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ポメラ日記91日目 デルモア・シュワルツ「この世界は結婚式」を読む

公園ポメラと透明人間の話

 ここのところずっと、在宅の作業が終わってから外に出かけている。電車に乗って、一駅か二駅先のところまで行って、文章を書くスポットを探している。

 僕の住んでいる市は、図書館が思った以上に充実しているので、訪れるのは楽しい。書店では新刊や売れ筋の本以外は並んでいないことが多いけれど(もちろん商売だから)、図書館に行くと思わぬタイトルに出会う確率が高かったりする。蔵書が揃っているのもラッキーだった。

 図書館の近所をしばらく散策していると、テーブル席のある公園を見つけたので、思い切って座ってみて、文章を書くことにした。ひとけもある公園だけれど、敷地が広いので、あまり気にならない。

 この時期は気候もよく、外で本を読んだり、書いたりするにはちょうどいい。読書好きやもの書きにとっては「オンシーズン」なので、ポメラを持ち出して外に出かける。

 図書館には僕の好きなテラス席があって、外の空気を吸いながら本を読んだり、ちょっとコーヒーを飲んだりできる。

 室内は何となく息苦しい感じがあって、寒さが出てくる冬の季節になるまではしばらく粘っていようと思う。

 テーブルと椅子がある公園ってけっこう貴重で、あんまり見掛けることもないのだけど、たまたま訪れてみたら近所にあったので、普段の散歩ルートに組み込んでみた。

 ただ公園は蚊が多く、11月でもけっこう容赦なく噛んでくるので、くるぶしの周りがカユくなりながら文章を書いて、結局10分間だけ書いて退散した。

 カフェや図書館のテラス席ぐらいが、ちょうどいいのかもなと思ったりもした。

 帰り道、障がいを抱えている人が、原っぱで支援員の人と一緒にサッカーボールをコロコロと転がしているのを見た。

 僕自身も病気を持ちながら暮らしていて、こういう人達の役に立てる仕事がしたいと思う。

 彼らは街中で見掛けるときよりも、ずっと活き活きとしているように見えた。公園では隠す必要がないからかもしれない。ちょっとくらい大きな声で笑ったり、変わった動きをしたって、ここでは平気。ほんとうは街中にも居場所があればいいと思う。

 僕も街と街のあいだを点々としていて、「いてもいい場所」が見つからないから、お金を払ってカフェのイートインの座席に座ったり、図書館のすみっこの席にいたりする。

 会社が居場所にはならない人のための居場所って、最初から都市設計のなかには入っていないのかもしれない。会社以外の居場所があんまり快適すぎると、社会が回らなくなって困る人が出てくるから、という理屈で。ちょっとせち辛いよな、とは思う。

 僕は在宅のライターで、あんまり人間らしい暮らしはしていない、仕事のとき以外はひと言も喋らないまま一日が終わることもざらにある。今ではそういう生活にも慣れてしまった。

 ときどき自分を透明人間みたいに感じる(僕自身のなかには強いエゴや劣等感、負い目もずっと感じているから、けして透き通るような欲のない人間という意味合いではない)、目の前に人はいるけれど触れることはできないし、喋ることもできない。僕は実体として街中にはいるけれど、誰とも関わらないから、ある意味ではいないのと同じことだ。

 だから他者から僕を見たとき、「僕」という存在は自分の作り出す言葉の中にしかいないのではないかと思っている。街中のどこにいても居場所がない人が読んで面白いと思える作品が書けたら(べつにそれは、単なる暇つぶしであってもいい、生きることは死ぬまでの暇つぶしだから。そんなに楽なものでもないけれど)、僕は少しだけ透明ではなくなる気がする。

 その辺りの感覚を伝えるには、物語の形式の方がいいんじゃないかと思う。わざわざ伝えないままいなくなっちゃっても、べつにいいわけだけど、何となく書き残しておきたいこととして、それはいつも僕のなかにある。単純にあんまり他のことには眼が行かないからかもしれない。

