ
なぜ、サルタヒコが祀られているのか?
手探りで進めます。
白髭明神とサルタヒコ
以前の、「サルタヒコとの遭遇」の最後に紹介した、「サルタヒコの旅」から、近江の白髭神社に関する記載を探したところ、荒俣宏氏が「サルタヒコが白かったとき」というタイトルで寄稿していまして、その中に一か所ありました。
ズバリその一か所だけ抜き取ると、著者の意図が伝わらないのでその前段から紹介します。
鳥羽へ行くと、夏のはじめに菅(スガ)嶋というところで「しろんご祭」なるおもしろい神事を見ることができる。これは、海女の祭であり、島の先端にある白髭神社の祭神を「白髭明神」といい、地元では「しろんご様」で通っている。海の神である。白髭神社の下に広がる白浜で、海女が一斉にアワビを採はじめる。最初に雌雄一対のアワビを採って、しろんご様に奉納したものが、その年の海女頭(あまがしら)になれるのだ。
・・・・・・・・・・
海女が神とあがめる「しろんご」すなわちサルタヒコが、なぜ白髭明神と呼ばれたかといえば、その白さのせいであった。白い輝きが果たした多大な貢献のゆえであった。
・・・・・旧名を武蔵と呼んだ東京周辺には、白髭神社が数多く存在している。たとえば埼玉県には旧高麗郡(のち入間郡)に大宮神社があり、別名を白髭神社の社という。社伝によると、高麗の人が王をはじめとして千七百九十九人もの集団で当地へ来住し、耕作を伝えた。高麗王は亡くなる日に鬚も髭もともに真っ白だったので、白髭明神といわれるようになった。つまり渡来人の神なのだ。
・・・・・・・・・
同じように白髭明神をまつる近江国では、白髭の神をサルタヒコだと指名している。この説が広がって、白髭=サルタヒコという結びつきが全国展開したらしい。
だが、どの伝承を見ても確実にいえるのは、白髭が高麗あるいは朝鮮半島の国人に関係している点だろう。
第Ⅲ部:サルタヒコへの新しい視座
サルタヒコが白かったとき 荒俣宏
サルタヒコと庚申信仰
次に、「庚申信仰 庶民宗教の実像」飯田道夫人文書院1989 より
サルタヒコ関連の記述
(そういえば、庚申信仰とサルタヒコの関係について、まだ述べてませんでした。)
石仏の先駆的研究となったのは柳田氏の『石神問答』(明治43年)だった。
・・・・・・
この「問答」のなかには、本書とのかかわりにおいて見過ごすことのできない重要発言がいくつか含まれている。・・・・・・
「道祖神も岐神(くなどのかみ)も異名同神なり」
「道祖神は猿田彦大神なりと云う説はよほど広く行われた説の如くに候――」・・・・・
「庚申は猿田彦なりと云う説久しく伝わり候は、猿と申との因に外ならざるべく候へども、何に由りてかかる説の出でたるかは推究せねばならず候。両部にては青面金剛を以て庚申に配し、まんまと御寺の境内に之を引入れ申候へども、本来は道家の神なること疑もなく候」
・・・・・・・
そして、
「今日に於ては立石の神として行路の側に立ち旅人の敬意を要求すること猿田彦神、道祖神、庚申、青面金剛の四者、全く差別なきことと相成申候」
という重大発言が飛び出す。
3 庚申研究の歩み
記紀神話にみるサルタヒコ
次は、記紀神話の復習(読みにくく、変換しにくい漢字はカタカナ表記に改めました。)
ニニギノミコトの葦原中つ国の平定が決まり、先ず露払いの神が天を下っていくと、天(あめ)のヤチマタ(分かれ道)に「鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り。又口尻赤く耀(て)れり。。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くにして、てりかがやけること赤カガチに似れり」(日本書紀)という異様な神が立ち現れた。その報告を受けて八十万(やそよろず)の神はただ尻込みするばかり。そこで天照大神はアメノウズメを召して、「汝は人に目勝つ者であるから、まず汝が行って、わけをたずねてまいれ」と命ずる。この女神は、天照大神が天岩屋戸に隠れられたとき、岩屋の前でストリップダンスを踊って名を売った神である。今度も「胸乳をあらわにかきたて、裳帯(もひも)を臍の下におしたれ」という色仕掛けでチマタノカミに近づき、道をふさいでいる理由を尋ねてみると、「自分は国つ神の猿田彦と申すもので、天照大神の御子が降臨されるとうかがい、お迎えにまいりました」という返事、そこでこの神に道案内をまかし、結局ニニギノミコト
の一行は筑紫の日向の高千穂の峰に着いた。
・・・・・・・・・・
重任をはたした猿田彦は、その後、アメノウズメを伴って伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴川(いすずがわ)の上流に行き、そこに落着く。一方、サルタヒコに連れそったアメノウズメは勅令で猿田彦の名をとって猿女(さるめ)と称することになる。記紀に、アメノウズメは猿女(さるめ)君の祖であると記されているが、これは神祇官の一役職で、祭礼の場で神楽舞を舞うことを務めとしたものだった。
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猿田彦とアメノウズメの落着き先である伊勢の五十鈴川は言うまでもない、天照大神を祀る伊勢神宮の御在所である。
13 猿田彦
サルタヒコを祀る神社
猿田彦を祀る猿田彦神社が伊勢市宇治浦田町にある。一般にこれを猿田彦神社の総本宮とみなしているが、実は、鈴鹿山本の椿大神(つばきおおみわ)神社がそうであるらしい。・・・・・・・・・
椿大神社の名は「延喜式」神名帳に載っている。掲載された三千百余座の神社の中、大神社、大神宮、大社のように ”大” のついた社はごくわずかしかなく、この社が古くより別格の社柄であったことを示している。
13 猿田彦
同書より、挿絵画像
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この石像の画像はネットで探し出せていない
埋もれたままにしておくには惜しいので、あえて掲載させてもらいます
椿大神社ホームページの関連ページを紹介させてもらいます。
ここに、アメノウズメとサルタヒコの奉納絵が掲げられていますが、サルタヒコの容貌は、石像の容貌とそっくりです。
石像はどこにお隠れになったのでしょうか。