![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153621971/rectangle_large_type_2_e7fee0a1e0defbeaa2b92655d45a890f.png?width=1200)
わたしの話だ!~カモフラージュとスティミング
内山登紀夫先生の講演会を聴いた。
タイトルは「自閉スペクトラム症の人たちの自己肯定感の育て方」
私は、子育てや発達障害関連の講演会やセミナーを受講する際、いつもピゴとチョコを念頭に置いて話を聴く。
確かにこれはピゴにあてはまるな、彼の行動はこういう意味だったのかもしれない、もう少し成長したらチョコにこういうことも起こりそう、この対応はチョコに使えそうだ
…と子どもたちのことを想像しながら、話を聴く。
ところが、先日の内山先生の講演会は少し違った。
いつものようにピゴとチョコを脳内に投影しながら聴いていたのだが、途中から、「これはわたしの話だ」としか思えなくなってきたのだ。
それが、記事タイトルにあるカモフラージュとスティミングについての話。
カモフラージュについては以下の説明が端的でわかりやすい。
自分の特性を自覚しつつ周囲との関わりの難しさを感じると、自閉症スペクトラム障害児者は、自分の特性を隠そうとしたり、無理に周囲に合わせようとしたりすることがあります。これがカモフラージュです。
カモフラージュはかなり前から知っていた。
知っていたけど、どこか他人事だったのだ。
それが、講演会の中でカモフラージュ研究で女性当事者のインタビュー内容が話されたときに、急に「私、よくある!!」と一気に自分事になった。
「他の人のアクセントをすぐに聞き取ってしまうことがある。
初対面の人と話すときに、親近感を高めようとする無意識の試みなのかもしれない」
私は東京出身だが、関西出身の人と話すときに不完全な関西弁のイントネーションになってしまうことがよくあるからだ。
この現象は特に、「今は少し緊張しているけれども、今後のためにこの相手とは良好な関係を築きたい」と私が感じているときに顕著だ。
そのとき限りの相手だったらイントネーションが移る現象はあんまり起きない。
自分でも不思議なのは、意図して関西弁のイントネーションにしているのではなく、自動的で無意識なのだ。
だから「移ってるw」と人から指摘されることも時々ある。
ひとつ自分のカモフラージュに気づいたら、今までの人生、カモフラージュだらけだということに気づいて呆然とした。
知っている人がひとりもいない私立中学に入学する際、「流行りの歌やドラマを知って、誰とでも話して友達をたくさん作ろう。小学生の私とはちがう私になるんだ。」と決意したのを今でも覚えている。
小6のとき、校外学習のバスの中で歌合戦が始まったとき、私は何一つ流行歌を歌えなかった。
そんな私にはもうならない、と自分に誓ったのだ。
中学のとき、成績もよくスポーツもできて、みんなから好かれている、ぜんぜん気取っていない子がいた。
私は彼女みたいになりたいと思った。彼女と仲良くなれたらと思った。
その彼女は、あるアーティストの大ファンだった。
ミリオンセラーのシングルがあって、ファンの年齢も性別も幅広い、そういうアーティストだ。
彼女と話す機会があったときに、「私も好きなんだよね」と言ってみた。
彼女はとても喜んでくれて、たくさん私に話しかけてくれた。
私はそのアーティストのCDをTSUTAYAで借りまくって、必死で「勉強」した。
彼女とはよくおしゃべりして、一緒にライブにも行った。
いつの間にか、彼女のこととは関係なく、私は人から「好きな歌手は?」と聞かれた際には、そのアーティストの名前を出すようになった。
でも今思う。
私はそのアーティストを、本当に、心から、「好き」なんだろうか??
このアーティストの曲を「勉強」するように聴いていたのと同時期、私はある声優の大ファンで、家ではその声優の出演するアニメを見て、CDを買い、深夜ラジオを聴いていた。
あの当時、アニメや声優が好きだと言うことは、クラスで表立っては言われないけれど、なんとなく馬鹿にされるような、そんな雰囲気があったのは事実だ。
「私は『そっち』の人ではないですよ」
そう振舞い、アピールしたかっただけではないのか。
クラスで人気者の彼女と友だちになって。
誰もが「ああ、いいよね。」というアーティストのファンを装って。
同じことは、初めて恋人ができたときもあった。
彼が好きなアーティストについて必死に「勉強」して、カラオケで歌えるように練習した。
音楽だけでない。
彼が喜ぶことは何でもした。モーニングコールも、お金を貸すことも、レポートの代筆も、性的なことも。
あるとき、1か月ほど会えない期間があった。
そのとき気づいた。
「私、今すごく楽だ」
そう気づいてしまったらもう付き合い続けられない。
久しぶりに会った彼に別れを切り出した。
私は本当に彼のことが好きだったのだろうか??
