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将棋にあって麻雀にないもの

YouTubeを眺めていたら昭和の大棋士たちの物語が流れてきて、そこには人間的な魅力がたくさん詰まっていた。

升田幸三実力制名人の「名人に槍(香車)を引いて、勝つ」や、大山康晴名人の「天才と称されるよりも、安定さである」などは将棋の覚束ない私にすら心に響く何かがある。ことばだけなら誰でもいえるが、鬼神のごとき強さがあるだけにこれまた『格調』高い。

そんななかふと将棋と麻雀の違いを、一塊のファンとして考え耽けてしまった。


完全情報ゲームの将棋は、論理の桁が段違いなだけに打ち手の強さがハッキリと盤面に現れる。その歴史は1600年代にまで遡り、天下人らの保護のもと、伝統文化として受け継がれてきた。

かの将軍さえも私たちと同条件で将棋を嗜んだ歴史があるほどだ。

一方、麻雀の歴史は浅く、ルールにバラツキがある。

運の要素も絡むために、麻雀は「競技ではなく賭博」というイメージを持つ人もいる。花形ゲームとされた時期もあったが「こどもに与えたくない遊戯」として暗い歴史を歩んできた。職業と呼ぶにしてもスポンサーの関係上、不安定である。

頭脳明晰な人は駒を持つが、そうでない人は牌を触る。そんなイメージを持つ人もいるだろう。だだし、否定ばかりはできない。麻雀は年月を重ねることで強くなるという性質があるからだ。

麻雀は不完全情報ゲームなので、自分の手牌に溺れることなく「3人をも相手にする大局観」が必要だ。負けた言い訳を「運」にせず、自制できる精神力は若年には厳しいだろう。これは脳のリソースを盤面解析に追及する、将棋とはやや異なる点かも知れない。


近年ではAIや統計のおかげで「麻雀は実力の反映されるゲーム」だと証明されており、頭脳ゲームとしての地位を確立しつつある。

これまで未知と考えられていた「運」の要素は科学の進歩とともに脳の誤認だと判明し、分析を続ければ「運」は技術もって十分にさばけることも証明されている。

認知科学でいう「クラスター錯覚」は良い例。

「麻雀を科学で考える」という、今ではごく自然な発想でさえマイノリティーだった時代をここまで大きく変えたのは、若手雀士らの尽力が大きいだろう。

年配プロの破天荒さを少しずつ正していき、現代に合った『格調』へと導いたのは、いまを生きる若い世代の腐心あってこそではないだろうか。


ここからは”もしも”の話しになる。

今後も若手プロらが、麻雀を証明し続ければ、麻雀に理解を示す企業が現れ続けるかも知れない。すると、団体の運営そのものが変貌する可能性がある。

現状は団体所属者からの会費運営なので、スポンサーが増えれば将棋連盟のような運営に至れるかも知れない。そうなると、競技プロとしての『品格』をスポンサー側に示す必要がある。

仮にも将棋のような組織(奨励会)を作り上げれば、棋士ならぬ「ホンモノの雀士」が育成される。麻雀プロは狭き門にはなるが、みっともないプロの安売りからは脱却できるし、雀士の名誉性も高まる。何しろプロ個人が、今よりは安定して食べていける。

(昔から、厳格にプロの認定を行っている団体はあるにはある)

そんな麻雀業界に、明るい兆しとなったのは紛れもなくMリーグだ。

麻雀人口が減少傾向」にあったなか、Mリーグは業界最後のカンフル剤として古い業界デザインを刷新してくれた救世主だといえる。

となれば、いまだグラビア雑誌のような表紙を飾る「近代麻雀」は内察すべき時期ではないだろうか。

購読者層(50代)へのアピールとはいえ、媒体物としていかがなものだろうか。


理屈っぽい長っぱなしになってしまい陳謝。

「将棋にあって麻雀にないもの」は数多くあり、格の違いはあるにしろ、それぞれが持つ独自性に魅了されてきたファンは多いと思う。私もそのひとりだ。

但し、麻雀においては長年親しまれていたからという理由であぐらをかけば、あっという間に人を失うだろう。昔のままの『品格』ではいけないし、歴史に名を残す囲碁・将棋との違い(差)を学び続けなければならない。


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