三連休三日目(死について+生きる苦しみ、苦しみ生きることについて)

ことしに入ってから2回首を吊って自殺を企てた友人がいる。いまは落ち着いているようだが、病気があるので放っておけばまた自殺を企てるかもしれない。そして今度は成功してあの世の人になってしまうかもしれない。そんなことを朝からベッドの上で考えていたら、疲れて眠ってしまった。目覚めると時計は正午を回っていた。

昨年12月に尊敬している韓国の友人がソウルで亡くなった。難治性の重病を抱えていたが、周囲にはずっと黙っていたのだ。その知らせを聞いたのがことしの1月。2週間くらい憂鬱で沈んだ気持ちが続いた。彼女はまだ40代の初めで若かった。音楽学者として、モートン・フェルドマンについて博士論文を書き、その後は在野の研究者として現代音楽を中心に取り扱う音楽スクールを都内で運営していた。意志のはっきりした立派な女性だった。

4月にはFacebookで数年交友を続けていた劇作家の和田周さんがコロナに罹患してお亡くなりになった。和田さんは高齢にもかかわらず精力的な読書家で、ぼくは彼がFacebookへ投稿する読書メモをいつも楽しみにしていた。アーレント、ヴェイユ、木村敏、ブーバー、フッサール、メルロ=ポンティ、武田泰淳etcetc。一度お会いしてご挨拶したかったが、こちらの事情で先延ばしをくりかえしていた矢先の訃報だった。

人はなぜ生まれて(そりゃ両親が性交した結果だが)、なぜ死ぬのか(生命は有限だから仕方ない)ということよりも、なぜ人は生きて苦しみ、苦しみ生きるのか。人生大変なこともあるけれど、生きていればいいこともある、だから楽しいよ、という考えの人がこの世界には多いのだろうか。それとも、多くの人はそういうことが時折頭をよぎっても、すぐに忘れてしまい、雑事に没頭しているのだろうか。ぼくは分からない。

哲学が扱う死は、ハイデガーの『存在と時間』(1927年)のように、あくまでも生きている側にとって、迫り来る死である。これは生者にとっての死である、といえるだろう。たとえば死者にとっての死、それからの蘇り、転生などについては宗教が扱う領分である。ぼくはどちらかというと、前者に対して強い関心がある。その関心がことしに入ってから再び高まりをみせている。これは10年ぶりのことで、10年前の事情についてはまたいつか記す機会があるかもしれない。とりあえずこのあたりにしておこう。

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