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手触り感と私的自己意識の拡大

ここ数週間、内外から研修や暇つぶしと称して、若者がファームに訪れ、滞在している。基本は、動物のお世話(餌やり、ボロ取り、乳しぼり、柵の修理など)と、この時期は樹液の採取などのルーティンワークをこなす。

それぞれのパーソナルがあるので、詳しくは書かないが、夜型、定型、指示待ち型、無思考、と色々あるのだけど。一番の驚きは感情を受け取らないということ。

何を言ってるのか?と思うかもしれないけど、

どういう生き方、働き方をしたいかと話すと、多くの若者は
言われたことをやる、無感情で受け取る
のだ。
のだ?

いや、待て待て。なんじゃそれ!と突っ込みたくなる。
それを受け続けた結果どうなるのか。もはや、それは受け取るというよりも受け流すらしい。なんて器用なザルなんだ、と思うけど、それはほんの2、3年なら受け流せても、君たち、僕たちの身体や脳みそ、心には器がある。透明でも、無でもない。

そんなものを身体に溜め込む、受け流し続けることになんの意味があるのか。

嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことを無で「やらない」
嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことを感じて「やらない」
嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことを無で「やる」
嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことを感じて「やる」

もっともっと、バッファなゾーンがあり、混ざり合う複雑なことかもしれないけど、ざっくりとこう。

僕は、やりたくないこと、めんどくさいことは「やらない」派ではない。
自分がやりたいことの途中や今はやった方がいいはあると思うから、悩んで何もしないくらいならやる。
やった結果やらないはOK。
これを、無でやると何も残らない。ただの消費で終わる。

多くの人の「やりました」「やったことあります」はたぶん無で消費する。

そうすると自己意識の中に組み込まれず、経験や体験としての価値は薄くアウトプットされていかない。

僕は、体験が嫌い。
正確に言うと体験屋さんというか、嫌なこと、辛いこと、経験のためという謎の体験。
「いい経験になったね〜」は暴力の塊。
それは、全力で逃げたい🐎笑

無意味、無価値、無駄を認識して受け取るところからクリエイティブが生まれる。発想、思考、創意工夫。

そう、僕が動物が飼ってるのも、お世話をするのも、最大の無駄だと思ってる。
特別な動物好きではない(相対的に、愛玩している人たちを見ると、そう思う。森にいる動物たち個体に愛はある。)
でも、その無駄は、更なる無駄を生み出し、無秩序に僕の脳みそに侵入し、刺激してくる。

正直、僕は動物の専門家でも、セラピー、教育、福祉、コーチング…、あらゆる分野の専門家でもない。
ので、この森での動物の暮らしにどれだけの効果があるかは数値的にはわからない。

でも、それでわかる効果に意味はないと思う。
その数値を見出すための作業になってしまうから。
それはまったくもって、脳を刺激しない。

「手触り感」のある外界からの刺激を受けて、自己の解釈と判断の蓄積の上に「私的自己意識(内的な感情、、、」の拡大がおこる🧠

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