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短編小説『まさみとぼく 猫の国の勇者、ピーチ』
「まさみ、なにしてるのさ。そんなにじっーと見つめられたら出るものも出ないよ」
「ピーチ、私のことは気にしないで。そのまま続けて」
まさみは、うすら笑いを浮かべながら、トイレで用を足しているピーチにスマホを向けています。
どうやら、動画を撮っているみたいです。
「そのまま続けてってひどいよね。ぼくのこんな姿を撮って、いったいなにをしたいんだか......」
「だって、ピーチがいきんでるところ面白いんだもん。小刻みに震えててさ。こんな風に」
まさみは、内股で、生まれたての小鹿みたいに、脚を小刻みに震わせています。
「面白くなんかないよっ!やめてよね。ぼく、本当に怒るよ」
「そのまま、そのまま。いいねいいね、その切なそうな顔」
「本当にいいかげんにしないと、ぼく、家出するからね」
「どうぞ、どうぞ。出て行けるものならどうぞご遠慮なく。私と一緒じゃなきゃ、ピーチったら、外にも出られないの忘れたの?」
まさみはそういいながら、どうぞご勝手に、とばかりに、右手を玄関の方に向けています。
そんなまさみを、ピーチはすごい目で睨みつけています。
そのとき、インターホンが鳴りました。宅配業者です。
やがて、荷物の受け取りにまさみが玄関を開けた隙に、トイレが終わったピーチは、まさみの横をすり抜けて、部屋の外へ飛び出しました。
まさみを一瞬振り返ると、ペロッと舌を出して、お尻ペンペンはできないので、その代わりに、お尻フリフリ駆けていきます。
階段の防火扉は閉まってるし、ひとりじゃピーチはエレベーターにも乗れないし、まあどこにも行けないでしょ、と高を括ってまさみは荷物を受け取っています。荷物は母からでした。
まさみが宅配業者のお兄さんの後ろを追いかけてエレベーターの前に着いたとき、そこにピーチの姿はもうありませんでした。
エレベーターは一階で停まっています。
このちょっと前、宅配のお兄さんが降りたすぐあと、同じ階の大学生のお姉さんが乗り込んだエレベーターに、ピーチはちゃっかり便乗していたのでした。
「ああ、ピーチちゃん。今日はひとりなの?」
「ミャー〜んっ!」
ピーチは思いっきり可愛らしく答えます。本当は、猫語で「家出中でーす」といったのですが、もちろん彼女にはそんなことはわかりません。
「今日は、あのお姉さんは一緒じゃないの?」
「お姉さん?おばさんの間違いでしょ!」
ピーチは猫語でひどいことをいっています。
ペット可のこのマンション、まさみがピーチと一緒にお出かけするところを、この女子大生は何度も見かけたことがあるのです。
一階に着くとピーチは、彼女の後ろについて外へ出ました。
タタタッと駆け出します。
「ありがと、お姉さん」
猫語でそういってピーチは走り去っていきました。
「すみません、うちのピーチ見かけませんでしたか?」
ピーチの後ろ姿を見送っていた女子大生に、息を切らせて走ってきたまさみが声をかけます。
「あっ、いまあっちの方に駆けていきましたよ」
振り返ってまさみだとわかると、女子大生は心配そうに指でさし示しています。
「ありがとうございます」
まさみはそういって、ピーチを追いかけます。
しかし、ピーチの姿はもうどこにも見当たりません。
「ピーチ、どこ行っちゃったの......」
*
「あーっ、ひとりで散歩って、気持ちいいな。まさみったら、最近太り気味で歩くの遅いし」
キョロキョロと通りを眺めて歩きながら、ピーチはまたひどいことをつぶやいています。
家猫のピーチにとっては、外の景色は新鮮でとても刺激的です。たまの散歩も自由に行きたいところには、まさみになかなか行かせてもらえません。
「ん?......」
視線を感じてピーチが通りの向こうに目をやると、一匹の年老いた黒猫がピーチをじっと見つめていました。
「こんにちは!」
