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姫飯法から強飯法へ~歴史探偵を観て

本題の前に…またまた「もっとも多く読まれた記事」だったようで、本ブログの読者の皆さまには御礼申し上げます。ありがとうございます。

さて、本題です。昨日、NHKの歴史探偵「日本人とごはん 2000年の秘密」を視聴していました。弥生時代には米を炊いていたのですが、縄文時代になると蒸すようになった理由が、米の変遷と気候の変化にあるそうです。

番組の内容については割愛しますが、hayashi_taro様がスクリプトと共にアップされてますので、ぜひご覧ください。(すみません拝借致します)

個人的に…気候の変動というものは、長い年月をかけてそのトレンドが見えてくるはずなので、ある時期を境に急激に米の調理法が変わった理由ではないと考えています。「炊く」から「蒸す」に変わるのは、2つの異なる文化が存在していて、一方が文化的(または血族的)に有利になったからだと考えるのは変でしょうか。

米の調理法

さて、改めて「炊く」と「蒸す」の違いをざっくりと復習したいと思います。

姫飯法と強飯法

番組でも紹介されていましたが、出土した土器の違いや痕跡から「炊く」から「蒸す」に変わったことが分かったとのことです。「姫飯法」という言葉が出てくるかな…と期待したのですが、出てきませんでした。

この「炊く」か「蒸す」かについては、以前も記事にしましたのでぜひご覧ください。

「ある時期を境に文化が一気に変わる」には、ある種衝撃的なルネッサンスが起きる必要があります。それは気候や品種というマイルドな変遷ではなく、勢力(民族)争いにあったと考えることは出来ないでしょうか。

古代朝鮮半島も強飯法だった

下図は、姫飯法から強飯法に変わった時期と、前後のイベントを比較的乱暴にプロットしてみました。

姫飯法が廃れた時代背景

急激に文化が変わったとすれば、大規模な文化の衝突があったと考えても不自然ではないと考えています。ちょうど強飯法に変わった時期が、大和政権の成立した時期でもあり、卑弥呼が活躍した時期でもあり、大和政権が朝鮮半島と外交(戦争含む)を活性化させた時期です。その朝鮮半島では、当時は米を蒸して食べていたそうで、邪推ですが日本を乗っ取ったのが朝鮮半島の氏族だったのではないかと考えています。

天皇家の「万世一系」を崩さないためにも、このことは隠さなければならないので、記紀で「神話」にしてしまったのではないかと考えています。

朝鮮系以前は中国系だった

私は以前、「姫飯法」という言葉の由来は、本来は「姫」ではなく「姬」だったのではないか、という説を書きました。

この「姬」というのは、古代中国の姓であり、周の王族が名乗っていたものです。王族だった呉太伯にも「姬氏」の血が流れているわけですが、中国の史書に「倭人は太伯の後裔(こうえい)である」という記載があります。

また、今回は詳しく触れませんが、「呉太伯が天皇家の始祖である」と記載したのが、南北朝初期に中巌円月が撰進した「日本紀」です。

つまり、「姬氏」というのは日本の国造りに非常に深く関わってきた可能性があり、米の炊き方にも「姬」という字を取ったのに、日本ではいつの間にか「姫」になってしまった…というわけです。なぜ「姫飯法」と名付けられたのか、由来が全く分からないのでこのような考察をしたのですが、その中国系の氏族を武力で制圧したのが、弥生時代から徐々に勢力を拡大していた朝鮮系の氏族=大和政権ではないでしょうか。

武力衝突により、一気に大和政権が勢力図を広げた結果、「姫飯法」の中国系氏族は「強飯法」の朝鮮系氏族に取って代わられた…という推察です。その時期が弥生時代の到来として転換期になったと思うのです。

最後に

まだまだ考察することはたくさんありますが、古代における文化的変遷と血族的変遷は今以上に繋がりが深かったと思っています。

弥生絹にしても、福岡・佐賀・長崎の3県以外からは出土していません。魏志倭人伝の「邪馬台国」は弥生後期です。養蚕・絹織が行われていたと「魏志倭人伝」に記載されている以上、邪馬台国は九州北部に存在していたことになります。これも以前書きました。

邪馬台国は勢力を広げるのでずっと九州北部に留まったわけではなく、もちろん近畿にも影響を及ぼしていたと思います。但し、少なくとも魏志倭人伝の頃は九州北部にあったのです。

絹の変遷から邪馬台国の位置が推定できたように、米の食べ方の変遷を考えることで、様々な点が線になる可能性があります。今日はこのへんで。

本日もお読み頂きありがとうございました。


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