生きること自体には意味はない、目的を持つから意味が生まれる
我思う、故に我あり。フランスの哲学者デカルトの言葉。
心臓の難病に罹患し、生きることが永遠ではなく、終わりは突然にやってくるかもしれないことを肌感覚で理解した。それ以降、医療の力で生かされていることを踏まえて、この人生をどのように充実したものにしていくかを深く考えるようになった。
いつ途絶えるかわからない状態になると、出世にはさほど興味がなくなる。自分に嘘をついて無理をしてハードワークをしても、同時に自分の人生を縮めてしまっており、結果を期待する前に人生が終わってしまう。自分の志に蓋をしない、思うように全力で生きてみることを心がけている。
ところが、この歳になると全力でやりたいことがなくなってきているのだ。東京本社に異動希望を出し、家族と離れて単身赴任で上京した。仕事はやりがいもあるし、自分ならではの強みも出せていて非常に面白い。異動してきて正解だったと思っているが、仕事を終えた平日の夜が暇。帰宅し、夕食をとって風呂に入ったらもうすることがない。寝るだけ。週末はさらに暇。早く月曜日が来ないかなと考えてしまうくらいだ。
改めて、生きる意味というのを考え直してみたのが今回のタイトル。生きることそのものに意味はない。ヒトという生物として食料を摂り、生殖して子孫を残す。それだけ。だが、人間としてよりよく生きたいと思うのならば、何かしら目標を置くのがよい。目標を達成してトロフィーを集めることもよいけれど、実はその目標に向かって努力している日々の充実感こそが生きている実感だ。
やりたいことはないと書いてしまったが、半ば無理やりにでも目標を立てて進めていこう。資格試験も狙っていこう。出世とか独立とか転職を企てる訳ではないが、仕事の選択の幅も広がるし、なにより目標に向けて前に進む感覚を楽しめるではないか。
私は立てた目標は達成したいとストイックに頑張る性格だが、別に頑張らなくったっていい。「痩せようと思ってて〜」「今年こそスコア100切る」みたいな、ゆるーい目標だっていい。その目標を立てることが、その人のアイデンティティを形成し、毎日の過ごし方を多少なりとも左右するのだから。
目標をたくさん作ろう。他人のためではなく、自分が成すべき目標を。そうして充実した人生を日々歩んでいこう。