#4 手を挙げたくても挙げられない ~小学生時代(1)~
(前回の記事)母親との幼児期の思い出
小学校に入学し、環境が激変した。いや、世間的には当たり前のことなのだが、「トイレに行きたい。」ということでさえもじもじしてしまう私にとっては、アメリカからフランスに引っ越すくらいの激変だった。
まず、最初の担任の先生が、男性だったこと。50代のベテランの先生でどちらかというと、おじいちゃんといってもいいくらいだった。見た目はやさしそうだったが、そこは男性の先生なので、締める所はビシッと締める先生だったと記憶している。それこそ今ではありえないが、やんちゃ坊主には「げんこつ」で指導することもあった。でも、父親に対しては違和感を抱いていなかった当時の自分には、逆に頼もしく思えたものだった。
次に、私にとって大きかったのは、「テスト」があったことだった。初めてのテストで、何点を取ったかは覚えていないが、何回目かのテストで、国語・算数・理科・社会4つのテストのうち、3つは100点をとったことがあり、4枚重なったテスト用紙を両親に手渡すと、
「お、100点!」
1枚めくって、
「これも、100点!」
また1枚めくって
「お~、社会も100点!」
と、大喜びしていたのを覚えている。
このことは、父にとっては、「やっぱりこの子は天才だ。」と再認識する根拠となった。父親の、私に対する期待度はさらに上昇したわけだ。
しかし私としては、前回書いたように、母親にもっと認めてほしかった。このテストの結果というのは、確かに、母にとっては私の学習能力に対する認識を新たにすることにはなった。
もし、母親も、
「すごいね! にいちゃんは、がんばったねぇ! 」
と、満面の笑みで認めてくれていたとしたら。。。と思う。いや、少しは認めてくれていた。ただ、母は、「テストでいい点をとる」という経験が、学生時代になかったそうだ。むしろ、学生時代は家が貧乏だったという理由で、いじめられたりしていたため、学生時代の楽しい思い出話を私は母からあまり聞いたことがない。だから、私が100点取ってきても、ほめ方がわからなかったのだ。
そのため、母のリアクションでは、私の承認欲求を満たすことはできなかった。そして翌日以降、相変わらず母は私に対して、
「にいちゃんは、デブでどんくさいから。。。」
「あっくんに、おもちゃ、わたしなさい!」
というセリフを再開してしまう。テストの結果が出ても、このセリフが削除されることはなかったのだ。それどころか、「1年生になったんだから」という理由で、机の周りの片付け、おもちゃの片付け、家のお手伝いなどなど、厳しい「しつけ」がますます増えていった。
小学校の授業を聞いて、ついていけなくて苦痛だったことはなかった。なので、担任の先生が、「この問題、わかる人?」と言えば、
「はい! はい!」
と、大きな声で手を挙げたかったのだが、いつも最初に挙げるのは、同じクラスの森山君だった。私は、わかるんだけど、手を挙げられない。
(もし、まちがっていたらどうしよう。。。おこられるのかなぁ。。。)
(もしまちがっていて、みんなにわらわれたらどうしよう。。。はずかしいなぁ。。。いやだなぁ。。。)
「じゃあ、森山君。」
「答えは8です。」
「よくできました!」
難しい問題を正解する森山君。ハキハキしていて明るい性格で、スポーツ万能。クラスのみんなの人気者だった。
「森山君、すごいね!」
とクラスのみんながざわつく中、私はもやもやがおさまらない。
(あ~、やっぱり合ってた。ぼくもわかったんだけどなぁ。。。)
先生の質問は続く。
「じゃあ、この問題はどうかな? ちょっと難しいぞ。わかる人いるかな?」
(あ、この問題、わかる! 答えは7だ!)
と、心の中の私が叫ぶ。でも、やっぱり手を挙げられない。クラスのみんなの目がすごく気になる。もし間違えてたらどうしよう、と。
そんなことをうじうじと思いながら、周りを見渡すと、問題が難しいからか、いつも百発百中の森山君も手を挙げない。
(あ、わかるのはぼくだけだ。どうしよう。。。いま手を挙げて正解すれば、ぼくはヒーローだ。)
(でも、もしまちがえたら、ずっとわらわれるんだろうなぁ。。。)
「さすがに、わかる人はいないかなぁ。。。」
先生の声が、静かな教室に響く。そう、今がチャンスなのに。森山君が答えられない問題がわかるのに。みんなに森山君よりすごいと認めてもらえるチャンスなのに。
たぶん1~2分ぐらいの時間なのだろうが、私にはすごく長く感じた。
「はい、誰も手を挙げないので、先生が答えを言います。答えは7です。」
無情にも、チャンス終了の宣告が先生によって告げられた。
「森山君がわからないんだもん、先生難しすぎだよ。」
クラスのみんなの声を聞き、私は、その難しい問題に自分が正解していたことよりも、手を挙げられなかった自分の意気地の無さ、クラスのみんなに認めてもらえるチャンスを逃した無念さでいっぱいになってしまった。
そして、私の小学校時代6年間を、「思い出したくない6年間」にするきっかけとなったかもしれない出来事が、学芸会で起こった。
私の学年のプログラムの出演者は、演者と器楽担当に分けられることになった。私は演者になりたかったが、この内気な性格が災いして、意に反して器楽担当。それも劇の山場で1回だけ、「シャーーーン!」とシンバルをたたくという、私にとっては不本意な役割が与えられた。
シンバルを1回たたくぐらい、私にとっては、当然のことながら簡単なことだった。練習も順調にこなし、迎えた本番当日。指定された立ち位置に立つと、私は異変に気付いた。私の左側においてあるはずのシンバルがないのだ。
周りを見渡してもやはりシンバルはない。他のクラスメートは、それぞれの楽器を手にしていた。どうやら私のシンバルだけがないようだ。
本番は目前に迫っていた。最終確認に担当の先生が、前列に来ていたのだが、私はひな壇の3段目にいたため、少し距離があった。それでも「先生!シンバルがありません!」と言えば聞こえる距離にその先生はいた。
だが、言えないのだ。「先生、シンバルがありません!」のたった一言が。確かに知らない先生だし、少し先生との物理的な距離はあった。でも、それは世間一般の常識からすれば大したことではない。というよりも、このままシンバルなしで本番が始まってしまうことの方が大問題だ。
無情にも本番開始のブザーが鳴った。自分の出番が迫ってくる。劇も山場を迎えた。さあ、シンバルをたたく場面だ。そして、今まさにシンバルをたたかないといけない場面に至ると、ようやく私は言葉を発した。
「先生、シンバルがありません!」
シンバルを「シャーーーン!」とたたく、私のたった1度の出番のその場面で、私がもじもじして心の中で格闘してとうとう言えなかったあのセリフが口をついて出てきたのだ。
「何でもっと早く言わないんだ。。。」
とつぶやいた先生の言葉がいまでも忘れられない。でも、それは私にとっては「常識」ではなかったのだ。とにかく「怖い」のだ。相手に自己主張をすることが「怖い」のだ。当時の私にとっての「常識」は、自分の主張が受け入れられなかったときの怖さから自分を守ることだったのだ。
(つづく)
(次の記事)アンタは橋の下で拾った子 ~小学生時代(2)~
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