絶対的な区別って本当にある?ないよね?(メタファーとしての発酵より)
老舗の和菓子屋さんが洋菓子にチャレンジ!小売やSNS事業会社がペイメント事業に参入、個人保有から共同保有といったシェアリングサービス。男性女性の区別のないトイレ。
世の中はあらゆる面で垣根(だと思っていた)ものが取り払われてきているように感じる。不確実性の高い世の中なのでどんどん新しい取り組みをして多角化し、リスク分散しよう!といったことも聞かれる。
そもそもこの世の中に明確に区別できるものがあったのだろうか?そして不確実「じゃない」状態がこれまで存在していたのだろうか?
時代が進み人間の知識が深まれば深まるほど「世界はそんなに単純じゃない」ということが分かっていく。
そして世の中の理を理解し、より自然に生きてゆくヒントになるなとおもったのが我々の世界を構成する微生物である。
微生物が自己と非自己を分けるものとして膜がある。しかしこの膜は厳密にいうとある物質は通し、ある物質は通さない浸透膜のようなものだ。
つまり完全に外界と隔てた存在ではない。外界の影響を受けずにはいられないのだ。これはそのままスケールアップすれば(当然だが)人間も同じで口からだけでなく、皮膚からも呼吸をするほか外界と自分を完全に隔ててはいない。
つまり、自然にあるものはそれぞれ相互に作用している、というかそもそもが明確な区別をもっていないともいえる。
自然の産物である生き物の世界には絶対的な区別はない。
この絶対的な区別がないのではないか?という考えを我々を取り巻く環境に当てはめるとしっくりくるのではないか。例えば純金は99.99999%の(いくつ9が続くのかは割愛)金の集まりを純金と呼んでいるだけだし、男性と女性ですら、肉体的な区別があれどマインドの部分でどちらによっているなどのグラデーションがある。
これらを科学的に分類、単純化して理解しやすくするために区別を「便宜」的にしようと試みているにすぎない。
言われてみれば当たり前な気がするが、普段我々は頭の中でこの単純化の呪縛にとらわれすぎるように感じる。
次回は、この微生物が起こす「発酵」について捉えなおし、それを人間社会に当てはめてみると何が言えるのかを考える。