きっぱりとした空とやわらかい湖水と
やっぱり
どうやったって
哀しいときがある
ふいに悲しみの波が襲ってくるときがある
これ以上美しい蒼があるのかと思う空の朝
私はひとり湖に泳ぎ出た
なんせ
例年ならとっくに泳げる気温のはずなのに
昨日など水温は上がれどそよ風がひんやりして
泳いで戻って来ると歯のガチガチが止まらなくなった
でも今朝は痛いくらいの太陽の光で
そして湖面は穏やかで
湖水は昨日からの気温で温まっているはず
パーフェクト!
きっぱりとした蒼空のもと
見渡す限り
人っ子ひとりいない
こんな天気の土曜日は
早い午後には子供たちがやって来るはずで
泳ぎに出るなら今だ
そう思ったのだ
ちょっとウキウキするくらいに
平泳ぎの初めのひとかきはいつだって緊張する
どんなに暑い日も水は冷たい
でも5かきもすれば体はその水温を認知して
10かき目になれば水の方が体に寄り添ってくる
そしてあとはひたすら心地いい
🌸🌸
泳ぎに行ってこい
夫が私に言った
その日も私はそのつもりで水着になっていたけれど
夫の具合が思わしくなかった
車いすの上で時折息を苦しそうにして
そして意識を失ったかのようにかくんと眠りに落ちまた目覚める
そんなことを繰り返していたのである
酸素の分量を増やす?
そう言った私に夫ははっと気づいたように
そして怒った声で言ったのだ
まだ行ってなかったのか
泳ぎに行ってこい、NOW!
その言葉の強さに私は
裏庭に通じる木製梯子階段を下りて
湖に出る
その日の湖水は
今朝のそれよりほんの少し温かかった
そのせいか
あるいは夫の容態に気持ちがとらわれていたせいか
泳ぎ始めても
水の冷たさを感じることはなくて
湖底は陽の光に揺れる波を映し
そのたゆたう縞模様を見ながら
私は泳ぎ進んだ
いつもの目標の
ボートに高く掲げられたカナダの旗までと
でも泳ぎながら
ふっと
私の心をよぎったのである
夫は今
ひとりで死んで行こうとしているのかもしれない
Leave me alone(ほっといてくれ)
外れかかった酸素のチューブを動かしたときに
私の手を払うように夫は言った
その日は朝から夫に意識の混濁があって
自分がどこにいるのか分からないようで
それでもはっと私のそばに心が戻ると
お昼に食べる物とか
野菜畑で育っているキュウリのこととか
そんな話をしていたのだ
もし夫が今
ひとりで死んで行こうと思っているなら
それでもいいよ
そう思って私は
さらに泳ぎ進んだ
薄水色の湖水は
陽の光にあたると
黄金色にきらめいて
在宅緩和ケアに入って4か月の頃
夫にはもう生きることが苦しかったのだ
I am a fighter
そう言ってICUから戻ってきたけれど
これが勝てない闘いである事を
夫はとうに知っていて
絶対にあきらめない
何に関しても
そんな人だった
でも
いいよ、今逝きたいなら
私のいない間に
水をまたひとかきする
水中のきらめきがさらに増す
泳ぎながら
ああなんて綺麗なのと
こんな世界があったんだと
でも夫はこの世界を今離れようとしているのかな
そう思った次の瞬間
私の体は大きく息を継いで
180度向きを変えた
そして急いで水をかいた
力いっぱい水をかく
泣きながら
夫はまだそこにいるかな
間に合うかな
🌸🌸
今朝、太陽が描く水中の縞模様を見たとき
その時の気持ちが
不意に蘇ってきたのである
泣きながら泳いで帰ったその時の
今日もその日に負けないくらいこの世界は綺麗で
湖水は少しひんやりして
でも泳いでいくうちに
体に寄り添ってくれて
もう
急いで取って返す理由は何もなく
私はゆっくりとカナダの旗まで泳ぎたどり着いて
そして足を下ろす
浅瀬になった底は足の裏にふんわりとした藻
ぐるりと回って見渡せば
見渡す限り薄蒼の湖
見上げれば
宇宙のどこまでも吸い込まれていきそうな空
その瞬間
大きな悲しみの波が押し寄せて来た
湖水はこんなに柔らかくて
きっぱりとした蒼空はこんなに頼りがいがあって
私を取り巻く空気は
こんなにも優しく穏やかなのに
🌸🌸
あの日岸辺に戻って
私は夫が見ているかもしれない窓に向かって手を振り
そして梯子階段を駆け上がった
夫はまだそこにいて
濡れたままの私を力なく抱き寄せてくれた
🌸🌸
夫がいなくなった今年も
湖畔には変わらず夏がやってきて
湖水は太陽の光を借りて
美しい縞模様を変わらず描く
それは一瞬たりとも同じではないけれど
曲線はいつだってやわらかくって
そして
ゆらゆら
ゆらゆらと
どこまでも
どこまでも
続いていくのだ
人が生きて死んで
そのひとつたりとも同じものはないけれど
ひとつの光の曲線が
こんなにもたやすく
水の中に消えてゆくのと同じに
命の曲線も
そこでもここでも
生まれては消えて
消えては生まれてと
そしてそれが繰り返されてゆく
今までと同じに
これからもたぶん
永遠ってそういうことかな
ふっとそう思う