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第7回/オノマトペの効果的な教え方を研究中/柏晨悦さん

こんにちは!
今回は第3回で紹介したレタオさんがとても素敵な友人がいると紹介してくださった柏さんです。日本語教育に熱意を持っている彼女のストーリーをぜひご一読ください。

柏晨悦さん
1993年生まれ。中華人民共和国南京市出身。南京暁荘学院大学ー筑波大学大学院ー日本語学校勤務ーお茶の水女子大学大学院(博士課程)在学中

ーーー柏さんはどんな子どもだったんですか?

たぶんおとなしかったと思います。親との関係性も良くて、反抗期がなかったと聞いています。いいことも悪いことも何でもシェアしていました。言いたいことはしっかり伝えて、親もちゃんと聞いてくれたので反抗する必要がありませんでした。普通で平凡なこどもでした。

私が生まれ育った南京は、日本の京都のような古い街で、歴史的な建物が多く残っています。南京料理は比較的甘い料理です。また、上海や北京ほどは物価が高くないので住みやすい街だと思います。ちなみに中国は地域によって教育水準や教員の質・教育施設の整備状況などが大きく異なるのですが、その中で南京はレベルが高い地域です。あとは、サイゼリヤや無印良品、ユニクロなどのお店があったりパナソニックなどの支社があるなど、日本のサービスや商品に触れる機会も多いです。ですが、歴史的な背景があるのかわかりませんが、周辺地域と比べると、日系企業は少ないような印象を持っています。

祖父母世代は、それより上の世代から戦争中の話を聞いている関係で、日本と聞くと怖いという印象が先立ってしまいます。ですが、親世代ではそこまでの印象はなく、私たち世代ではむしろ日本語を勉強しようとか日本文化を楽しもうなど、日本に親しみを持っている人が少なくないと思います。個人的には、もっと南京の人々や大学と日本との交流が進めばいいなと思います。南京の大学はすべて日本語学科があります。日本語学科の卒業生がそのスキルを活用して南京で働くにはまだまだ仕事が少ないので、もっと日本で働けるようになるといいなと思います。

いまの子どもたちはわかりませんが、私が中高生の時は勉強中心の生活でした。長期休みとかには、部活動のような活動があり私は小太鼓(スネアドラム)の演奏に取り組んでいました。

ーーー日本語を学び始めたきっかけは何でしたか?

父親が海外ドラマを見ることが多く、私も一緒に見ていました。父は韓国ドラマや日本ドラマを特に見ていました。その影響で、小さい頃から外国語が得意だったらかっこいいな、と考えていました。中国では、韓国語で仕事をすることがきわめて難しいため、経済大国である日本語を勉強したら就職にも有利だと思って大学生になったら勉強しようと思っていました。ドラマは基本吹き替えになっていましたが、BGMの歌詞は日本語のままだったので、そこで聞こえてくる日本語から勉強しはじめました。

ーーー南京暁荘学院大学はどんな大学だったんですか?

教員養成を目的とした大学です。東京学芸大学のようなイメージです。そこで日本語を勉強しました。勉強を通して、私の持っていた日本のイメージは変化しました。日本人は真面目でつまらないという偏見を持っていたのですが、日本人の先生の授業を受けて、日本人の先生の話を聞く中で、当たり前ですが、人によって違う、真面目な人もいれば面白い人もいることに気づきました。私が習った3人の日本人の先生はみんな面白い授業をする先生で、より日本への興味が沸きました。

あとは、中国の中学校の英語と日本語の教員免許も取得しました。勉強以外には、ユースオリンピックの第2回大会が南京でちょうど開催されていたので、そのボランティアスタッフもしました。記者として、ボランティアスタッフの活躍ぶりを記録し、文章にして公式HPに掲載するなどしました。

その後、学部時代の専攻である教育系の大学院への進学を考えており、いくつか検討した中で、筑波大学への進学を決めました。最初の1年間は研究生として勉強しました。研究生というのは、外国人留学生向けに、日本語の習得や日本という環境に慣れるための期間として設けられているものです。ですが、大学院受験に失敗してしまいました。これまで勉強はできるほうだと思っていたので、人生初めての挫折経験でした。自分は研究に向いていないのかもとそのときは苦しかったのですが、いま思えば大切な経験だったと思います。頑張っても報われないこともあるし、失敗した時はどんな気持ちになるのかなど経験したことは良かったと思います。

1年頑張った結果、無事に筑波大学の大学院に合格することができました。大学院では、日本語教育学を専門に勉強しました。日本語教育学は日本語を教えるための技術習得だけではなく、日本語そのものや日本社会について、人のコミュニケーションとは何か、人間関係や社会現象を言葉を通して考えるなど非常に奥深い学問でした。筑波大学にきている留学生のクラスで教育実習もしました。単に教えるだけでなく、学生募集や授業づくり、成績評価やクラス運営など幅広く経験しました。

ーーーその後、一度就職されたんですよね。何か理由があったんでしょうか?