「恋人がいる大学生」という自分の中で勝手にイメージしていた「普通」を演じていただけではなかったか??
そう考えると、私の人生、カモフラージュすることが当たり前になりすぎていて、自分が好きで選び取っているとされてきたことの、いったいどれほどが本当に「好き」なことなんだろう??
なんだか少し怖くなってきた。
でも、こういうカモフラージュは、自閉症や発達障害者でなくても、誰もがよく行っている事では??
特に日本では、「みんなと同じ」に振舞うことが良いとされているので、その傾向は諸外国より強そうだ。
だから、発達障害児への「療育」がカモフラージュを強いる方向になりがちなのではないか。
カモフラージュをし続けることは、メンタルヘルスに悪影響があるという。
ASDの成人には、精神科的合併症が多いことがわかっている。
不安障害、抑うつ、強迫症、双極性障害…
自殺率も高い。
…あれ?
そういえば、私も抑うつと双極性障害は20代のときに診断済みだ。
休職も短期間での転職も経験している。
いまさら気づくまでもなく、立派な二次障害だ。
私は人とおしゃべりするのが好きと言いながら、2時間も人と話すとどっと疲れて、家では布団に入って動けなくなることが多い。
Twitterを眺め続けたり、テトリスや数独などのパズルゲームをひたすらやり続けてしまうこともよくある。
ささくれや唇の皮を剥いたり、鼻や耳をいじったり毛を抜いたりしていることもある。
耳が痛くて耳鼻科を受診したら、耳いじりが原因で外耳炎になっていたこともあった。
そこまでいかなくても、顔は無意識によく触ってしまう。
…これ、「スティミング」(自己刺激行動)だ。
スティミングとは、手を振る・指をはじく・髪を引っ張る・つねる・身体を揺らす・曲げる・回転する・物をいじる・つぶやく・うねる・口笛etc…
自然に無意識のうちに始まり、制御が難しく、一見無意味で、反復的なものであることが多い。
そして、このような行動は、辞めさせる・減らそうとして「支援」がなされることも多い。
講演内で、スティミングは辞めさせるべき問題行動なのか?という問題提起がされていた。
なぜならスティミングには、辛い感覚刺激やそれが引き起こす興奮や不安を落ち着かせるための自己調整機能として作用しているからだ。
もうひとつ驚いたのは、スティミングには、自己効力感を高める効果もあるらしいことだ。
一見無意味に見えるスティミングも、実は意味も効果もあるのだ。
こういうことも、知識として聞いたことはある。
でも今回、「そういえば私自身にだってスティミングたくさんあるじゃん!」と気づいて振り返ってみたら、確かにスティミングがあることで心が落ち着くことは実感としてよくわかる。
それどころか、ささくれを剥いたり毛を抜いたりした瞬間に、「よし!」という謎の達成感?を感じて、次の行動にスムーズに移れるということもしょっちゅうだ。
そう考えると、スティミングが「私はやればできる」という自己効力感を高めていると言われれば、大袈裟では?と思わなくもないが、否定はできない。
カモフラージュもスティミングも、私には息をするようにあまりにも当たり前のことすぎて、改めて意識したことがなかった。
そうそう。
中学のときに私が「頑張って」仲良くなった彼女から、高校のときに
「え、Kazuneeって自分のこと普通だと思ってる?」
というようなことを言われたことがあった。
中学以降、私はそれなりに「普通の優等生」をやってきていたと思っていたから、この言葉は軽くショックだった。
だって今でも覚えているんだから。
内山先生の講演内で、教師など大人は気づかなくても、同年代の他の子どもたちは違いに敏感でカモフラージュしていている同級生を「異質な存在」として見ていることも多い旨が語られた。
…まさに、それじゃん!!
改めて、講演タイトルは「自閉スペクトラム症の人たちの自己肯定感の育て方」だ。
私は自分がASという自覚がないので、タイトルを見たときに無意識に自分とは切り離して考えていたけれども、中身は紛れもなく私にもがっつりあてはまる話だった。
ASDのいわゆる「三つ組」(対人交流・社会的コミュニケーション・社会的想像力)を見ても、ピゴはがっつりその通りだと思うものの、自分には未だに当てはまる気はしないのだが、客観的にはあるのかもしれないな。
まあ自分がASかどうかはあまり関心事ではない。
それよりも、私自身の自己肯定感は決して高くないという事実、その理由が少しわかった気がする。
どういうわけかすごく疲れやすいことには理由があるということも。
そして何より、カモフラージュしていない私はいったいどういう人間なのだ?と自分の輪郭が再びぼやけるような感覚になった。
この記事は、そのことを覚えておくための備忘として、記しておく。