歪んだそれに名前はない 08|連載小説
俺は最近読んでいなかった小説を読みながら、兄ちゃんの事を知っている女性の退勤を待っていた。
あと30分位だろうか。
兄ちゃんが昔よく読んでいた村上春樹。
『ノルウェイの森』
下巻の半分まで来たが、俺はこんなはちゃめちゃな関係は築けないし、そもそもこんな我儘な女は無理だ、と半ば嫌悪感を示しながらも何故か途中で投げ出す事も出来ずに読み進めていた。
これは多分、読者に委ねてる。そう思いながら読んでいた。
多分結末も、これと言ったきっちり終わりを示す感じでは無さそうだ。
本来俺はこういう書き手は苦手だ。
何を伝えたいのか分からないから。
結末らしい結末がないと、モヤモヤする。
だが、今この空間だからかすごく没頭していたみたいだ。
「ノルウェイの森、好きなんですか?」ふと声がして顔を上げると、例の女性が俺を見て微笑んでいる。仕事が終わった様だ。
「あ、すみません、ちょっと集中してしまって。兄ちゃんが…翔太さんが好きな本で…」
「そうね、翔ちゃん、村上春樹が好きね」
そう言って「仕事終わったから、私の家で話しましょうか。小さい一軒家で、猫2匹と暮らしてるの」
そう言って、まだ名前を伝えてなかったわ。
「秋野 喜美と言います」と丁寧にお辞儀をされ、慌てて俺も「矢賀 翼です」と頭を下げた。
喜美さんは優しく笑い「さあ、行きましょうか」と俺の背中に優しく手を置いた。
それが自然と不思議で、嫌な気分がしなかった。
聞くと喜美さんは、蒼空の店長らしい。
今日は偶々早上がりの日だったから、丁度良かったと笑った。
歩いて約20分の所に喜美さんの家があった。
平屋の、こじんまりした和と洋が丁度良く馴染んだ、センスある家だった。
そう伝えると嬉しそうに「中古物件を買って、所々リフォームしたの。元々が良い素材の家だったから、残す所と変えたい所を伝えて。私好みの大好きな家なの」
そう話す喜美さんの瞳は、何故か少しだけ揺れて見えた。
小さなリビングに通され、紅茶を出してくれた。
喜美さん特製のクッキーまで。
「翼くん?って呼んでも良い?」喜美さんの声が心做しか、少し遠慮気味に聞こえた。
「もちろんです。えっと…喜美さんって呼んでも構わないですか?」
喜美さんは一瞬、ほんの一瞬だけ寂しげな瞳をしたがそれを打ち消すかのように「ええ、もちろん」と言ってくれた。
話は早速本題に入った。
「兄ちゃんのFacebook、去年で止まっていて。
それまで俺全然、兄ちゃんに連絡してなかったんです…」
そこまで話したら、今の家庭環境や、母親の病、もう長くない事、父親の事や自分の出生の事まで一気に溢れ出して止まらなかった。
喜美さんは、黙って頷いて聞いてくれていた。
「だから俺…兄ちゃんに会いたくなって……」
視界が揺れる。駄目だ、みっともねぇぞ、泣くな。
自分に喝を入れたが、喜美さんの言葉でそれは無理だと悟った。
「良いのよ、我慢しなくて」
「すみません…俺…俺よく分からなくて」
喜美さんがそっと隣に座り、背中をさすってくれた。暖かった。
喜美さんの眼差しを感じながら、自分でも分からない懐かしさを覚えた。
一通り落ち着いた頃を見て、紅茶を入れ直してくれた。
喜美さんは少し黙っていたが「翼くん、私の話、受け止めきれる?もし駄目そうなら引き返して。その方が良いと思うの」
俺は、まだ少し頭が重かったが兄ちゃんの事は全部知りたい、会いたい気持ちが強くそれに勝った。
気持ちは揺るがなかった。
「あのね…翔ちゃん…去年の半ばに、事故で亡くなったの。奥さんの恵美ちゃんと、産まれたばかりの娘ちゃんを遺して…」
「え……兄ちゃん…が」
兄ちゃんが死んだ?もう会えない?兄ちゃんが居ない………?
「ごめんなさいね…まだ恵美ちゃんも立ち直れていなくて、おばの私が育児の手伝いに行ってるの」その時初めて喜美さんと、兄ちゃんの関係が分かったが後で思い出すと、多分その場での俺は返事すらまともに出来ていなかった気がする。
「兄ちゃん、死んだんですか……」
やっと口をついて出た一言は
重く乾いていた。
[ᴛᴏ ʙᴇ ᴄᴏɴᴛɪɴᴜᴇᴅ]