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日本版シルクロードはあったのか

以前、邪馬台国があった場所は九州だったことが、養蚕から分かるというブログを書きました。

今後、九州以外の弥生時代の遺跡から絹の痕跡が見つからない…という可能性は無いにしても、出土量から見ても「近畿説」には十分な反論材料が無いことになります。

邪馬台国が勢力地を拡大した形跡

では、邪馬台国はずっと九州にあったのか…と言うと、それも100%断定することは出来ません。私の想像ですが、最初九州にあった邪馬台国は、勢力地を拡大しながら最終的に近畿に至ったと考えています。

これも、「絹」から見えてこないのか…と考えてみました。絹が出土した遺跡と、その遺跡の年代を時系列に並べて地図上にプロットすると、下図のようになります。

日本版シルクロード

「養蚕から分かる邪馬台国の場所」に掲載した弥生時代の遺跡の中から、最も古い時代の有力な有田遺跡を始点にして、そこから弥生時代中期~後期を経て、古墳時代の「絹が出土した遺跡」を単純に繋ぐと…面白いことが見えてきます。

九州を出たあとは、富山・京都(京丹後市)に繋がっています。やはり、若狭湾周辺は勢力地になったと考えています。詳細は割愛しますので、以前の記事をご覧ください。若狭湾からは元伊勢神社(籠神社)や、徐福を祀る新井崎神社が近距離です。

その後、シルクロードは奈良(天理市)、島根(安来市)に繋がります。天理市には大和神社があり、安来市には安来神社(島根の祇園様)などが。

そこから東は静岡(富士山信仰や宮下文書があった場所)、奈良は天理市から南下して桜井市(大神神社がある)、橿原市(橿原神宮がある)へ、西は再び九州に入り熊本へ。但し熊本の絹は他の絹と比較して質が悪いようなので、もしかすると起源が同じとは言い切れないかもしれません。

人と文化と土地はセット

このシルクロード周辺が邪馬台国の勢力地になっていった…と考えるとロマンがありますよね。もちろん断言はできませんが、それぞれの場所に由緒ある神社が建立されていることは非常に興味深いです。

今回の考察は、考古学選書である『絹と布の考古学』(布目順郎著)を参考に展開してみました。

以前から書いてきました通り、人・文化・土地はセットだと考えてます。文化だけが海を渡ってやってきて、陸を走り、遠くまで勝手に伝わることはありません。また、魏志倭人伝から「倭人が養蚕を行い、絹を献上した」と書かれていることからも、文化と土地もセットであるべきです。つまり、人・文化・土地を切り離して考えると何でもアリになってしまうので、これらをセットにして考察するように心がけています。

誰が日本に伝えたのか

やはり誰が日本に養蚕を伝えたのか、ということが気になります。布目氏は、雲南に住んでいたミャオ族ではないか、と。

個人的にその可能性はあると思っていますが、ミャオ族が単独で日本にやってきた可能性はおそらく低く、「大船団」でやって来た渡来人の中にミャオ族がいた可能性は高いと思います。

そう考えると、やはり徐福は何者なのか…というところに行き着きます。

今回は日本版シルクロードから、邪馬台国の勢力地変遷について考察してみました。


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