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生理、月経、女の子の日、アンネ、月の日、ストロベリーウィーク、日本が攻めてくる日。使い物にならない体で恋人が血のついたシーツを洗っているのを眺めていた日。
その日はよく晴れていた。
丸い窓の形が好きで選んだ恋人の部屋で、ベランダに立って煙草を吸っている彼の背中が好きだと思った。
彼が、私の血がついたシーツを洗って干し終えたところだと気が付いて、ちょっとそれはどうなの?と思いながら、でもまぁそれもいいかと力の入らない体でぼんやりと寝そべっている休日の朝。
20代の始めに付き合っていた恋人は、当たり前のようにそういうことをする人だった。いつだって私
「幸せでいなければならない」という圧力に押し潰されそうになる。キラキラ女子とか干物女とか、構わないでよと思いながら今日も剥げかけたネイルで電車のつり革を握っている。
名前をつけることで、構造を理解し、救われることもある。
共感したり、仲間を見つけたり、もやもやした思いを言語化してくれたり、見ないふりをしていたものを見せつけられたり、自分を見つけてもらえたようでぼろっと涙がこぼれたり。
電車の中吊り広告や、インターネットの広告、テレビや雑誌や、生活していれば嫌でも目にはいるそれらのなかで、時々ものすごく息苦しくなることがある。
「幸せでいなければいけない」
胸というコンプレックスと、イラストの中の女性の話。ところで、目の前に立っている人があなたのネクタイピンをちらちら見ていたら絶対気付くからぜひ試してみてね。
胸が大きいことが、ずっとコンプレックスだった。
胸の大きさで大人と間違えられることも。
否応なしに「女」として見られることも。
私の意思とは関係ないのに「そんな身体をしているくせに」と嗤われることも。
痛みや、性感の発達なんてお構い無しに乱暴に扱われることも。
「男のロマン」が、私の痛みを無視することも。
初対面の男性の多くが、私の胸と会話していることも。
ずっと嫌だった。
「胸が
ふれあわずには生きていけない私とあなたが生きている此処を社会と呼ぶが、「私」を売りに出したつもりはないので財布を仕舞え。
「ふれる社会学」という本のトークイベントに行ってきた。短大でも、大学でも社会学を専攻していたのだけど、その頃に自分が書いた論文を読み返すとまじでちんぷんかんぷんでびっくりする。
自分の脳の劣化と言うか、もともと私は一晩で覚えてテストで良い点数とって次の日には忘れてるタイプなので、試験に落ちても悔しさとか感じられないし、残るものがないという点では勉強しないで他のことを楽しんだり学んだ人の方がよっぽ
見えにくいけど「女が自由に語れる場」が広がっていること。レスポンスを私たちは見つけられているだろうか。
昨日の投稿で紹介した「シモーヌ」では、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない 女になるのだ」という言葉を引用していた。
これは結構面白い言葉で、性別を逆転させた時にこの言葉が成立するか否かで考えがわかれる人がいると思う。
つまり、体の性別とは別に、社会化するなかで獲得される性があると考えた時、なにも強制されていない状態を男ととらえるか、女が強制されていることで「女でない」状