ピーチはゆっくり近づいて話しかけます。
「おぬし、凶相が出ておるぞ」
あいさつも返さず、突然、黒猫がいいました。
「きょうそう?」
「おぬし、今日はとんでもないトラブルに巻き込まれる、という相がその茶色の虎縞の顔に出ておる」
「おじいさんは誰なんですか?」
ピーチは小首を傾げながら訊ねます。
街路樹の根元に背をもたれさせて、両足を大きく広げ、偉そうにふんぞり返っているその黒猫は、「わしは猫相占いの大家、千眼孔明じゃ」と不敵な笑みを浮かべています。
「猫相占いのセンゲンコウメイさん......」
そんな猫がいるんだ、とピーチは初めて聞いた猫相占いということばに興味を示しました。こんな毛むくじゃらの顔に猫相って出るんだ、と首を捻っています。
「そのとんでもないトラブルっていうのは、いったいなんなんですか?」
「うーん......わしにもそれがいったいなんなのかはまったくわからん」
「なんか......怖いんですけど」
「まあ、とにかく用心することじゃな」
左前足で、そのでっぷりと肥え太ったお腹をさすりながら、千眼孔明は、右前足の肉球をピーチの顔の前に差し出して、なにかを催促しているようです。
「なんでもいいから、見料ちょうだい」
「ケンリョウ?それってなんですか?」
「いま、おまえさんの猫相を見たじゃろう?だから、なんかちょうだい」
「けど、それってぼく頼んでないし」
ピーチは、なにもあげられるものは持っていません。
「じゃあ、もういいよ!しっしっ!」
右前足で、ピーチを追い払うようにしています。
ピーチは浮かない顔で千眼孔明をあとにしました。
「なんだかな......」
しばらく通りを歩いていると、また誰かの視線を感じました。
それは、神社の鳥居の向こう側にいました。
真っ白な一匹の猫でした。
なにかいいたそうに、じーっとピーチを見つめています。
「なんなんだよ。今日は本当に変な日だ」
ピーチは、千眼孔明のことばを思い出しました。
いや、気のせいだって。トラブル?......そんなものありえないって。とひとりごとをいいながら、その白猫の方にゆっくりと近寄ります。
「こんにちは」
「ミャミャミャンミャン。ミャミャミャ、ミャンミャンミャミャ、ミャンミャン」
その白猫がなにをいっているのか、ピーチにはまったくわかりません。
そして白猫は、話すことをあきらめたのか、まるでついてこいとばかりに、神社の奥へ入って行きます。
引きずられるようにピーチもあとに続きます。
社の裏手に出たところで、ピーチは何か異様な雰囲気に包まれました。
目の前に、直径1メートルほどの真っ黒な穴が、地面から空間に揺らめいています。
その白猫は、その前で一度立ち止まると、なにやらブツブツとひとりごとをいっています。
ヤバイヤツだ、そう思った瞬間、ピーチはその穴にすごい力で吸い込まれていきました。
「あーーっ!なんじゃーこりゃーっ!」
歪んだ空間のなかで、白猫は、わずかに差し込む光の方へ向かって、真っ直ぐスタスタと歩いていきます。
ピーチは白猫のあとを、螺旋を描くようにその穴に吸い込まれていきました。
*
ピーチが穴を通り抜けて地面に足をつけたときに、白猫は笑みを浮かべながらピーチに話しかけました。二本足で立って、傍の茂みのなかから取り出した服を身に着けています。
「ピイチ、本当に久しぶりだな。また会えて嬉しいよ」
「ピイチ?......ぼく、ピーチっていいます。あなたは誰ですか?」
ピーチには、白猫の話していることがまったく理解できません。久しぶりといわれても、白猫が誰なのかが、わからないのです。
「よかった、やっと話が通じたよ。ピイチ、おまえ本当に俺のことがわからないのか?俺だよ。イヌウだよ。いったい何があったんだ?それよりも、ピイチ。いい加減に二本足で立ったらどうだ?それと、服も着ろよ。見てる方が恥ずかしいだろ」
イヌウと名乗る白猫は、ピーチに上下一揃いの服を差し出しています。
