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5.大叔父の撮影場所を探して

海南島滞在に向けて、戦時中に発行された古本を購入した。火野葦平著『海南島記』だ。(国立国会図書館にも所蔵されているので閲覧可能)火野葦平は芥川賞作家で、日中戦争から各地に軍人として参加しており、兵隊作家として人気があった。最も有名な作品は『麦と兵隊』だろう。
1939年、つまり海南島上陸作戦が実施された年に発行されたものだ。
火野葦平自身が、海南島上陸作戦に同行した様子を書いたものだ。
彼は陸軍の輸送船の乗船していたのだが、2月といっても非常に暑かったようで、兵士たちの熱気と海南島の温暖な気候について記録されている。
また、海南島上陸作戦より前から日本人が少々暮らしていた者の、反日感情が強く命の危険も高まったため全員引き揚げており、元住民が上陸作戦に協力していた話や、占領の際に住民が逃げずに残っている様子に戸惑う日本軍の様子なども書かれている。

上陸の際に、旗艦である妙高は秀英砲台から多少の攻撃を受けたようだが、上陸の際にも兵力の差は圧倒的だったため、容易に占領が出来たという。火野葦平の記録によると、日本軍は3名の犠牲者を出したが、戦争だと考えると極めて少ない犠牲者数だったと言えるだろう。

その後、海南島を防衛していた中国軍は内陸部へと撤退しながら戦ったようだ。海南島近現代史研究会の刑さんの案内で、最後の大きな戦闘が行われた川と、戦闘で傷つき当時のまま放置されている橋まで案内していただいた。

さて、火野葦平らと時を同じくして、靜雄も海南島北部最大の都市である海口に上陸したと思われる。祖父の家には、靜雄が海南島上陸時に撮影したと伝わる1枚の写真がある。スラバヤ沖海戦や珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦など各地で海戦に参加した靜雄だが、戦地に上陸したのは海南島が最初で最後だったようだ。
今回の海南島訪問では、日本軍の動きを知るとともに、この写真の撮影箇所を探ることもダメ元だが挑戦することにした。

刑さんに上記の写真を見せたところ、左後ろにかすかに見える高い建物に着目した。
「あの当時、海口にこの高さの建物は数えるほどしかない」
そうして車で連れて行かれたのが、旧海関。現在は中華人民共和国政府の官公庁施設として使われている。
たしかに建物の形が似通っているように思われる。
ダメ元で聞いたにも関わらず、すぐに手がかりが見つかって正直驚いた。

次に、撮影地の特定を目指した。
海口老街にある当時の街並みに関する資料館に向かう。
海口南洋騎楼老街風貌展示館に入ると、当時の海口市街のジオラマがあった。
日本軍の駐屯地から旧海関方面に撮影したと考えると、他に映り込む建物などもなく説明がつく。
撮影地も判明した。

撮影地へと向かった。街は発展して、商店が立ち並んでおり、当時の様子は旧海関を除くと見る影もない。
機関兵だった靜雄の海南島滞在はそう長くはなかったと思う。
だが、彼が過去歩いた道を、感じた空気を、およそ70年の時を経て私も経験していることに感慨深い心持ちとなった。

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