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月が泣いた時|短編小説

逢いたくて堪らない真夜中、僕は家を飛び出した。
君がよくレコードで流すクラシックの名前を思い出せなくて、何故か君が何処か遠くへ消えてしまう気がしたから。

バイクを走らせ、君の住む隣街まで。

「逢いたかった」
もう随分と長い間会っていないかの様な口振りに、君は戸惑っていた。
優しく僕の頭を撫でる仕草が愛おしくて、君を一段と強く抱きしめた。
「私ならここにいるわ」
君の声が僕の心臓に響く。
鼓動と重なり合う心地良さに、僕は君に口付けた。

「ねえ、夜に烏の鳴き声を聞いた事ある?真夜中に」
君の長いまつ毛を見ながら、僕は首を振った。

「不幸の前触れって、昔ママに聞いた事あるの」
彼女の瞳は、窓から覗く三日月を見ている。

「月にもし行けたら何を持って行く?」
急な問い掛けに僕は少し考えてから「君の好きなレコード」
「じゃあ私は貴方の好きなビターチョコにするわ」そう言ってウィンクした。

彼女は、過去をあまり語らない。それと同じく、僕の事も深く聞いて来ない。
彼女がママと口にしたのを、初めて聞いた。

当たり前の事だけど、彼女も人の子なんだな、そう思った。
何故か彼女からは、生活感を感じない。
部屋にも何度も来ているし、何度も彼女の手料理を食べているのに。
それでも彼女の存在が危うく感じる。
ふとした瞬間、例えば僕が瞬きをしたそのほんの僅かな間に消えてしまいそうな。
そんな儚さがいつも傍にある。

彼女の温もりにウトウトして、寝返りを打ってぼんやりと目が覚めた。

遠くで烏の鳴き声が聞こえた。
「あ…」
彼女の言葉を思い出した。

急激に現実に引き戻された感覚。
僕は隣に眠る彼女を見た。

ベッドが僕の物に変わっている。
真夜中に家を出る前と何も変わっていない。
僕は自分の部屋に居た。

僕は混乱した。
真夜中に確かに彼女の部屋に行った。
バイクを走らせて。

急いで着替えを済ませ、彼女の部屋へと向かった。
インターホンを押そうとして、指が止まる。
知らない名前が書かれている。
206号室に住む彼女の名字ではない。
僕は混乱しながら、躊躇いがちにインターホンを押した。

「はい?どなた?」知らない女性の声だ。
「あの、ここには今日越して来られたんですか?すみません、急に。僕の彼女が住んでるはずなんですが…」
女性は不審そうな声で「イタズラなら警察呼びますよ」
そう言って一方的に切られた。

僕は何か得体の知れない不安に押し潰されそうだった。

その夜は一晩中、街を歩き回った。
きっと彼女にはもう二度と会えない。
そう確信していながら、僅かな希望を捨てきれずにいたから。

深夜の公園は深い眠りに就いていた。

近くの木の枝から、烏の鳴き声が聞こえた。
僕はじっとそちらを見つめた。
漆黒の闇に溶け込んだ姿を探したかった。
何故か分からない。
理由なんかいらない。ただ、烏に問いたかった。
真夜中に何故鳴くのか。

もう一度だけ烏が鳴いた。
その瞬間に僕の頬に冷たい雫が落ちて来た。

空を見上げると、昨日と同じ三日月が姿を隠そうとしていた。
まるで泣き顔を見られない様にと。
霧雨が僕の全身を冷たくしていった。

微かな気配がして、烏が最後の一声を上げ月に向かって飛んで行くのが見えた。

その時、君がよく聴くレコードの曲名を思い出した。

「ショパンの別れの曲よ」
君の声と烏の鳴き声が切なく交差した。

[end]


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