「いや、ぼくは猫だし。いつも服なんて着てないし、二本足で立つのもあまり得意じゃないので」
「向こう側、人間の世界では無理だとしても、こちらの世界ではみんな二本足で立って歩くのが普通だし、こうやって前足、いや両手も使えるはずだ。おまえ、本当になにも覚えていないのか?」
そういわれて、ピーチが後ろ足に力を入れると、二本足で簡単に立ち上がれました。
「おおっ!なんか、すごい。背中もしゃんとしてるし」
前足を見ると、まるで人間の手みたいにグーチョキパーができます。
「これだったら、まさみの恥ずかしいところなんかをスマホでいっぱい撮れるのに」とピーチは、まさみのあの憎たらしい勝ち誇ったようなドヤ顔を思い出しました。
ピーチはイヌウが差し出した服を手に取ります。初めて服を身に着けるはずなのに、戸惑うことなくきちんと着られました。
「どうした、ピイチ?」
「......あの、イヌウさん。ここはいったいどこなんですか?」
「ここは、猫だけが暮らすユートピアだった国だ」
「ユートピア?......だった?」
「ああ、いまは恐ろしい魔王にこの国は虐げられている」
「魔王?」
「ああ、猫ではないまったく別の生き物、ハッカイだ」
「まったく別の生き物?」
「ヤツはある日突然、仲間を連れてこの国にやって来た。そして、その巨体と魔法の力でこの国を征服してしまったのだ」
「魔法?」
「人間の唱える魔法のことばだ」
「どんなことばなんですか?」
「舌を噛みそうないいにくいことばを、早口で唱えるんだ」
「早口言葉?......」
猫とは違うその生き物が何なのか、ピーチにはまったく想像がつきません。
どうやら、アニメの物語のように、自分は異世界に来てしまったんだ。そうピーチは理解しました。
「ところで、イヌウさん。ぼく、もとの世界に帰りたいんだけど。どこから戻ればいいのかな?さっきの穴から?」
そのことばにイヌウの表情は一変しました。
「やっと戻ってきたと思ったら、もう帰るだって?ふざけたことはいいっこなしだよ」
「だって、ぼくはあなたのことは知らないし。この世界のこともよくわからないんだけど」
「おい、ピイチ!おまえいったい何をいってるんだ?おまえ、人間の魔法のことばを覚えて、あの魔王を倒すといって、人間の世界へ旅立ったんだろう?」
「えっ!ぼくってもともとここに住んでいたの?」
「住んでいたも何も、おまえはこの国の王子だろうが!」
「王子?ぼくが......」
「そして、俺は親衛隊隊長、イヌウ。おまえとは、幼いころから兄弟同然に育ったんだ。本当に何も思い出せないのか?」
「まったく何も覚えていないんだけど」
「とにかく、しばらくはもとの世界には戻れない。人間界へのゲートは一年に一度しか開かないし、一方通行のみだ。つまり、このゲートを今日は向こう側には戻れないということだ」
「そんなーっ......」
イヌウのことばに納得できないピーチは、たったいま出てきたばかりのその黒い穴に入ろうとします。
しかし、穴は開いているように見えるものの、まったく入ることができません。
ピーチはただ呆然とその前で立ち尽くしています。
「イヌウさん。こんな大きなものが開きっぱなしだったら、人間が迷い込んでくるんじゃないですか?」
今日はもう帰れないんだ、とあきらめたピーチは、疑問を口にしました。
「それはない。人はこの国には入れない。その穴は人には見えないし、間違って入ろうとしても、入り口でいまみたいに弾かれる。ほかの生き物も同じことだ。そのゲートは、猫だけしか通ることができない、はずなんだが......」
不思議なこともあるもんだな、とピーチは首を捻っています。
「おまえの記憶がないのはしょうがない。長い間、人間界にいたせいなんだろう。きっとすぐに思い出すさ。それで、魔法のことばは覚えてきたのか?」
「魔法のことばって?アニメとかゲームのヤツ?」
ピーチは、自分がいま置かれている状況が、朧げながらわかってきました。
