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エピクロスと僕

僕は昔から、関係が浅い多くの人と関わるのが億劫だった。声をかけられると、ときどき抵抗を感じてしまうし、わざわざ外に出かけるよりも、自分の部屋やカフェの片隅で黙々と作業をしている方が落ち着く。

いわゆる「インドア派」というやつなのかもしれないけれど、理由はもう少し深いところにある気がする。

実は移動そのものが苦手で、あれこれ計画を立てるたびに「めんどくさいな」と思ってしまう。だけど同時に、やらなければならないことは最小限の手間で済ませたい、という合理主義的な一面もある。

この相反するように思える「めんどくさがり」と「合理主義者」が、なぜか僕の中ではうまく共存していた。無理してアクティブに行動すると、疲れがたまってかえって非効率だし、やりたくないことを無理やり続けると心も沈んでしまう。

そんな僕が日々大事にしているのは、何もせずにぼーっとする時間だ。意識をオフにして、ただ静かに身体を休める。その時間があるかないかで、集中力や気分が大きく変わることに気づいた。ところが、この「ぼーっとする」ことは、多くの人からはサボっているとか、やる気がないと思われがちだ。僕自身も最初はどこか罪悪感があった。

悩める一人作業

僕が一人で作業するのを好むようになったのは、学生の頃からだ。クラスメートと一緒にやるグループワークよりも、自宅で自分のペースで取り組む課題研究が楽しくて仕方なかった。

誰かに合わせる必要がないから、ストレスも少ない。だからこそ、体育会系のような激しい行動力を求められる場面が来ると、内心でどうにも納得しづらかった。

友人と遊ぶのは嫌いじゃないし、大切なことだとは思う。だけど「親しい人と少しのんびり過ごせれば十分」という感覚が強い。みんなで旅行に行くのは嫌いじゃないが、移動が多いとどうしても気が乗らない。そこで思い悩むことがあったのだが、自分らしい生き方を貫けるヒントをくれたのが、エピクロスの考え方だった。

エピクロスとの出会い

たまたま読んでいた本で、エピクロスの「心の平穏(アタラクシア)を目指す」という言葉が妙に心に残った。
エピクロスは、派手な社会的活動をするよりも、静かに親しい友人と過ごすことを良しとしていたそうだ。僕が感じていた「わざわざ外に飛び出さなくても、気の合う人とまったりしていたい」という感覚が肯定されたようで、救われた気がした。

さらにエピクロスは「不必要な苦労は減らして、最小限の労力で快適に生きる」ことを大切にしたという。僕が「めんどくさいことは避けたい」という姿勢を持つのは、単なる怠惰ではなく、一種の合理的判断だったのかもしれないと感じた。

このときから、「疲れたらぼーっとするのが自分流の最適解なんだ」と開き直れるようになり、どこか気が楽になった。人の目を気にせず、ただシンプルに快適さを追求する。それが僕の原点だと気づいた。

ぼーっとする時間の尊さ

エピクロスの言う「快楽」は刹那的なものではなく、持続的で深い平穏を得ることに重きを置いている。この概念は、僕にとって「ぼーっとする」大切さを再確認させてくれた。

たとえば、思考を停止してただ空を眺めるとき、僕は頭の中が少しずつ整理されていくのを感じる。あれこれ考えすぎて混乱していた情報が自然と順序づけられ、次にやるべきことが鮮明になる瞬間がある。

逆に言えば、心の平穏(アタラクシア)のない状態で無理に動き回っても、どうにも集中できなくて結果的に効率が下がる気がする。
だからこそ、めんどくさいと感じる大掛かりな予定や過密スケジュールから一歩引いて、自分にとって最も心地よいペースを保つようにしている。そうすることで、余計な焦りやイライラからも解放される。

まとめ

僕は「静かに一人で作業したい」「移動が苦手」「めんどくさがりの合理主義者」といった、ある意味わがままな性分を抱えながら生きてきた。だけど、エピクロスの思想を知ることで「それもアリなんだ」と思えるようになった。

周囲のペースに無理やり合わせず、自分の中の心地よさを優先してもいい。ぼーっとする時間を罪悪感なく享受するのは、意外と大切なことだった。
エピクロスが説く、派手な成功を求めずに穏やかな平穏を大事にする生き方は、今の僕のスタイルにぴったり合う。そう気づいてから、僕は「どこかに行かなきゃ」「人と話さなきゃ」といった焦りをずいぶん手放せた。

自宅や落ち着くカフェに身を置いて、最低限の労力で大切なことを済ませる。そんなシンプルな生活を大事にしながら、「自分はこれでいいんだ」という自信を少しずつ育てている。
気軽に動かないことやぼーっとすることは、決して怠惰や逃げではない。僕はこのスタイルで、自分なりのアタラクシアを感じている。

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