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港区を歩く①~英一蝶の墓地・承教寺

港区高輪に行ってきました。
今回伺ったのは日蓮宗の『承教寺』

こちらには、江戸時代の画家
英一蝶(はなぶさいっちょう)のお墓があります。

昨年サントリー美術館で開催された
英一蝶展のレポはこちら↓



沿革

一乗院日円により正安元年(1299年)に開かれた。当初は西久保(現在の港区虎ノ門)にあったが、江戸時代初めの承応2年(1653年)3月に現在の地に移転した。池上本門寺の末寺となる。

江戸時代中期の延享2年(1745年)の大火に巻き込まれたとき、山門、仁王門、鐘楼は焼失を逃れ現存する。類焼した本堂は天明元年(1781年)に再建されたものである。

明治初期より明治37年(1904年)立正大学の前身である大檀林が当寺院に置かれた。

wikipediaより


英一蝶の墓

英一蝶の墓
 江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信香、潮湖のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(1652)大坂(京都ともいう)に生まれ、15歳(一説に8歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
 元禄11年(1698)『当世百人一首』や『浅妻舟』の図などが将軍綱吉を風刺したとして、三宅島に配流となったが、在島12年ののちに大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様子を見て「一蝶」と号したという。
 軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保2年(1717)には風俗画廃業を宣言している。同9年1月13日、73歳で没した。


一蝶の三宅島配流については4つの説があるそうです。

①柳沢吉保が出世する過程で実の娘を将軍綱吉の側室に差し出したという噂を一蝶が風刺画にしたから(ほかに浅妻舟が原因とも)
②町人の身分にもかかわらず生類憐みの令に違反して釣りをしたから(武士は修練目的で黙認)
③禁句である”馬がものを言う”という歌を広めたから
④宴会の芸で座敷を盛り上げていた時、ある殿様をそそのかし、勢いで花魁を身請けさせ、しかもその殿様は将軍綱吉の生母桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある高家旗本の六角越前守(ろっかくえちぜんのかみ)だったから。

日蓮宗教誌『正法』 令和7年冬/お正月号より引用


二本榎の碑

二本榎の碑について
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎(にほんえのき)」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと町内の黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、日本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
 この「碑」はこの町の住民にとってたいせつな象徴となっております。


本堂


総門・山門


御首題


アクセス

都営三田線 東京メトロ南北線 白金高輪駅下車徒歩10分
都営浅草線 高輪台駅下車徒歩12分 泉岳寺駅下車徒歩11分


おまけ

サントリー美術館『英一蝶展』で展示されていた
『釈迦如来画像』は当寺の収蔵品です。
おかみさん曰く、「お寺で飾っている時は『う~ん』という感じだったけど、美術館で展示されたのを見た時は、さすがだなあ」と感じられたたそうです。

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