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「エネルギー」という言葉のあやしさと本質について③〜映画PaleBlueDotを見て
三部作になってしまった。気づくと3000文字書いている、それがnoteなのですね。
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もうちょっと先に始めようと思っていたのに、今朝起きてモーニングルーティンをしていたら気分が良くなってしまいなんとなく公開してしまい…。
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順次整えてまいりますm(_)m
さて、前回の続きです。実は大きすぎるテーマを扱ってしまったので書けと
言われたら何回シリーズにでも出来そう…と自分がまいた種を若干恨めしく思いながら、今回で刈り取りたいと思います。
科学も、非科学も、未科学も、量も、質も、すべて投げ込めてしまう「エネルギー」という言葉を巡る葛藤。落とし所もいまいちスッキリしないまま、だからこそ「エネルギー」という言葉に込められているものの本当の意味を、きっとわたしたちはまだ知らないのだ、という、その知らなさに対して謙虚でいたいと思うのです。
わたしたちは人間が生きるという事の本質をまだ分かっていないのだ、という態度が含まれたものとしての「エネルギー」という語をやむを得ず使っている。ほんの少しの恥ずかしさと、やむを得ない気まずさ、とよんどころなさをきちんと感じながら、わたしはこの言葉を使っていきたい。
中途半端に「それは量子力学で言われているコレコレなのです」などと間違っても都合よく量子力学を持ち出すべからず。(この話でさらに3回書ける)
さてさて、映画に戻ります。
映画についてのネタバレを含むので、ここから先はやがて有料エリアにさせていただこうと思ってます。
映画は、天河神社でのある儀式のシーンから始まります。
これがまずすさまじくて圧倒される。古来から人が身体で感じ取っていた、生命にとっての大事な要素を可視化し現象化し儀式化し継承していくその内なる深い知性に。
「知識ばかりで動いていて、本体の智慧(ちえ)を忘れてしまっている」
柿坂宮司の言葉がずどん!と響く。
エネルギーとは、わたしたちの身体の内側のものだけではなく、なんとその外側を取り巻くものまで含むことができるのであり、こうして知覚を身体の外まで広げていくと、日常の些末なことに追われ閉ざされていた意識の系(システム)が私たちを取り巻く自然・世界・宇宙にまで開放されていく。
儀式で起こされた火は、火柱になって天まで立ち上ったあと、その残り火でおかゆが炊かれて各家庭に持ち帰られる…!
すごすぎて思い出してもテンション上がってしまう〜、すごすぎないかこのエネルギー伝搬システム!
そんじょそこらの医学・各種セラピー・各種メディアを嘲笑う規模で、私たちの日常深くに超越的なものをしれっと流し込んでくるのだ。
分かっていただけますかこの感動。分かる人も分からない人もぜひ映画を見てください。
ボディワークの良さをどのカテゴリで評価していいのかさまよって、最近人類学にたどり着いている私なのですが、慶応の観想研究センターの代表で昨年臨床身体学ラボのイベントに登壇くださった井本由紀さんが、こんな台詞を教えてくださった。
わたしたちは、わたしたちでないもので出来ている。
人類学で最近キーとなるフレーズだそうだ。
おそらくこの「わたしたち」とは、顕在意識で、これが私だと思い込んで小さく定義している意識から見たわたしたち、であり、そのわたしたちが日常意識で知覚できない、ほんとうの「わたしたち」を成り立たせているものに「エネルギー」という言葉に含ませているものがあるのだろう。それは工学的に要素に分解した途端失われ、知識の刃では分解できないけれど智慧によって感じ取ることができる何かだろう。
こんなめんどくさくややこしく言葉でこねくり回さなくても、それはきっと小豆粥を食べることを通して、その人の身体を通して深層意識に流れ込んで、密かにかすかに日常を変える。
このありがたいおかゆをレトルトパックにして、スピリチュアルっぽいラベルを張って通販したら、その「エネルギー」は果たして食べた人の身体に届くのだろうか??
それは受け手の感性と智慧によるのかも知れない。
さて、思いの外大作になってしまったこのPaleBlueDotにインスパイアされてのこの3回のnote,みなさんにはどう響いただろう。
わたしにとってはボディワークとか身体性って、決してフィジカルボディのことだけの領域ではない。いのちのことであり、それは「わたしたちはわたしたちでないもので出来ている」という深い実感に再びつながって安心すること。
そこにあるものをエネルギーと呼ぶ。
なんだかわからないけど、わたしをわたしにしているわたしでないものにきちんとつながって、それをわたしの生命に取り込んだとき、現代における病は回復するのだと思っている。
エネルギーという言葉のあやしさと気まずさに耐えながら、粛々と自分のフィールドでこの言葉の前に謙虚に、自分の日々を続けていきたいと思っています。
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カラダ宇宙論|小笠原和葉の現在地
ボディーワーカーの視点で、 「ココロとカラダ」について、人間について、何気ない日々の出来事について、そして時々宇宙について語るnoteです。
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