デルモア・シュワルツ「この世界は結婚式」を読む

 デルモア・シュワルツの「この世界は結婚式」という短編をさっき図書館で読み終わった。

 このポメラ日記でも何度か取り上げているけれど、読み終わったときの感想としては、1900年代でも、現代でも、若者が悩んでいることにはそれほど差はないのでは? ということだった。

 この物語の主人公になっているラディヤードは、戯曲の作家になることを夢見ているけれど、アメリカ大恐慌の不況に遭い、地元のサークル活動にも見切りを付けて、最後は地方の学校で演劇を教えるためにサークルから出ていくという、わりと現実的なところに着地する。
 
 ラディヤードの姉のローラ・ベルは、いつか弟がサークルに結婚相手を連れてきてくれることを期待して、五年にも渡って献身的にサークルの居場所を提供しているが、ローラは結局誰とも付き合うことがなく、最後には弟のラディヤードからも突き放されて、自分の人生について疑問を抱き続けている。なぜ、他の人には結婚相手のいる人生があって、あたしにはないの? 

 サークルのなかで唯一、何かに気付いているらしいジェイコブは、こんな台詞を話している。

 「そうだな」とジェイコブは言った。「不況は原因であると同時に結果でもあり、不幸の大きさは一九二八年も一九三四年も同じくらいだったのかもしれない」

「夢の中で責任がはじまる」デルモア・シュワルツ著 小澤身和子訳
河出書房新社(2024)p.125(「この世界は結婚式)より引用

 サークルのメンバーは全員が自分の生まれた不況の時代を嘆いていて、自分の生まれ育った環境に皮肉を言うことで茶化しつづけているが、結局誰も望んだような大人にはなれず、サークルの外に居場所を作ったメンバーだけが、いつのまにか社会に適応していく。

 自分の人生について真剣に考えるあまりに、却って社会にどんどん馴染めなくなっていく若者たちの台詞を読んでいると、彼らのそれぞれは、僕の中にもいるように感じられる。

 あんまり自分の人生に引き付けて解釈してしまうと、物語の本筋を見失ってしまうのでこの辺にしておくけれど、彼らのなかにないものって「責任」ではないかと思う。

 デルモア・シュワルツの作品のなかで、唯一、最も高く評価された作品が「夢の中で責任がはじまる」と言われているけれど、シュワルツは同じ主題をずっと追いかけていてバリエーション(変奏)として「この世界は結婚式」を作ったのではないか、と僕は見立てている。

 まったく別の短編として読むことも、もちろん可能なのだけど、ちょっと読み解いてみると、「夢のなかで責任がはじまる」は、いつのまにか主人公が映画のような世界(つまりは彼の家族との現実世界)に投げ込まれて、それを背後で見ている「僕」がいる。

 「僕」が何やら知らん間に、両親のもとに生まれてきて、そこには祖父や祖母、叔父といった家族の小さな歴史(ホーム・ムービー)のなかに「僕」は組み込まれることになるが、この状況の外にいる、映画館で二十一歳を迎えた現実の僕だけが、この家族の行く末を知っていて、冷めた目でこの映画を見続けている。

 家族も社会も、自分でさえも「他者」にしているのは、この時代のこの家族に産まれてきた「僕」に対する拒絶反応を表しているようにも見える。そんな彼が映画館で他人事みたいに自分や家族の人生を「観ていた」ところ、劇場の外に無理矢理連れ出され、はじめて「冷たい光のなかへ」引きずり出されることになる。

 物語はここで終わるのだけど、はじめてそこで彼は傍観者ではなく、自分自身の人生として生きなければならない冬の朝を迎えることになる。たとえそこが身を切るように冷たくても、そこは劇場のなかの影の世界ではなく、光のなかに彼はいる。