『これって展開的に、ゲームやアニメのように、勇者のぼくがその魔王ってヤツを倒さないといけないんだよな、たぶん』ピーチがそんなことを考えていると、
「ピイチじゃないか?よかった、戻ってきてくれたんだな」
そう大声で叫びながら、雉猫が二本足で駆け寄ってきました。
「キジア、それがな、ピイチは俺たちのことも、この国のこともすっかり忘れているんだ。たぶん、あちらの世界に一年もいたせいなんだと思う」
「えっ!なんだって。本当なのか、ピイチ?」
「ぼく、あなたに会うのも初めてとしか思えません」
「そうなんだな。まあ、見た目はピイチには違いない。それよりも、こんなところにいつまでもいたら、ヤツらに見つかってしまう。とっとと場所替えしようぜ」
イヌウとキジアはピーチを真ん中に、並んで足早に歩いていきます。
「で、どうだったよ、人間のいる世界は?」
キジアは興味津々でピーチのことばを待っています。
「ぼく、まさみっていう女性と一緒に住んでいて」
「おまえ婚約者がいるのに、他の猫と暮らしているのか?」
「いや、猫じゃなくて人間だけど」
「人間の嫁さんをもらったのか?」
「嫁さん?そんなことあるわけないでしょ」
「本当かよ?一緒に住んでて、結婚もしてないのか」
キジアは納得がいかないようです。
「ピイチには、ルルビがいるだろ?」
黙って二人の会話を聞いていたイヌウが会話に割って入ります。
「ルルビって誰なんです?」
「おい、おまえ。まさか、ルルビのことも覚えていないのか?おまえの婚約者じゃないか」
キジアが信じられない、という顔でため息混じりに声を荒らげます。
「ぼくの婚約者?」
「あのハッカイは、おまえとルルビの婚約祝賀パーティーの日に、この国にやって来たんだろ?それで、王さまと王妃、それにおまえの婚約者のルルビとおまえの妹の王女サファイを人質に取って、城に居座り、この国を乗っ取ったんだろうが」
「そうなんですね......」
ピーチはそんなことがあったことなどまったく覚えていません。
「ピイチ、しっかりしてくれよ」
そういって目に涙を浮かべて、キジアは肩を落としています。
「とりあえずは、作戦を練らないとな」
イヌウは、険しい顔つきで、親衛隊長として、久しぶりの戦闘のための作戦を考え始めていました。
*
しばらく歩いた三匹は、森のなかの一軒のみすぼらしい小屋に着きました。キジアの隠れ家です。
「おーい、みんな大変だ。ピイチ王子が帰ってこられたぞ!」
誰かが叫びました。
その声に反応して、小屋の周りに森のあちらこちらから、村猫たちが集まってきました。
「本当だ、王子だ。ピイチさまが帰っていらっしゃった」
「みんなーっ!ピイチ王子が、人間の魔法のことばを覚えてこられた。もうこれでヤツらはお終いだ」
親衛隊、一番隊隊長のキジアは、声高らかに叫びます。
猫たちの歓声が森に木霊します。
その声を聞きつけて、ハッカイの手下たちが、なにごとか?と駆けつけました。
その足音にいち早く気づいたイヌウたちは、茂みのなかに身を隠しています。
そして、ハッカイの手下たちを見たピーチはつぶやきました。
「あれは、豚じゃないか」
「ヤツらは豚っていう種族なのか?」
イヌウが怪訝な面持ちで訊ねます。
「そうだ、豚だよ。なんで、そのハッカイという豚は、人間の魔法のことばを話せるんだ?」
「ハッカイの手下が話していたのを盗み聞きしたんだが。なんでもハッカイは、人間と家族みたいに一緒に暮らしていたらしい。いつもハッカイと一緒にいたその家の子供が、ゲームとやらが大好きで、それを見ているうちに魔法のことばを覚えたらしい」
「ゲームでね......」
きっとあのゲームだな。
ピーチはいまも大人気の、〈早口言葉魔法大戦争〉という名前のゲームを思い浮かべていました。
それは早口言葉を魔法の呪文として使用している、一風変わったゲームでした。
ゲームのなかの相手を倒すときには、〈生麦、生米、生卵〉とかの早口言葉を音声入力で話さないといけないゲームでした。
