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自己肯定感について考えてみる~自己肯定感とは?~

専門家でも何でもないけど・・・

ここ数年、育児にも「自己肯定力を高める育児」とか多く聞くし、大人向けでも「自己肯定感」をつける方法論などよく耳にする。

自己肯定感・・・「ありのままの自分を肯定する感覚」

それは必要なのかもしれないが、私は少し(だいぶ?)疑問である。

ありのままの自分を受け入れる事は大切だとは思う。
自分の長所、短所、性格、生い立ち…そんなものをまず客観的にみて受け入れる・・・これは必要だと。

ただ、それを全て肯定して評価すべきなんだろうか?と思う訳だ。

自己肯定感が高い人がみんな素晴らしい人なのか?と考えると、かなりの疑問を感じるのは私だけだろうか?

自己肯定感が低い人はダメな人間なのだろうか?
いや、そうではないと私は感じる事も多い。

専門家ではないので、50年以上生きてきた中で関わった人たちを思い浮かべつつ、感じた事を書いていこうと思っている。


まずは自分・・・一番長い付き合いをしている私。

俗にいう「毒親」育ちだったせいなのか、思い返せば20代くらいまでは自己肯定感は低めだったと思われる。

ただメンタルは生まれ持って強く、考え方は周囲とズレている割に楽天家の為、深く考えなかったのもあった。
もう1つ、幸いIQがギフテッドレベルには届かないまでも、まぁまぁ上位組なので、物事を冷静に論理的に捉える方でもあり、周囲の情報や意見に振り回される事が無かった気もする。

自己肯定感、低かったな~と感じたのは、自分が好きな相手が自分をどう思っているのか?好かれているのか?が異常なほど気になっていたという事。

これは多かれ少なかれ誰でも気になるのだろうが、そこは毒親に否定され続けたせいか、気になる度合いが半端なかったな~と思う。

今の私しか知らない人は信じられないと思われる行動もした。

気になる異性の気持ちが気になり過ぎて、電話に出ないだけで不安になり、相手の職場までこっそり見に行った事もあった。
要は仕事で電話に出られなかったという言葉に不安を持ち、自分の事が嫌で電話に出てくれなかったのでは?と思ったからだ。
今、思うと我ながら怖い行動だ。

親以外の人たちに恵まれたお陰で、少しずつその不安度合いは減った。
ゼロになる事は無いが、それは大抵の人が持つものだろうと思う。

自己肯定感が低かった頃に培われたものは、ちゃんと武器にもなっている。

その場の空気を読むのが上手かったり、相手の気持ちに敏感だったり。
人をよく見る…観察力は自己肯定感が低かったせいでもあると考えられる。

低かったからこそ他人に「認められたい」「よく思われたい」という気持ちが強く、その為に相手を観察し、どうしたら認められるか?好かれるか?をメチャクチャ考えて行動していた。

今はどうかと言えば・・・

もちろん自分が好きな相手からは「認められたい」し「よく思われたい」とは思う。
が、変わった点と言えば自分に無理して嫌な事まではしなくなったし、それで嫌われるなら、その人とは合わなかったのだと思えるようになった。

ただ、もっとこうしたら!と努力すべき事はしたいと常に思っている。
自分を曲げてもそうした方が良いと自分が思えばやる。

それは自分がしたくてしている事であり、それによって自分も成長する訳だから良い事だ。それまで知らなかった自分に出会えたりもする。

そこで考える。

これは自己肯定感が高い事なのだろうか?と。

ありのままの自分を肯定する・・・という考え方から言えば、認められたい相手の為に自分を曲げても努力するのは違うと言えないか?

自己肯定感が高過ぎて、相手の事などお構いなしに「これが自分だ!」と自分の否に気付かずに自己主張するのは単なる我儘では?

だいたい「ありのままの自分を肯定する感覚」とは?

ありのままの自分をその通りなんだと認める。

認めてその後は?

それが大切な気がする。

そう考えていくと、自己肯定感を高めるのは必要なのだが、ただ肯定感が高けりゃいいってもんじゃない。

ありのままの自分を肯定して、「これが自分だから!」と周囲に強要してもいいのか?

でも、この人の自己肯定感が高いか低いか?と問われたら、高いのではないのか?

また自分について戻るが・・・

ありのままの自分を受け入れてはいる。

引っかかるのは「肯定」という言葉なのかもしれない。

ありのままの自分を受け入れてはいるが、全て肯定は出来ない。
直したいところはいっぱいある。
それは自己を否定している事になるのだろうか?


と、グダグダ考えているのだ。

そんな考えを整理する為にも、しばらくは「自己肯定感」に関して書いていこうと思っている。





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