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ポメラ日記97日目 私家版の本を作りたい話

・ポメラ限定カラーアンケートの話

 このあいだ、キングジムのXのアカウントで次期ポメラ開発のアンケートのポストがあった。締め切りは今月の13日(金)までなのでまだの方はお早めに。

 内容はスマートフォンでもさくさく回答できるもので、目玉になっている質問は次期ポメラの限定カラーのカラーリングについてのお話。

 これまでにストレートタイプのポメラの限定カラーは、スケルトンモデル(ポメラDM250X)や僕が使っているホワイトモデルのポメラがある。

 もしポメラで好きな色が選べるなら、と考えてみて、僕は木製のアナログチックな温かみがあるものがいいので「ウォルナットの木目調」と回答した。

 ポメラはよく喫茶店に持ち出して使っているから、喫茶店のテーブルの色味とマッチすると自然だし、限定カラーとしての特別感もあるのではないかと思う。

 他に考えたのは、パイン材のテーブルの色味(木製の玩具みたいな温かみがある)だといいかなと思った。

 過去のポメラのモデルで、たとえばスケルトンモデルだとちょっとサイバーパンクっぽかったり、平成レトロ感がある。

 ホワイトモデルは、やっぱり使っていてシンプルにテーブルが明るくなるのでよい。

 他のアンケートの回答欄には、「自由記述」の欄もあったので、今後も開発を続けて欲しいということと、標準で「ブラック」と「ホワイト」が選べるようにして欲しいことを書いた。

 Xのタイムラインを眺めていると、ポメラのユーザーは男性だけでなく、どちらかというと女性ユーザーも多い気がしていて、ブラックとホワイトの二色を用意するとそういう層にも届く気がする。

 文房具のジャンルは、けっこうかっちりしたビジネス向けのものもあるけれど、もともとはどちらかというと女性が強いジャンル(文具女子博などもある)なので、次回のポメラの発表に期待したいところ。

・もの書きの休日

 ようやく引っ越し先でのアパート暮らしに少し板が着きはじめて、一週間のスケジュール感が何となく掴めるようになった。

 土日のどちらかは知り合いと会うこともあるけれど、予定が合わないときもあり、そんなときはふらっと隣町まで散歩に出かける。

 今朝は松屋で「得朝牛皿定食」(390円)を食べたあと、ポメラと文庫本(『喫茶店文学傑作選』)を鞄につっこんでそのまま家を出た。ひとつのところにずっと留まっていられない性分なのかもしれない。

 隣町のスーパーに併設された喫茶店がかなり居心地がよく、それだけのために2.5kmほどの道を歩いて行く。時間にして、だいたい片道25分の散歩。

 線路沿いの道がかなり整備されており、街路樹もあって歩くのには申し分ない。散歩しながら頭を空っぽにする。

 京都には哲学者の道という西田幾多郎が歩いた道があるけれど、近所にある散歩道もなかなかわるくなくて、イチョウやサトザクラ、シイノキ、ギンモクセイなどが植えられていて、紅葉も愉しむことができる。

 適度に歩いたあとは、喫茶店のテーブルに着いてポメラ日記を書いたりする。書くテーマだけは家にいるときにざっくり決めておいて、ぼんやりとしたところから書きはじめる。

 30分くらいじっくり歩いたあとに、コーヒーをちびちびやっていると、ちょっと何か書いてみたいなという気持ちになってタイピングが捗りやすい。

 帰り道には図書館もあるので、持ってきた本が喫茶店で読み切れなかったときは、図書館で読み切る。

 僕は小説だと短編や中編、エッセイでも長々としたものではなく短く章ごとに区切られたものが好きなので、本を読むときは章の区切りで少しずつ読んでいる。

 読むときもかならずしも最初から読むとは限らず、面白そうなところにアタリを付けて、気分で適当なところから読みはじめる。

 夏目漱石が『草枕』のなかで、本なんてどこから読んだっていい(どこから読んでも面白く読める、筋に頼らないものがほんとうに面白い小説、と僕は解釈した)と登場人物に言わせている箇所があり、わりとその言葉を真に受けた読書をしている。

 図書館にはテラス席があって、天気がよいときは外に出て読む。それからまた同じ道を通って帰って行く。書店があるとつい本を買って出てきてしまうけれど(今日も駅前の書店で谷川俊太郎追悼の特集がやっていて、立ち読みして思わず『二十億光年の孤独』の本を買ってしまった。)、一ヶ月に読むのはだいたい二冊か三冊でじっくり時間を掛けて読む。

 よくSNSで本棚にずらりと並んだ写真を誇らしげに見せるような投稿を見かけるけれど、そのなかのただ一冊でも人に説明できるほど読み込んだ本があるのだろうかと思ってしまう。

 僕がいまのところ読んでいるのはデルモア・シュワルツの『夢の中で責任がはじまる』と『喫茶店文学傑作選』で、今月はこの二冊を交互に持ち歩いて街中で読んでいる。

 一年で読める本なんて二十冊か三十冊がせいぜいいいところで、同じ頁や段落を何度も読み直したりしながら少しずつ進めていく。読む本の速度を競うなら受験勉強と何も変わらないし、面白くもなんともない。

 あまり人と比べたりしないで、一ヶ月にただ一冊か二冊を持ち歩く。散歩くらいの速度でいいのではないかと思う。

・私家版の本を作りたい話

 一応、ずっと書き進めている原稿があって、来年の春頃(三月~四月)を目処に、どこかに出せればと思っている。

 公募に出すとかもまったく考えないで、ライティングの仕事が終わってから、夜にちょこちょこ一年くらい掛けて作っていた。まだ誰にも見せてはいないし、どこかに出すアテがあるわけでもない。