流暢に話せないと、相手が倒れるどころか、分身の術さながら、二人、四人と失敗するたびに相手が倍々に増えていくのです。
強い相手ほど、長く難しい早口言葉をよどみなくいい切れないと倒せないのです。
ピーチはこのゲームが大好きで、おまけに大得意でした。まさみと対戦式でやって、未だかって一度も負けたことがありません。
「騒ぐのもいい加減にしろ。今度騒いだら牢獄行きだからな」
ハッカイの手下のひとりが、だらしなく半開きのまま涎が滴り落ちている口から、容赦ないことばを村猫たちに浴びせ掛けます。
「どうやら、もう行ったようだな」
ハッカイの手下たちが去ったあと、ピーチたちは茂みから出てきました。
「ピイチ、おまえヤツら倒せそうか?」
「肉弾戦では、絶対勝てないだろうな。体格差があり過ぎる。けれども、早口言葉の魔法ならなんとかなるかも」
「やっと、やっとこの日が来たんだ」
ピーチのそのことばを聞いて、イヌウの顔が輝きました。
イヌウの拳は固く握られ、その目には涙がうっすらと浮かんでいます。
「ところで、サルエルはどこにいる?」
思い出したようにイヌウがキジアにいいました。
「たぶん、湖の辺りでいつものように気ままに過ごしているんだろう。ヤツはハッカイの母親のお気に入りだからな。そんな自由が許されているんだ」
ハッカイに媚を売るようにして、いまでも城に出入りするサルエルを、キジアはあまり面白く思っていません。
それでキジアはこの一年ほど、サルエルと距離を置いています。
「そういうな、キジア。サルエルは吟遊詩人だ。もともと争いごとは好まない」
「しかし、ヤツの剣の腕前は相当なものだよな、イヌウ」
「確かに、そうだな」
「型にはまらない、変幻自在の自由な太刀筋だ」
キジアは、そんな勇猛なサルエルが、ハッカイに媚び諂っているさまが情けなくて、腹立たしくてしょうがないのです。
「しかし、キジア。あの婚約祝賀パーティーの日、俺たち三匹はハッカイの魔法の前に手も足も出なかった。できたことといえば、石にされる前に逃げ出すことくらいだ」
「そうだな。あの日以来、サルエルは以前と変わらないように過ごしているようだが、その姿はどことなく死猫のように精気のかけらも感じられない」
「悪いが、ピイチが戻ったことをサルエルに伝えてくれるか?キジア」
「わかった」
キジアは短くそういうと、四本足で駆け出しました。
「ピイチ、なかに入ろう。とりあえずは仲間たちを集めるのが先だ」
イヌウはピーチを小屋のなかへと促しました。
さっきまで大勢いた村猫たちは、ハッカイの手下たちに王子のピイチが見つからないように、いつの間にかみんなその場から立ち去っていました。
*
「お父さま、お母さま、お姉さま。私がここを抜け出して、ピイチお兄さまを探して参ります」
城のなかの一室に家族ともども幽閉されているピイチの妹、サファイがそういいながら、落ち着かない様子で部屋のなかを歩き回っています。
「サファイ、心配するでない。ピイチは必ず帰ってくる。大人しく待っているのだ」
「だって、お父さま、もう一年が経ったんですよ」
「王子は必ずお戻りになります」
そういって、ピイチの婚約者のルルビがサファイに寄り添います。
「ルルビのいう通りだ。心配するな、もうすぐピイチは帰ってくる」
ピイチの父の王さまは、ピイチが人間界へ行っていることを知っていました。サルエルから聞いていたのです。
そして、一年が経ったいま、人間の世界と猫の世界をつなぐ、あのゲートが再び開くことも知っていました。
そのゲートからピイチが戻ってくることを一番待ち望んでいたのは、他ならぬ王さまだったのです。
*
「サルエル、ピイチが帰ってきたぞ」
予想に違わず、湖の辺りでぼーっとしていたサルエルにキジアは嬉々とした表情でいいました。
目もうつろなサルエルは、「ピイチ?」そして、一瞬間があってから、我に返ったように、「ピイチが戻ったのか?」声を荒らげます。
「ああ、そうだ。やっと戻ってきてくれた」
