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私がスポーツビジネスの世界に飛び込んだ本当の理由

皆さん、初めまして。
このたびは私の記事に興味をお持ち頂きましてありがとうございます。

私は現在、新卒で入社した広告会社でスポーツビジネスに携わる仕事をしています。入社当初の配属先は営業でしたが、その後、社内ジョブローテーション制度を利用してスポーツビジネスを担当する部署に異動。念願叶って、どっぷりとスポーツビジネスに携わるようになりました。新しい部署では、バドミントンやテニスの国際大会、LPGAツアーのトーナメントディレクターとして大会運営に従事したり、テニスのジュニア育成に携わったりしてきました。フットゴルフの国際大会では、日テレジータスで放送された世界初のフットゴルフ中継の番組解説者として解説をしたこともあります。入社前から憧れ、希望していたスポーツビジネスの世界に飛び込むことができ、今は毎日が充実していますが、この先も成し遂げたいことが山ほどある為、現状に満足することなく、スポーツ界におけるスポンサービジネスの更なる拡大を目指して頑張っていきたいと考えています。

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ちなみに私は、入社当初に配属された営業時代から、業界No.1の某スポーツメーカーを担当させて頂いたり、国民栄誉賞受賞のオリンピック金メダリストを起用したCMを制作したりと、スポーツ関連業務が身近にある環境で過ごしてきました。幸運にも、サラリーマン人生において今の今までスポーツから離れたことは一度もありません。しかしながら、入社前からスポーツビジネスに携わりたいと思っていたにも関わらず、配属の際に会社に対して「スポーツビジネスをやりたい!」と口に出したことはありません。たまたま配属された営業セクションにスポーツの仕事が多かった為に、今の立場にステップアップできたというのが正直なところです。

ではなぜ希望しなかったのか。もちろん、新人の希望する願いなど届くはずもないという当たり前の理屈もあるにはあったのですが、それよりもまず先に、「希望したところで、迷惑がかかるのではないか」という考えがあったのです。それは、当時の私が、”5年生存率30%以下の闘病生活を乗り越え、経過観察中だった”からです。



~22歳で余命半年と宣告される~

私は、22歳のときに精巣腫瘍で入院し、約9ヶ月間に渡って闘病生活を行いました。正式な病名は、「精巣腫瘍後腹膜転移」。ステージⅢAの予後不良でした。

がんには、"ステージ"と"5年生存率"という指標があります。ステージは、診断されたがんが現時点でどのくらい進行しているかを表し、5年生存率は、診断時点で5年後に何%が生きているかを表しています。ちなみに5年生存率は、5年後に完治した割合を表しているわけではなく、あくまで、”5年後に生きている割合(治療中でも生きていれば割合に含まれる)”である為、いわゆる完治とは違うということをご理解ください。完治となると、もっと確率は低くなる、ということです。

私が発病した精巣腫瘍の場合、ステージはⅠA~ⅢCまであり、ステージⅢBとⅢCが”予後不良”にあたります。予後不良とは、診断から5年後に生きている確率が30%以下であるということを意味します。(現在の精巣腫瘍の予後不良群では、5年生存率48%というところまで生存率が上がっているようです)
私はステージ診断ではⅢAだったのですが、ステージ分類の他に、がんの進行具合を測る目安になっていた予後不良と診断される3つの条件腫瘍マーカーAFPが10,000以上、転移したがんのサイズが10cm以上、横隔膜よりも上部に転移がある)を全て満たしており、ステージ診断以上に見通しは厳しいと言わざるを得ない状況でした。予後不良の5年生存率30%以下に含まれるどころか、どちらかというと生存の可能性はゼロ%に近いほうだったかもしれません。

また、私の場合、生まれながらにして骨髄異形成症候群(将来的に白血病になると言われている骨髄の病気)を患っていた為、抗がん剤治療の副作用である骨髄抑制に耐えられず、100%の量の投与ができなかった為に治療経過も芳しくありませんでした。治療開始してからほどなくして担当医師と面会した父親は、「このままだと余命半年」と宣告されるほど、先行きの暗い闘病生活を送っていたのです。ちなみに骨髄異型性症候群と診断されたのは幼稚園に通っていたときなのですが、当時の医療では、診断からの予後は長くて5年と言われていた為、私は幼稚園のときから既に、「自分は人よりもずっと早く死ぬんだ」と思って生きてきています。

骨髄異型性症候群のせいもあり、結局、抗がん剤治療ではがん細胞は死滅せず、腫瘍マーカーも陰性化しないままに骨髄が限界にきてしまった為、抗がん剤治療は諦め、最後の手段としてリンパ節に転移したがん細胞を癒着した腎臓ごと摘出し、なんとか寛解にこぎつけました。しかし、治療が成功したわけではない為、治療が終わって退院するときには、担当医師から「2年以内に再発する確率は7~8割くらい。再発したら覚悟してください。」と言われるなど、しばらくは死を意識しながら生活せざるを得ませんでした。

