感覚過敏なのか同一保持なのか、それが問題だ。
「ケの日のケケケ」を視聴して感じたことその2。
「ケの日のケケケ」では感覚過敏にのみスポットが当てられていたが、
ASDには感覚過敏なのか同一保持なのかという問題がある。
これ、厄介なのが両方同時に存在している場合が多いということ。
以下は息子の例だ。
息子は、口内過敏が強く世の中のほとんどの食べ物が食べられない。
そんな息子の数少ない食べられる物のひとつが、PASCOの超熟6枚切り食パンだ。
フジパン本仕込みやヤマザキロイヤルブレッドはダメだし、超熟でも5枚切りや山型になるとダメだ。
むしろなぜ超熟6枚切りなら大丈夫なのか?
これは最初に超熟6枚切りの食パンを与えて、たまたまなんとか食べられたからだ。
この経験が親子共に成功体験になり、次もその次も超熟6枚切りを与えて、「これなら大丈夫」となった。
これで同一保持、つまりこだわりの出来上がり。
それをずっと続けてしまうとこだわりは強固になる。
きっかけは確かに感覚過敏なのだが、それがこだわりに転化してしまっているのだ。
ある時、超熟が近隣でどこも売り切れていて手に入らず、仕方ないからロイヤルブレッドを買ってみたが、「いつもと違う」と残されるのだ。
もしまだ超熟へのこだわりが定着する前にロイヤルブレッドも試していたら大丈夫だったかもしれないのにね。
もちろんあくまでタラレバで、最初からロイヤルブレッドは受け付けなかったかもしれない。
ところがまたある時。
やはり超熟6枚切りが売り切れていたが、8枚切りなら1つ残っていたことがあった。
6枚切りと8枚切りでは食感が異なるよなぁと思いつつ、それ以外の匂いや味は同じだから息子もワンチャン食べられるかもと8枚切りを買った。
そして、そのワンチャンが叶ったのだ!
「確かにちょっと薄いけど大丈夫、美味しい」
とのこと。
こうして息子は、「超熟の6枚切りしか食べられない子」から「超熟6枚切りか8枚切りなら食べられる子」に一歩進化したのだ。
これが、「こだわり崩し」とか「こだわりずらし」とか呼ばれる事象だ。
世のASDと生きる子を持つ親たちは、日々こういう気の遠くなるような地道なことをやっている。
感覚過敏は例えば砂を食べるのが当たり前の社会があったとして、砂を食べられない人が毎日少しずつ砂を食べて慣れようとさせるようなものだ。
いくら食べても砂を食べられるようになるとは思えない。
その練習とされる時間は、拷問に他ならないだろう。
ケの日のケケケのあまねは、どうやっても無理なものは無理だということを大人たちに証明するために、わざわざうるさい部活に入ってやめてを繰り返したり食べられないハンバーグを口に入れて吐き出したりして自らに拷問を課していた。
見ていてとても辛かった。
感覚過敏は、安心安全が守られて情緒が安定しているとマシになり、不安定になるとより過敏になるという傾向があることがわかっている。
リラックスしているときに、ふと「あ、前はダメだったあの音が今はそこまで不快じゃない」と気づいたりとか、信頼している人との食事の時に相手が美味しそうに食べているのでなんとなく一口食べてみたら意外と食べられた、なんてことがあるのも事実だ。
だから、感覚過敏は治そうとして治すものではない。
嫌な感覚はできるだけ避けて、ケケケに過ごせるケの日を1日ずつ積み重ねていくうちに、気づいたら緩和されているーーそういうものだ。
こだわり崩しと感覚過敏の緩和は、とても似ているようだが少し違う。
安心安全が保障されている毎日を過ごすことがどちらも大前提ではあるのだが、こだわり崩しはある程度意識的にやっていかねばならない。
こだわりは最初こそそれが安心材料になっていたにしても、だんだんそれは日常を苦しめることにもなる。
(もちろん良いこだわりもある。それはこだわりではなく習慣と呼ばれることが多い。)
だから、苦しくなりそうなこだわりは早いういちにその芽を潰していく。
(幼児期はとにかく安心安全が第一だから、こだわりにとことん付き合うのも大事だ。)
ところで、最近の私の小さな悩み。
息子は、最近数年振りに家でチルドのマルゲリータピザを食べられるようになった。
2日に1回は家でマルゲリータピザを食べているのだが、近隣のスーパーにはなぜか伊藤ハムのピザガーデンばかりで、日本ハムの石窯工房マルゲリータピザが無いことだ。
これではピザガーデンに同一保持が起きるのも時間の問題ではないか...!!!