その声を聞き終わらないうちにサルエルは駆け出していました。
「どこに行くんだサルエル?ピイチは俺の家にいる」
サルエルはまったく逆の方向に駆け出していました。
踵を返して、キジアと並んで走るサルエルの目にはうっすらと涙が浮かんでいました。
*
「ハッカイ、ここは天国だね。いまでも思い出すよ。あの日、私たちがどこかへ連れて行かれようとしたとき、すごい衝撃のあと、開かれたドアから見えた一筋の道。おまえのあとに続いて、私たち24匹の仲間たちは必死にそこへ逃げ込んだんだ」
煌びやかな装飾が施された王妃の座に、その巨体を嵌め込むようにして座るハッカイの母は、会話の合間にブヒブヒと鼻息も荒く感慨深げにそのときのことを思い出しています。
「ああ、母さん。あれはきっと人間たちがいうところの神様が、俺たちを導いてくれたのさ」
猫たちにあつらえさせた、王に相応しい衣装を身に纏い、玉座に座るハッカイは、アイドルグループのまたたび222が披露する歌と踊りを食い入るように見つめています。
実は、ハッカイたちが食肉処理場へ運ばれていったあの日、皆既日食が起こっていたのです。その途中、玉突き衝突事故に巻き込まれたハッカイたちの乗っていたトラックの後部扉は、その衝撃で開いてしまいました。
魔法の力で守られていた、猫たちだけしか通ることができないはずのゲートは、そのときだけ、皆既日食のせいでその力を失っていました。
偶然にもその隙に、ハッカイたちは、暗闇のなかに見えた光をたどってこの猫の国にやってきたのです。
「それにしても、ハッカイ。おまえよく人間の魔法なんて知っていたね」
そう訊かれて、ハッカイは、自分を可愛がってくれた人間の男の子のことを思い出していました。
あの日、どこかへ連れられていくハッカイのあとを、泣きながら追いすがった少年のことを。
ゲームが大好きで、特に〈早口言葉魔法大戦争〉という早口言葉で敵を倒すゲームが大好きでした。
その男の子の傍で、四六時中それを聞いていたものだから、ハッカイはいつのまにか魔法の呪文を覚えていたのです。
突如現れた、いままでに見たこともない豚の集団に、パニックになった、イヌウ始め猫の国の兵士たちは、ハッカイたちに襲いかかりました。
猫の戦士たちと戦っている最中、猫たちを威嚇するつもりで何気なく発したひとつの強力な呪文が、魔法をかけられた猫たちをみんな石にしてしまったのです。
ハッカイ自身、そんなものが威力を発揮するなんて思ってもいませんでした。
もともとの体格差に加え、ハッカイの魔法の力。猫たちと同様に二本足で立ち、前足も人間の両手のように使える、突如現れた豚の軍団に、猫たちは混乱のなか逃げ出すしかなかったのです。
*
イヌウの呼びかけで、ちりぢりになって潜伏していた王さま直属の親衛隊の兵士たちが、ピーチのもとに集まっていました。もちろんそのなかには、サルエルもキジアもいます。
「じゃあ、みんな、行くぞ!」
隠し持っていた剣を高らかに掲げ、みんなが声を挙げます。
しばらく城に向かって進んでいくと、ハッカイ軍団のパトロール隊と出会いました。
「おい、おまえたち何をやっている?まさか、俺たちに戦いを挑むつもりじゃないだろうな?そんなことをしたら、どういうことになるかわかっているんだろうな」
パトロール隊長は、それぞれ思い思いに武装した、イヌウたち王の親衛隊の兵士たちを、大声で威嚇します。
「みんな、かかれっ!」
イヌウの合図で、猫の兵士たちが一斉にパトロール隊の豚たちに襲いかかります。
しかし、たった四匹の豚たちに対して、ピーチたち総勢八十一匹もいる猫たちはまったく歯が立ちません。
悲鳴と共に、豚たちの振るう巨大な豚足の拳に次々と倒されていきます。
「ピイチ。こうなったら、おまえが覚えてきたという、その人間の魔法の言葉で倒してくれ」
王子のピイチは、剣の腕前はからっきしだったので、ピーチの傍について守っていたキジアがいいました。
