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総選挙を前に。リベラル・デモクラシーの先にアリストテレス⁈

1.リベラル・デモクラシーを確認


私たちが、今日、「民主主義」と言った場合の意味するところが、実はよく整理されないでいることが、ちょっとした混乱を招いているのではないかということで、前にnote「内閣支持率の低迷が響いたことの評価。」で、梅澤祐介『民主主義を疑ってみる』(筑摩書房、2024年)を取り上げました。

梅澤氏は、「民主主義」と「自由主義」を分けて説明し、基本的人権の尊重が「民主主義」にも侵しえない憲法という聖域で保障されているのは、「「民主主義」の暴走を「自由主義」が予防する」という発想で、J・S・ミルにより交錯が図られ、「自由主義的民主主義」が生まれたからとしてます。これをリベラル・デモクラシー(liberal democracy)」と梅澤氏は呼んでいます。

「リベラル・デモクラシー」の定着は、世界的に見て、100年余ぐらいとされます。

日本国憲法の前文の冒頭部分を見てみることを再度してみます。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国憲法前文より

ここには、狭義の「民主主義」の主権在民だけではなく、「正当に選挙された国会における代表者を通じて」という「議会主義」や「自由のもたらす恵沢の確保」という「立憲主義」、これら「自由主義」の内容についても明確に示されています。「リベラル・デモクラシー」という制度を採っていることが分かります。

日本における「議会制民主主義」という言葉も、この憲法前文に示された「リベラル・デモクラシー」を意味すると考えます。

『議会制民主主義研究』の告知、再び。次号は「シン・民主主義」を特集!

2.リベラル・デモクラシーもデベロッピング


梅澤氏は、このリベラル・デモクラシーも選択し得る、政治の最終形態ではないとします。

「「民主主義」は、個人個人が当然のように政治に関心を持ち、自分自身の確固たる政治的意見を持ったうえで、政治に積極的に参加することを少なくとも理念の上では想定しています。」
「「自由主義」は、民主主義的決定によってすら覆すことができない普遍的ないし伝統的な規範が存在することを踏まえたうえで、その<大枠>となる規範の下で各人が互いの自由と権利を尊重し合うことを前提としています。」
「周知の通り、リベラル・デモクラシーが理想とするこのような人物像は、現在のところ十全に実現しているとは言い難い状況です。民衆の間では政治的無関心が蔓延する一方で、排外主義的ナショナリズム感情を上手く利用したポピュリズム政党が勢力を伸長しつつあり、またその下で憲法という根本規範が蔑ろにされ始めています。その意味で、リベラル・デモクラシーもまた、理想的な人間の創出に失敗しているのです。」

10月召集の第214回臨時国会で解散、衆議院総選挙が予定されていますが、政治に関心を持ち、自分自身の確固たる政治的意見を持ったうえで、政治に積極的に参加する、そんなみんなにまずはなりましょう。

リベラル・デモクラシーが理想とする人間の創出に努力を続けることは大切だと思います。
それはそれで、大事です。
主権者教育の取組なんか、そのためにやっている感がありますから。

「ちがさきこども選挙」

3.リベラル・デモクラシーの先にアリストテレス⁈

繰り返しますが、リベラル・デモクラシーが理想とする人間の創出に努力を続けることは大切だと思います。それはそれで、大事です。

でも、私が研究対象としているものには、気候市民会議や自分ごと会議等の無作為抽選のミニ・パブリックスなんて動きがあります。これもありと思うのですが、議会制民主主義との関係をどう捉えるのでしょうか。

この辺をうんう~ん考えていたら、梅澤氏の本に、次のような記載がありました。
〇アリストテレスの混合政体論
アリストテレス(前384年 - 前322年)は、望ましい政治体制を「国制(ポリティア)」と名づけ、民主政(当時アテネイで行われていた「くじびき」と「輪番制」)と寡頭政(「選挙」…民衆の中からごく少数の「優れた者」を選出する制度)の混合政体として説明していた。
「重要なのは、国家が依拠する原理は一つでなくてもよいということです。」(梅澤219頁)
「民主政も寡頭制も、単独ではうまくいなかい。(略)ならば混ぜてしまえばよい。」
〇ポリュビオスのローマの分析
ポリュビオス(前204年? - 前125年?)は、「なぜ、ギリシャは滅び、ローマは栄えたのか」を探求。ローマが「執政官」(王政的要素)、「元老院」(貴族政的要素)、「民会」(民主的要素)の複数の原理を国制の中に取り入れている「混合政体」であるのに対して、ギリシャは、民主政や寡頭政という単一の原理を国制としていた。「単一の原理に基づく国制は、世代交代が主な原因となり、変転を余儀なくされます。例えば民主政は、それ以前の非民主的な政体を経験した世代が生きているうちはうまく機能します。しかし、世代交代が進むにつれ、徐々に現行制度のありがたみも忘れられることになります。そしてデマゴーグに籠絡された民衆は民主政を捨て去り、独裁者を戴くに至る。こうして政体は次々に循環していく、とポリュビオスは言います」としている。(梅澤222-223頁)

どうやら、「混合政体」が良いようです。

実は、2024年秋、脱炭素ちがさき市民会議が開かれています。無作為抽出を主としたミニ・パブリックスと言われるものです。そこを、市議と一緒に傍聴しました。こうしたものに、市議が積極的にコミットすれば、ミニ・パブリックスと議会制民主主義の交錯と言えなくはないですよね。

脱炭素ちがさき市民会議

また、茅ヶ崎では、市議と市民が緩く懇談を行う「まちのBAR」というのを毎月1回、1年以上続けています。気さくに話せる雰囲気ですが、例えば、市の決算をテーマにした回では、参加した市議が、自分たちが議論した直後ということもありましたが、参加市民に詳しく分かりやすく説明し、まさにアリストテレスの「寡頭制」の担い手観が強かったです。そこに市民が参加し意見交換しているんですから、これもある種混合的ですよね。

まちのBARの様子。

アテネの盛衰を見ながらのアリストテレス、ギリシャとローマを比較するポリュビオス、その中で見出した「混合政体」。

人権意識の中で、王政、専制政治に戻らないとすれば、リベラル・デモクラシーの理想の実現を更に追求していく必要があるでしょうし、アリストテレスたちの知見を、時代に合わせて探求していくことも必要かと思います。

そんなことを考えています。

総選挙という政治の激動の時期を迎えますが、こうした政治思想の勉強も、しっかりしていきたいと思います。




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