 公募に出しても、選考結果が出るまでに半年くらいのラグがあり、どこかの下読みに原稿をゴミ箱に放り込まれるのを待つのも何だかな、という気持ちがある。もう学生の頃から十年くらいは書いているが、箸にも棒にもかからないので、そっち方面の才能は僕にはない。

 そもそも創作って誰かに認められないとしちゃいけないものでもないしな、という意識が僕のなかにはあり、そういう気持ちがふつふつと煮たってくると、ヘンリー・ダーガーの一生を思い浮かべる。

 もしヘンリー・ダーガーが周囲との関係を完全に断絶するのではなく、ちょっとだけ開くところを持っていて、書いたものが誰かに読まれる可能性を考慮していたら、どうなっただろう? あるいは晩年のサリンジャーが一旦、コーニッシュに隠遁しても塀を巡らさず、ときどきはニューヨークに戻って出版関係者にわたりをつけ、原稿に関して意見を交換し、『バナナフィッシュにうってつけの日』を書いたときのように、『ニューヨーカー』誌の編集者からの注文や修正にも根気強く応じていたとしたら?

 この二人の生き方は、もの書きとしてはこれ以上ない生き方だと思う。けれども、彼らの死後に残るのは作品で、その一部に読者のとりつく島がないのはなぜなのか? 自分以外の他者が読む可能性が排除されているのはどういうわけか?(本人にそういう意識はなくとも、「非現実の王国」と「ハプワース」の世界を愉しんだと言える人はごくわずかかもしれない)。

 何か事情があって、世に隠れて棲まなくてはならない人がいる。世間の方が勝手に設定した「ごく普通」、つまり会社に通って、家庭を持ち、子を産み育て、路頭に迷わないように生きていくことができない人(僕がそうだ)。

 そういう人にとって「生きるよすが」がどこにあるのだろう? つまり会社や家庭のどこにも居場所を見つけることができず、世間的に肯定されやすいマジョリティの価値観に支えられることもなく、最期までただひとりで生きることを強いられるか、受け容れざるを得ない人たち。

 本来、そういう人のために芸術があるんじゃないのか? ただ喰って寝て働いて吐き出すだけの日々に耐えられず、むなしくなり、もうどうにもならないところから書きはじめるのが文学じゃないのか?(そんな重苦しいもののためではない、と答える人がほとんどにせよ。)

 ヘンリー・ダーガーの生涯を調べてみると、アパートの部屋には誰にも見せなかった原稿が十五冊分、きっちりタイプライターで清書していて、私家版の本として半分が製本されていた。四十年掛けて作った原稿の総枚数は1万5千頁に及び、アパートの大家には、その原稿の所在さえ明かさずに、部屋にあるものはどうするか、と尋ねられたときに、ただひと言「捨ててくれ」と言ったそうだ。

 自分が生涯を掛けて作ったものをただひと言で捨て去ったことについては(ヘンリー・ダーガーにとっては創作の成果物よりも過程だけがすべてだった?)、誰も口を挟むような余地はない。

 でも、もし彼が作品を誰かに届ける可能性を諦めていなかったとしたら、「捨ててくれ」とは言っちゃいけない気がする。それは作家としての人生を葬り、誰にも覚えられることのない孤独な人間のありふれた死として片付けられてしまうだろうから。(さいわいにもダーガーのケースでは、大家がその原稿の価値を見抜いて捨てなかったために世に出た)

 ほんとうに芸術家として生きるのなら、たとえ人間としての自分の人生が終わっても、作品だけは手放しちゃいけなかったんじゃないか。「捨ててくれ」ではなく、「これだけはどんな形でもいいから残しておいてくれ」と無様になっても頼み込むのが作家じゃないか。

 昔、「書くことの前に生きることがあるのか、生きることの前に書くことがあるのか」と考えていたことがある。そんな青臭い禅問答はばかげていると一蹴されるものかもしれない。

 でも、この書くスタンスの違いは最後の最後で作品のなかに現れるものかもしれない、と思うことがある。

 生身の自分よりも作品を優先して生きることができるか、それとも、作品よりも生身の自分の人生を優先するのか。

 それぞれの人生には「グラデーション」がある、とか、「ゼロか百か、白か黒かではない」とか、分かったような口を利いて曖昧にされていくけれど、アスリートや職人の技術はほんの小さな微妙な差がすべてを決めてしまうのに、どうして小説や文章の世界にそれがないなんて言えるだろう?

 もちろん人間としての生活をぜんぶ捨てろ、と言っているわけではなくて、最低限の糊口はしのぐ必要はある。ヘンリー・ダーガーだって、清掃夫を何十年も続けていた。どう考えたって辛くないわけはないのに、それでも書くことを諦めなかった。ゴミ捨て場を漁ってまで、自分の創作に使うための新聞紙や雑誌を探した。身なりはぼろぼろで、眼鏡をテープで留め、出会う人々には片っ端から煙たがられながら、たったひとりのアパートで、それでも生きて書いていた。

 生きることよりも書くことを先に置いていたのに、どうして彼らは作品を分かち合おうとすることなくいなくなってしまうのだろう。たとえ読者の人生などまったく興味がなく、ただ書くというプロセスだけが彼らにとってはすべてであったとしても、読み手がいないところにほんとうの意味での物語はできない、そのたったひとつの要石を置くことを飛ばしてしまったがために、作品が台無しになってしまうことがある。

 僕も彼らと同じようにアパートに隠れ棲んでいる世捨て人には違いない、それでも書いた文章が誰かに届く可能性を諦めたくない。

 いま持っている原稿は、たとえ誰にも読まれることがなくても、私家版として製本してみたい。本を作るのが僕の夢だった。

 2024/12/08 19:07
 
 kazuma

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