「魔法の言葉、例の早口言葉だな。さて、何がいいものやら。まず、相手を指差して、ロックオン。こいつと、あいつと、そいつと、どどいつと。えーっとそれから、変身魔法の呪文......新人歌手新春シャンソンショー。生麦生米生卵。バスガス爆発。子猫になーれっ!」
ピーチが呪文を唱え終わると、四匹の豚たちは、可愛らしい子猫たちに姿を変えていました。
ピーチはそれから傷ついた兵士たちすべてを指差して、回復魔法の呪文で元どおりにします。
「瓜売りが瓜売りに来て瓜売りのこしうり売り帰る瓜売りの声。この竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのだ」
「おーっ、すごーいっ!元気ピンピンになっちゃったよ」
兵士たちの歓声が上がります。
「よかった。できるんだね。ちょっと感動しちゃった」
ピーチは自分の呪文の力に驚いています。
「こいつらはどうする?ピイチ」
「もう可愛らしい子猫なんだし、許してあげてもいいんじゃない」
イヌウの掌のなかで、自分たちのこれからの運命に怯え、潤んだ瞳でピーチたちを見上げ、その小さなからだを震わせながら、ピーピー鳴いている四匹の子猫たち。
「そうだな、許してやるか」
イヌウは優しい眼差しで、子猫になってしまった豚たちを見つめています。
部下の兵士に子猫たちを預けると、イヌウはみんなに告げます。
「みんな、いまから城に向かうぞ。ハッカイを倒して王さまたちを救い出すんだ」
*
「なにごとだ?」
アイドルグループまたたび222の一番人気ユコを、膝の上でなでなでしながらハッカイが大声を上げます。
「猫どもの反乱です。ハッカイ様」
「反乱だと。身のほど知らずが。俺たちに敵うわけもなかろうに」
その瞬間、その報告をした手下の豚がハッカイの目の前で子猫に姿を変えました。
「これは?まさか......」
ハッカイの手下たちは、みんな子猫になっていました。
ハッカイの視線の先に、仁王立ちでその子猫を指差すピーチの姿がありました。
「おまえは何者だ?」
「ぼくはピーチ。おまえを倒しにきた」
「王子のピイチさまが戻られたんだ。もうこの国におまえたちの居場所はない」
サルエルがその低い美声で高らかに宣言します。
「サルエル、おまえの口からそんなことばは聞きたくない」
ハッカイの母が顔を歪めて、その大きな耳を塞ぐ仕草を見せています。
「黙れ、俺がどれほどおまえに撫でられるのが嫌だったか、わかるか?」
「もう、よしておくれよ。お願いだから」
ハッカイの母は、いまにも泣き出しそうです。
「すべては城に自由に出入りするため。王さまたちの様子を探るためだったんだよ」
「よせ、サルエル」
ハッカイはそういってサルエルを指差し呪文を唱えます。
「すももも桃も桃のうち。隣の客はよく柿食う客だ」
放たれた変身魔法の呪文は、青い稲妻となってサルエルに襲いかかります。
それと同時に、ピーチはその稲妻に向けて呪文を唱えます。
「バナナの謎はまだ謎なのだぞ。バナナの謎はまだ謎なのだぞ」
青い稲妻をピーチが放った金色の稲妻が弾きました。
防御魔法の呪文です。
「これならどうだ。赤パジャマ青パジャマ黄パジャマ、赤パジャマ青パジャマ黄パジャマ」
ハッカイが間髪を容れず、次の呪文を放ちます。
ピーチも負けずに応戦します。
「東京特許許可局長今日急遽休暇許可拒否」
今度もハッカイが放った稲妻をピーチの稲妻が弾きました。
子猫に姿を変えたハッカイの手下たちをみんな捕え終わると、イヌウ始め親衛隊一同は、二匹の戦いを固唾を呑んで見守っています。
今度はピーチが、変身魔法の呪文をハッカイに向けて仕掛けます。
「Peter Piper picked a peck of pickled peppers」
「Eight apes ate ate?eight......apples」
ハッカイは、防御で精一杯です。しかも、上手くいい切れていません。ハッカイは、あの少年と同じように、英語の早口言葉が苦手でした。
