バハイ・トゥルヤンに学ぶ自分で選びとる平和教育
2012年11月、フィリピンに滞在中に日本で年内に解散総選挙がおこなわれることになったと聞いた私は、なんとも心がざわざわした。外国から日本の選挙に参加するには、かなり複雑な手続きをせねばならず、届出から1か月くらいの時間を要するという。棄権するしかない。
それまでそんなに選挙に関心があったわけではない。記憶の限り、いつも投票には行っていたはずだが、少々面倒くささを感じつつ、家族にうながされ、義務感で行くことが多かった。そのくせ、いざ選挙に参加できないとなると…、悔しいのだ。
悔しさのあまり、SNSでは選挙管理委員会よろしく「投票に行こう」と友人によびかけ、家族からメールがくると、返事の最後に「絶対に選挙には行くように」と、付け加えた…。
そのとき、身を持って知ったのは、権利は失われて(私の場合、失ったわけではなかったが…)はじめて、その大切さがわかるものだ、ということだった。
ここから、まったくレベルのちがう話になるのだが、バハイ・トゥルヤンでストリートチルドレン支援の活動を通して、私は子どもの基本的な権利について、一から考えさせられた。
たとえば、日本もフィリピンも批准している国連の「子どもの権利条約」では、十分な栄養を得て健康に育つ権利や、虐待・暴力から守られる権利、教育を受ける権利を、子どもは生まれながらに持っていると定めている。きちんと食事をとる、危険から守られる、学校に通う。どれも日本ではまだ当たり前に感じられることで、こうした権利を守るための制度もある程度整っている。
だが、フィリピンの貧困層の子どもたちは、こうした基本的なことが保障されていない。何より悲しいのは暴力のある光景や衛生的ではない環境、学校に行けない生活のほうが、子どもたちのなかで当たり前になってしまうことだ。その日の食べ物を手に入れるために毎日を費やし大人になっていく子、シンナーの誘惑がいつも側にある子、親からの暴力に何年も、ひとりでじっと耐えていたという子もいる。
バハイ・トゥルヤンとつながることができた子たちも、それぞれ大変な環境で暮らし、長年学校に行っていなかった子だ。だが、そのなかには頭がよく、向上心の強い子がかなりいる。実際にバハイ・トゥルヤンの定住ホームで暮らし、学校に通うようになると、優秀な生徒として学年末に表彰される子がたくさんいる。
特に優秀な子は、奨学金を受け、大学を卒業した子どもは、ソーシャルワーカーになって、かつての自分と同じような子どもの支援に取り組んでいる。しかし、バハイ・トゥルヤンのようなNGOのサポートがなかったら、彼らはいまも路上で暮らしていただろう。
今もフィリピンの路上には、ストリートチルドレンが何万人といる。しかし、いくらNGOががんばっても、そのすべての子をサポートすることは不可能だ。NGOの活動には常にこうした歯がゆさがつきまとう。
それでも、一人でも多くの子どもたちが少しでもよく生きられるための方法を考えた末、バハイ・トゥルヤンは、子どもたちが本来、自分が持っているはずの権利に気づくことが大切だと考えた。
自分自身がかけがえのない存在であることに気づいて、人生に対してもっと積極的になってほしい。自分を愛し、それと同じようにほかの子どものことも大切にしてほしい。コミュニティやフィリピンで起きていることに対して問題意識を持ち、困ったときには信頼できる大人にSOSを出してほしい、と考えたのだ。
そうしてバハイ・トゥルヤンは10年ほど前から、子どもを対象とした権利トレーニングを行っている。これは「子どもの権利条約」が掲げている権利について、絵を描く、歌う、踊るなどフィリピン人の大好きな遊びの要素もとりいれて、学ぶものだ。
さらにトレーニングに参加した子どもが、ほかのストリートチルドレンたちをサポートできるように、チームワーク、リーダーシップを養成するトレーニングも行っている。このトレーニングには、バハイ・トゥルヤンの支援を受けている子に限らず、近隣のコミュニティの子も参加できる。このトレーニングを受けた、近隣コミュニティの青年たちは、小学校で児童虐待をテーマにしたビデオ上映会を開き、もし、家庭のなかで虐待を受けたら、だれに助けを求めたらいいかを教えていた。
こうした青年が育っていくことは、フィリピン社会にとっても、非常に重要だと思う。300年以上にわたって植民地支配されてきたフィリピンでは、今も、外国資本が経済界で重要な位置をしめている。さらには、海外出稼ぎ労働者からの送金が、国家予算の1割を占めるほど、外国への依存度が強い。またフィリピン人のなかでも国内の9割の財産を持っている1割の富裕層(華僑、スペイン系が多い)が、政治、経済を掌握している。
こうした構造のなかで、支配されることに慣れてきた中流階級以下の人々は、トップが自分たちに都合よく決めたしくみのなかで生活している。労働環境の悪さや行政の怠慢に理不尽さを感じてはいても、どこに問題があるのか、どのように改善されるべきかを、立ち止まって考え、意見をのべる人は多くはない。それよりも日々の生活の糧を得ることで精一杯なのだ。
しかし、問題意識にめざめた青年たちが、草の根レベルからでも、新しいアイデアを提案し実践していくことができれば、きっとフィリピン社会はもっと健全なものになるはずだ。
そして今は日本の中でも、無自覚に与えられていた平和、セーフティネットがどんどん揺らいでいる。こうした時代のなかで、私たちもバハイ・トゥルヤンの実践から学べることはたくさんあると思う。
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