そうなんです。進学も考えていたのですが、ずっと学校にいるのではなく、社会にも出てみたらより好きな者が見つかるかもしれないと言われて就職することにしました。日本語学校に勤務したのですが、講師というよりは広報や営業の仕事を主に取り組みました。日本語学校は、金銭的にも人手的にも潤沢ではなかったので、1人でいろいろな仕事をやりました。

仕事をすることで、世の中には自分と違う人がたくさんいるということがよく分かりました。学生の時は、友人は好きな者どうしで集まると思いますが、仕事ではあらゆる人と仕事をしなければいけないので、この人とはどうやったらうまく仕事ができるだろうかと工夫をする必要がありますよね。この経験はとても貴重で自分の成長に繋がったと思います。コミュニケーション能力に関しては苦手意識があったので、自分の弱い部分を埋めることができたと思います。また、自分が好きなことが何かということもよくわかりました。これまでは敷かれたレールをただ進むようにしてきましたが、今回仕事をしたことで、やはり先生として働くことが自分にとってやりたいことなのだとよくわかりました。もちろん広報や営業の仕事も面白かったのですが、それ以上に先生という仕事がやりたいと思ったのです。

ある時、学会発表を通して知り合った大学教授の方とやりとりをするうちに、その方が私が興味を持っている分野の研究で有名な方だとわかり、進学の相談をしました。それがきっかけで博士課程への進学を決断し、受験をして無事合格しました。

ーーーちなみに日本で生活する上で、困ったことや乗り越えたことなどはありましたか?

まずは部屋探しですね。国籍が理由で断られることが少なくありませんでした。一方で、大学名や日本語能力で、特別に許可されたようなこともありました。最初はラッキーと思ったのですが、その裏で多くの人が苦しんでいることが想像でき、苦しい気持ちや憤りを感じることもありました。日本語が話せるかどうかで扱いが大きく変わるのが辛く、印象的に感じました。

また、デジタル化についても気になります。母国との違いに驚くことがありました。例えば、銀行でキャッシュカードを作成しようとすると、中国では1時間ほどですぐ作成できます。ですが、日本だと2週間後に郵送で自宅に届くので驚きました。また、学費や家賃の支払いの時もスマートフォンでの支払いではなく、封筒に現金を入れて窓口で支払いをすることに驚きました。封筒を使うことはラブレターを送る時くらいで、封筒=ロマンチックの象徴だったので、、、笑

あとは、日本人の友達を作ることにハードルを感じていました。職場にいる日本人は、仕事柄フレンドリーな人は多かったです。ですが、友人になれるかというとなかなか難しかったです。
修士時代の友人はかけがえのない存在ですが、当時の日本人の友人とは卒業後疎遠になってしまいました。他の国の出身の友人とはいまも仲がいいのですが、、、。日本人の友人と長く付き合う難しさは、私以外にも感じている人が多いと思います。

ーーー現在、お茶の水女子大学の大学院で博士課程に在籍されていますが、どのような研究をされているのですか?

日本語のオノマトペを外国人にどうやったら伝えられるかの教授法について研究しています。オノマトペは外国人に伝えるのがとても難しいです。私自身も、オノマトペを研究しているので理論は理解していますが、どの場面で使用するのが適切なのかがなかなかわかりません。日本人の会話で意味がわからないオノマトペが出てきた時に、なんとなく日本人が伝えたいことと私が感じていることにズレがあるような気がするのですが、そこの埋め合わせもなかなか難しいです。

今後は自分がやりたい研究を続けていきたいと思います。もちろん日本語を教えることとも両立していきたいと思います。中国で教えるのか、日本で教えるのかはまだ決めていません。教壇に立って自分が学んでいることを教えたいと10年以上前から決めていますが、まだ教える仕事はできていないので、必ずやりたいと思います。また、地元南京の人々への日本語教育や日系企業への研修、民間交流などにも取り組みたいと思います。自分の力で両国の市民どうしが交流し相互理解に繋がることができればと思います。話したことがないと、想像だけで判断してしまうことになると思います。自分の目で見て体で感じてもらう機会をつくる仕事をしたいと思います。

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