読み返してみて、
「私は今日をもって長年疑問を持っていたある問題について
かなりクリアになりました。」
・・・全く思い出せない!💦
何だったのだろう、わたしが気になる。
8人の方のご献体とともにある解剖実習のラボでのハッピーバースデーの歌。声楽家の方が多かった(そしてそのグループは発声に関連する部位をロックオン!状態で解剖しまくっておられた)ので美しいハーモニーがラボに響いて。
濃密な生と死の匂い。
あのとき感じた気持ちは今でも忘れられない。
そしてその気持を言葉にするにはきっと一生かかるのかもしれない。
1日中立ちっぱなしで朝から晩まで解剖しながら、「死」とは、わたしたちが思い込まされていたようなものとは違う、とずっと感じていました。
わたしたちが通常「死」に出会うときは、医療従事者でなければたいていそれは身内の死だったり近しい人だったり、強い悲しみ越しにしか死と対面しない。さらには文化的にもさまざまな意味付けがされ、忌避され、この生の地続きにあるというよりは見えない厚いカーテンの向こうにあるようなぼんやりとリアリティのないものだった「死」。
解剖の詳細を学びながらも、生きること死ぬことについて、強く再考を迫られるような体験でした。
この辺り、小出遥子さんに当時インタビューいただいた記事がありました。
よろしければご覧下さい。
▼わたしの”いのち”観 死を想って生きること
【小笠原和葉さん(ボディーワーカー)の“いのち”観】 – 「生」と「死」の境目はごくごくあいまいなもの –
思えば、
きっとこの経験をしたからわたしは今医学部まで来ちゃったんだろうなあ‥。
まだ2日目、折り返してもいません。つづく。
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