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薪ストーブ

階下に降りる途中で
あらっ、と思う。
薪をくべるような匂いがしたのだ。
優しい、ほんのわずかな香り。

階段の踏面はひんやりしている。
リビングは黙っている。

去年は11月になったとたん、夫はウッドストーブをスタートさせた。
寒い日はマイナス気温になる、カナダ、オンタリオである。

            まだ早いよ。

            そう言っても夫は
            チラシを丸め始めた。
            どうしても、そうしなければならないみたいに。

            上手くなるまで
            10年かかった。
            夫はそう言っていた。
            生まれ故郷のアメリカ・バモントは
            この地より冬が厳しい。

           キンドリンと呼ばれる木の棒を三本、
           ふんわり丸めたチラシの上に置く。
           薪ストーブのパイプにあるフラップは
          12時の場所。
           底の排気口の扉も、
          わずかに開ける。

          夫の擦ったマッチは
          瞬く間に紙を燃え上がらせ
         蒼白な横顔を明々と照らす。

        その日、夫が選んだ薪は格別に太くて
        私は両手で抱え持っても
        ふらついてしまう。

        車いすの夫はもう、
        自分で割った薪を
        持ち上げられないでいたのだ。

        高々と上がっていた炎は
        次第に穏やかになり
        薪がぱちぱちと音を立て始める。

        夫が合図をすると
        フラップを2時の位置まで回す。

        こんな風に夫は毎晩、
        亡くなる前夜まで
        薪をくべた。
        私はいつも車いすの横について
        それを手伝った。

        薪の選び方
        フラップを回す時期
        底の扉の開閉。
        一回一回に
        微妙な調整がいる。

        ウッドストーブの前に座って
        私たちは炎を見つめる。
        夫はその大きな掌で
        私の背中をさする。

        ほら、
        今夜の薪の調子はいいだろう?

        そんな合図である。
        心がほかほかとなる、
        ふたりの夜。

      ある時から、
      夫は私に教えるために
      毎夜、薪をくべるのだと気づいた。
         この地で
      ひとりになってしまう私に伝える   
   最後の項目であると
        夫は知っていた。


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ほのかに漂っていた薪ストーブの匂いは いつの間にか、そっと姿を消している。近所で焚火をしていたのかもしれない。
この時期、あちこちから 落ち葉や枯れ枝を燃やす煙が上がっている。

そうだ、薪ストーブを始めよう。
私はふいと思い立った。

夫なら今夜のために、どの薪を選ぶかな。

しばらく手にしていなかったノートを開く

flap 12時
Kindlin 3本。

癒え切れていない私の心が
かすかに滲んでいく字を追う。

薪が静かになったら
flap 3時

すると
日本語と英語混りの私のメモの後に

before bed
make sure the bottom door is closed
  ( 寝る前に
  下の扉が閉まっていると
   確認すること)

最後のページに、夫の字で
そう付け加えられているではないか。
病床にあってもなお、ノートとペンが夫の枕元にあった。

今夜燃えだす薪は きっと
暖かい安らぎで
私を満たしてくれるに違いない。
優しい音で
私を包んでくれるに違いない。

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。