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~退院から復学を決意するまで~

私ががんと診断されたのは2004年の5月26日。大学院に入学したばかりのタイミングでした。診断時は、治療がいつ終わるのかがわからなかった為、迷うことなく休学して治療に専念することを決めましたが、治療は思いの他早く終わり、翌年の2月19日には退院することができました。

ただ、退院したと言っても、終了したのはあくまで治療であり、全てが元通りになったというわけではありません。9ヶ月の寝たきり生活と睾丸の摘出による男性ホルモンの低下、更にはホルモンバランスが崩れたことによる大幅な筋力の衰えにより、退院当初は椅子に長時間座ることすらままならなかった為、日常生活を送る為のリハビリを行う必要がありました。今でも忘れられませんが、治療終了後に行った一番最初のリハビリメニューは、「ベッドの縁に30秒間座る」こと。それほどまでに、私の筋力は見る影もなく痩せ細っていたのです。

また、抗がん剤治療の副作用による骨髄抑制も激しく、骨髄の機能がなかなか回復しなかった為、退院後しばらくは2日に1度、輸血をしなければなりませんでした。血小板は、正常値は15~45万くらいで、5万を切ると血が止まらなくなると言われていますが、私はこのときは2万くらいしかなく、ひげを剃ることすら危険だったのです。だから、食べ物ですら口の中を切ったりしないように気を使いましたし、外出にも細心の注意が必要でした。勿論、前述したように、再発する可能性だってありました。

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そんな状況であったにも関わらず、私は、退院してから1ヶ月ちょっとしか経っていない4月に、復学することを決めました。担当医師や母親からは、「もう1年休学しても良いのではないか」と言われましたし、私も休学したいと思っていました。しかし、あと1年休学してしまうと、第二新卒扱い(入社時に26歳以上)での就職活動になってしまい、ほとんどの企業が新卒採用のエントリーすらできない状況になってしまうことがわかっていた為、休む事は許されなかったのです。しかしながら、今こうして振り返ってみても、このタイミングでの復学は本当に良かったと思います。ここで復学していなかったら、間違いなく今の自分はなかったでしょう。我ながら良い決断だったと思います。

ちなみに復学してからもしばらくは骨髄抑制が収まらなかった為、1週間に1回くらいの割合で輸血を行っていましたし、貧血でいつ倒れてもおかしくない状況でもあったので、電車での通学を諦め、しばらくは車通学を行っていました。



~就職活動、そして配属~

大学院に通われていた方ならわかると思うのですが、大学院生は、入学したらすぐに就職活動が始まります。今と違って、当時のリクナビは10月にオープンし、早い企業だと年内には選考がスタートするのが一般的だったからです。その為、私も例に漏れず、2005年の10月から就職活動を始めることになりました。希望業界は決まっていましたが、いつ死ぬかわからない経過観察中の自分に内定を出してくれる風変わりな企業などそう多くはないだろうと覚悟し、手当たり次第エントリーするつもりで、復学したときから、とにかく企業研究、業界研究、そしてOB訪問に勤しんでいました。10月には輸血は必要ないくらいまで骨髄は回復していましたが、文字通り、本当に休む間もなく就職活動を始めることになってしまったという感覚でした。

運良く今の会社に内定をもらい、入社したのは2007年の4月。この時点でも退院から2年しか経っておらず、寛解までにはあと3年もある状況でした。今更ながら、5年生存率30%以下と診断されてからまだ1年ちょっとしか経っていない人間(しかもエントリーシートに堂々と闘病の話を書き、人事面談では「入社する前に死んでるかもしれません」と説明している!!)を良く採用してくれたなと思います。名前は出せませんが、内定を頂いたある企業に事後で経過観察中であることを報告したときには、「内定をもらっている他の企業に進む道もあるのでは?」と暗に内定辞退を薦められるような発言をされたこともあったので、今の会社には本当に感謝しても感謝しきれません。

そんなわけで、念願叶って広告業界に紛れ込むことに成功した私ですが、自分を拾ってくれた会社に対して、配属希望先としてスポーツビジネス担当セクションを希望するなどと思いきったことはできなかった為、まずは流れに身を任せ、5年生存を達成したら、そのときは自分の希望する部署に異動願いを出そう、と考えたのです。ただ、前述したように、新入社員として配属された部署が奇跡的にスポーツ案件の多い部署だったことで、スポーツビジネス界に飛び込む準備は少しずつ整っていきました。そして、念願だったスポーツビジネスの部署に移動できたのは、退院してから8年後の、2013年7月でした。


~中編に続く~


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