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記紀はいかに成立するのか

倭人が自ら「太伯之後」と称していたことは、「晋書」「梁書」「北史」といった中国の正史に見えます。

その中国(元)に渡った禅僧中厳円月が暦応四年(1341年)に著したのが『日本紀』です。「日本の皇室が、荊蛮の地で自らを句呉と称し、人々から呉太伯と呼ばれた人物の子孫であり、周王朝の姓が姬であるから、天皇家も姬姓である」ということを記しました。それが朝廷の咎めを受け、焼かれたと言われています。中厳円月は元に八年ほど留学しており、魏略をはじめとして晋書から梁書、北史へと続く中国の史書に記された倭人伝に触れ、それを元に日本紀を書き上げたと思われます。

江戸幕府第五代将軍・徳川家綱の頃、徳川光圀は、幕府の命を受けて林羅山らが編纂し、出版されるばかりになっていた「本朝通鑑」に、「本朝の始祖は呉太伯の胤」といったことが書いてあるのを見て驚き、この「魔説」を削除すべきだと主張したと言われてます。

時代背景としては、大事件であった「元寇の襲来」を考慮しなければならないでしょう。文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回に渡って日本に襲来したモンゴル帝国軍のことです。

これを撃退したのは日本の神仏の加護であり(カミカゼ)、その神仏が台座する日本の倭人が「実は中国の呉太伯の末裔だ」という説は、到底信じることが出来ない主張であったに違いありません。呉太伯後裔説を信じることは、元寇を正当化し加勢するに等しいことであったと思われます。つまり相当の異説であったでしょう。結果、『日本紀』の草稿は禁裏御所の手によって焚書の憂き目に遭ったと「本朝通鑑」は伝えています。

また、北畠親房は『神皇正統記』において、記紀神話に登場する神々は何千年も前に出現しているのであって、それより後に登場した「ヒト」である呉太伯が天皇家の始祖であるはずはない、と主張しました。北畠親房にしても、徳川光圀にしても、日本書紀の権威を盲目的に受け入れ、崇め、その内容に矛盾する説は絶対的に間違いである、と言っているのです。

これらの否定は、日本書紀を「絶対的正」として完全に依拠して初めて成立するものであり、一条兼良の「日本書紀纂疏」も同様です。日本神話との整合性や独自性を守るという前提に立った主張・批判であることは間違いありません。

ここで問わなければならないのは、果たして「日本書紀」「古事記」は、物的証拠等により完全に裏付けが可能な史書として存在するのであろうか、ということです。そもそも、その「日本書紀」巻第一の冒頭部分は、前漢の「淮南子(えなんじ)」の表現をそのまま取り入れたものです。

日本書紀「古天地未剖、陰陽不分…」
淮南子「古天地未剖、陰陽不分…」

他にも引用したような箇所や似たようなストーリーがあり、中国の史書・思想書の影響を排除できないことは確実です。ましてや、記紀が日本で書かれたものなのか否かも、はっきりと証明できるものはありません。一方、「倭人は呉太伯の後裔である」と倭人自ら言ったことに関しても、確実な証拠は存在しません。今年は、記紀に関する考察を展開しつつ、中国との関係性を紐解いていければと考えています。

尚、『日本紀』と『神皇正統記』の矛盾に関しては、実は矛盾対立しないのではないかという考察が、蓮沼啓介氏の『異称日本伝注釈(晋書編)』で理路整然と展開されているので、興味がある方は一読をオススメします。

https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81005009/81005009.pdf


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ZUUMA|新解釈キングダム・中国古代史妄想局
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