温室育ちのニートが人妻に恋をするというスキャンダルを小説化。夏目漱石の「それから」に見る仕事論
偉大なる夏目漱石の作品の一つ「それから」。
これは1909年、今から100年以上も前に書かれた小説だ。
あらすじを簡単に説明すると、あるニートが人妻に恋をする。というなんとも図々しい主人公がおりなすラブストーリー。
ただ、こちらの禁断の愛はさておき、俺が印象的だと感じたのは主人公のニートとしての「姿勢」と仕事に対する「思想」だ。
なかでも印象的なシーンは、「仕事」に対する思想を旧友と議論するシーン。
登場人物は2人。
まずは主人公のニート長井。
金持ちの家庭で育ち、アラサーになっても仕事をせず親の仕送りで生活しているお坊ちゃまくん。
もう一方はその旧友、前職で失敗し再就職先を求め、世知辛い世の中をなんとか生きているその日暮らしのアリエッティ平岡。
***
ニート長井に対し、平岡が率直な質問をする。
「何故働かない」
それに対してニート長井は、いかにもニートっぽい回答で応じる。
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。」
ただし、このニート発言には長井なりの思惑がある。
彼はそんじょそこらのニートではなく、少々思想家的な一面を持つニートなのだ。
長井いわく、彼らが生きる時代の日本は欧米列強に仲間入りしようとするばかり、表面的に広がる一方で奥行きを失っている。
その結果、各個人に影響を及ぼし皆ろくな仕事ができない。さらに精神の困憊、身体の衰弱に伴い不幸を呼んでいる。のみならず道徳の敗退も同様におきている。
一介のニート如きがいけしゃあしゃあと小賢しい御託を並べ、いかにもイラッとするが、つまりはみんな忙しすぎて本質的なものを見失っている。
発展と見えて本質的には衰退なのではないか、と言う事だ。
ニートにしてはなかなか鋭い視点を持つ長井ではあるが、かといって熱い志を持った活動家ではない。
そんな世の中に対して、自分が個人として頑張ってもなぁーんもいいことない。だからボケーっと毎日を過ごしているタイプの人間なのだ。いかにもニートな思考回路だ。
それに対しMr.正論、平岡君のご意見はというと、
「日本の貧乏や世間の堕落がどうこうという意見は、生活に余裕のある者の意見であって、余裕のない者にとってはそんなことを考えている暇などない。目の前にある職業にありつき、なんとか生活を維持することが第一である」
といった具合。
このように、一般人代表みたいな意見を提示した平岡君。対する金持ちニート長井はこう語る。
「働くのもいいが、働くなら、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労働は、みんなパンを離れている」
言わんとしていることは、「生活するための仕事」っていう仕事では誠実さに欠ける。
つまり「生活するため」というのが理由として先に立つ時点で、その仕事は名誉でもなんでもない。偉そうに俺はちゃんと働いてるとかぬかしてんな、辞めちまえ!ということ。
ニート長井のこの発言により、平岡君は疑問の嵐に襲われる。
「食うために仕事してなにが悪いの?」
と。仰る通りです。
この二人の意見が交わることはないだろう。
議論の最後に、ニート長井は以下の金言を残す。
「生活に不自由しない人がもの好きでやる働きでなきゃ真面目な仕事ができない。」
***
上記のやりとりは、前述の通り、今から100年以上も前に書かれている。
その割に、非常に新鮮で現代的だ。
現代でも、同じ会話がどこかの居酒屋あたりで行われていることだろう。
仕事に対する「理想」と「現実」が一致しないのは、今に始まったことではないのだ。
皆さんの労働は「パン」を離れているだろうか。
俺の労働はどうだろう。
いや、全然離れていない。
パンと共に起き、パンと共に昼夜を過ごし、パンと共に寝ている。
もはやパン屋だ。
進化形ニート長井が言うところの「もの好きでやる働き」と言うものはそうではない。
我々の生命の目的は「パン」ではない。
生命の維持のために「パン」が必要なだけだ。
この思想に関しては、長井・平岡のどちらが正しいという類のものではなく、「マズローの欲求5階建マンション」の居住階が違うだけだろう。
時代が変われど「名著」と称される作品は、どの時代にも一貫した「本質」を突いているから名著なのだろうか。
または、夏目漱石は未来の国からはるばると来たおっさん型ロボットなのだろうか。
ちなみに、この小説でニート長井が恋をした人妻というのは平岡君の妻である。
まさに不届き千万ですね。
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