【エッセイ・思い出綴り】 郷愁・昭和の伊那まち〜長野県伊那市②
(2)永遠の、こーせー市場
いつの頃からかは覚えていないけれど、毎日の夕方、母親から茶色い十円玉を一つ、もらって町中の”こーせー市場”に向かうのが、その日一番の楽しみになっていた。
おそらくは、毎日夕方、惣菜やら、買い物に出かける母親に連れられて、町まで出掛けて行ったのが”おかいもの”の始まりだったように思う。まだ、家庭用の冷蔵庫などという保存器具ものなく、新鮮なお魚やら、野菜、コロッケに至るまで毎日買い出しに出かけるのが日常だった。
伊那部の坂を下り、途中から住宅街をショートカット、町工場の裏を通って、自治会館の横を通り、お菓子屋の角から、料亭街を抜けてゆくと、小さな町の、一番の商店街に入る。
この時のドキドキ感は、新宿東口を出て歌舞伎町コマ劇場に向かう道や、有楽町駅から銀座4丁目の三越前に向かう時の気持ちと、たいして変わらない。
馴染みの書店の前を通り越して、角のお団子やさん”よろずや”さん(*今も現存)の店内をチラリと除けばその前の四角の角には、年中石焼き芋を焼いている大きなドラム缶のお店がある。そこからが、こーせー市場の始まり、食堂もあれば、洋品店もあり、鞄屋さんもあったけれど、僕らにとっては、3軒だけある子供向けの駄菓子屋さんが、夢のドリームランドのようだった。
それらの店舗は、すべて幅広の用水路の上に建てられた、仮設住宅のようなお店だった。湧水の豊富な河岸段丘の裾野のような地形では、谷の真ん中を流れる天竜川や支流の小沢川に流れ込む、たくさんの川があり、いつでも勢いよく、たくさんの水が流れていた。こーせー市場は、その用水路のようなコンクリート製の川の上に、長屋作りに設けられた、20軒以上の小さなお店が並んでいた。川のすぐ裏は、市役所だったから、浅草の門前通りのように間口は同じ向きで、その前をたくさんの買い物客が歩いている繁華街だった。 伊那町一番の繁華街は、バス通りの「通り町」で、かつては飯田線の駅もあった入舟駅から次の駅の伊那市駅までが、上伊那地方で一番の大きな商店街だった、と言われていた。伊那部の子供が行って良いのは、小沢川の手前の通りとこーせー市場、通り町までで、その先の映画街や、飲み屋街までは絶対に!入ってはならない禁止区域だった。(旭町、錦町などの飲み屋街を歩くようになったのは、実は令和になったつい最近のこと、もっとも、三輪車に乗った3歳児がそんな町にいたら、その町に住んでいる子でなければ、迷い子か、あるいはすぐにどこかに、売り飛ばされていたかもしれない、夜の街と裏通りには、そんな怖さが存在した。)
こーせー市場がどうして”こーせー”市場と呼ばれるようになったのかは、実は今でも知らない。”公正” なのか、”厚生” なのか、化粧品のコーセーではないのでは?と、ずっと疑問だったのだけれど、僕らにとっては、永遠のこーせー市場であり、今はすっかりお店の面影すら無くなってしまった通りをみても、やっぱり、あの通りはこーせー市場でしかない。
幼い子供たちに、お金とは何か、欲しい物を”買う”という行為そのもの、その使い方と大切さ、そして人々の暮らしとコミュニケーションのすべてを教えてくれたのが、こーせー市場だった。
関西人にこの話をすると、「ああせい、こうせい、」とよう言われる”こーせい”、とちゃうのん?などと言われるけれど、一年三六五日、毎日縁日やお祭りに出ている、おもちゃ雑貨屋さんが3軒ならんでいるそのお店が、今でいうたら、ゲームセンターか、カラオケ屋さんのように光り輝いていた。
五円十円の箱型の当たりくじにドキドキし、薄紙を舐めてあたりとスカに一喜一憂したり、父親には絶対に買って食べてはいけないと言われた、ゼリー菓子、よっちゃん酢イカにボンタン飴、今でも駄菓子屋さんにあるシガレット型のチョコレート味のお菓子、高価なプラモデルはお店の一番奥の棚に飾ってあり、軒下には、舟木一夫、橋幸夫など御三家歌手*のブロマイドが新聞紙の紙袋に入って釣り下げられて売られていた。(*昭和30年代後半)(コーセー市場は、続く)