 一方の「この世界は結婚式」では、登場人物のそれぞれに実体はあるけれど、現実社会に入っていくことができない若者たちを描いていて、五年の歳月をずっと屁理屈をこねつづけて(そこがまたこの物語を面白くしている要因でもある。僕はピーナッツ(SNOOPY)を思い出した。塀の上で哲学談義をするライナスとチャーリー・ブラウン。彼らを蹴っ飛ばすのはもちろん姉のルーシー)サークルのなかの穴ぐら生活を送り、その果てに、メンバーのある一人は、「この世界は結婚式(のようなものではないか?)」という仮説を立て、それに対する議論で幕引けとなる。

 サークルのなかでは、誰かが職に就いたり、誰かがいつの間にか結婚したり、あるいはずっとくすぶり続けているものもいる。この世界はつまるところ結婚式のようなものだと、最後まで中立的な立ち場を取り続けたジェイコブが言う。

 結婚式にいるのは、花嫁や花婿だけではない、その影にはパイを配る給仕がいて、決して夫や妻を持つことがない司祭や尼僧がいて、花嫁が断った求婚者も会場ののどこかにはいて、もう二度と若者には戻れない老人がいて、ハンサムなバグパイプの演奏者とそうではない演奏者がいて……。

 ジェイコブがこの仮説から引き出した結論は、どんな役割を果たすにせよ、この世界の結婚式というパーティー(パーティ会場ではなく葬式だとローラは言う)に「参加」している事実は変わらない、というものだった。

 「この人生はただのパーティーで、どんな種類のパーティーでもいいと言うつもりはない。人生は結婚式で、喜び、恐れ、希望、そして無知に満ちた最も重要なパーティなんだ。このパーティでは、みんなのための十分な場所と役割があり、何の役割も果たせなくても誰もがパーティに参加できて、ごちそうにありつける。自分が披露宴にいると分からない人は、目の前にあるものを見ていないだけだ。この世界が結婚式であると分からないのは、死んでいるのと同じかもしれない」

「夢の中で責任がはじまる」デルモア・シュワルツ著 小澤身和子訳
河出書房新社(2024)p.138(「この世界は結婚式)より引用

 このパーティに参加するかどうか、僕たちに選ぶ権利はなくて、いつのまにか僕たちは会場の中にいる。

 見知らぬ状況(つまり僕らがいるこの世界の中)に投げ込まれてから、「ここはパーティ会場であなたはいま、まさにこのときに参加しているんですよ」とは、誰も説明してくれない。

 もちろん、「夢の中で責任がはじまる」の劇場から追い出される前の「僕」のように傍観者でいつづけることも、状況が許せばできるのかもしれない。

 この世界はパーティなんかではなく、どうせいつかはみんな墓場にいく葬式なんだ、と結論づけたローラのように生きることもできる。

 現実の僕の立場というか、ものの考え方はけっこうローラに近いものを感じるのだけど、たぶんそれだけがすべてでもないよな、というところをジェイコブがけっこう正確に突いている感じもある。

 小説なんで、数学の試験とは違って正誤を争うことにはあんまり意味がなくて、どっちが正しいとかいう判断もない。

 でも現実で僕らは、この二つの間を揺れ動いているよなと思う。結婚式と見るか、葬式と見るか。この状況に投げ込まれたことを傍観しているか、自ら進んで責任を引き受けて、家庭を持ったり、仕事の役職に就いたり、あるいはそんなものを馬鹿げていると思って、離れたところに生きる道を見つけるか。

 ただ君が望んだか、望んでないかにかかわらず、いま君はこの会場にいるってことだけは忘れないようにしてくれよ、というメッセージだけは受け取ったような気がした。

 百年前のアメリカでデルモアがこのことに悩み続けていたのだとしたら、時代が下っても根っこのところで人間が悩むことは変わらないのかもなと思う。

 2024/11/12 20:19

 kazuma

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