青い閃光と金色の閃光が辺りに飛び散り、凄まじい空気を揺らす音と共に城が揺れています。
続けてピーチがとどめの一発をお見舞いします。
「I scream, you scream, We all scream for ice cream. 子猫になーれっ!」
そして、青い稲妻は金色の稲妻に呑み込まれ、その光が消え去ると、ハッカイはちょっとでっぷりとした子猫に姿を変えていました。
あとにただ一匹残されたハッカイの母は、懇願するようにピーチに向かっていいました。
「私も猫に変えておくれ」
ピーチはそのことば通りに望みを叶えてあげました。
玉座には、二匹の子猫たちが身体を寄せ合って、ピーピーとか細い声で鳴いています。
*
「ピイチお兄さまっ!」
幽閉されていた部屋から救い出されたサファイたちがそこに駆けつけます。
ピーチをじっーと見つめていた王さまは顔を曇らせました。
久しぶりに会えた嬉しさのあまり、思わずピーチに抱きついたサファイは、驚いたように飛び退くと、叫びました。
「お兄さまじゃない。あなたはいったい誰?」
「だから、ぼくはピーチです」
「ピイチさまは記憶を失くされているんです、サファイ王女」
イヌウがいいます。
そのことばに被せるように王さまがいいました。
「わしにもピイチとは思えん。どれ、その服を脱いで背中を見せてくれんか?ピイチの背中には、ハートマークのような小さな模様があるはずだ」
「それなら、私が最初に確認しました。確かにピイチさまのお背中にはその模様がございました」
幼いころからピイチと兄弟同然に過ごしてきて、裸の付き合いをしてきたイヌウが口を挟みます。
「いいから、見せてくれるか?」
ピーチは王さまにいわれた通り、服を脱いで背中を見せます。
「やはり、違うの。逆じゃ」
二本足で立っているピーチの背中には、淡いピンク色の桃のような模様がありました。
これが、まさみがピーチをピーチと名付けた理由でした。
「しかし、名前もピイチと......」
ピーチの背中を見つめながら、そんなはずは......とイヌウは愕然としています。
ピーチがゲートをくぐり抜けて、初めてこの国に降り立ったとき、四本足で立っていたピーチの背中を見たイヌウは、逆方向から見ていることに気づかず勘違いしていたのでした。
「だから、ぼく、いったよね。ピーチだって」
イヌウは親衛隊隊長に相応しく有能な雄ではありましたが、少しばかりうっかりさんでした。
「よかった。ぼく、本当に記憶を失くしていたのかも、と思っていたから」
イヌウはガックリとうなだれています。
「まあ、わしの息子のピイチではなくても、この国を救ってくれたことには違いない。この国の恩人だ」
王さまからの指示で、それから次のゲートが開くまでの一年間、ピーチはこの国で盛大なもてなしを受けました。
アイドルグループまたたび222の一番人気のユコが、ピーチの傍でいつも恋猫のように付き添ってくれました。
ユコから何度も昼夜のお誘いがありましたが、ピーチは一年経ったらもとの世界に帰るつもりだったので、深い関係にはなりませんでした。
それから、サルエルは、かねてから密かに思いを寄せていたサファイと恋仲になり、本物のピイチが帰ってきたら、ルルビとピイチの結婚式と同じ日に、合同結婚式を挙げる計画を立てています。
ハッカイの呪文で石になっていた猫たちも、魔法が解け、みんなもとの姿に戻り、猫の国は以前の活気を取り戻しました。
*
そして、月日は流れて、あっという間にピーチがもとの世界へ帰る日がやって来ました。
イヌウ、キジア、サルエルの三匹がゲートの入り口まで見送りにきています。
「あの、イヌウさん。ぼく、ずーっと気になっていたことがあるんだけど」
「なんだ?」
「ぼくが初めてここにやって来た日のことなんですけど」
「ああ、覚えているよ。ぼくピーチです、とおまえがいったときに、猫違いだと気づくべきだった。本当にすまなかったな」
「あのとき、イヌウさんは、このゲートは一方通行だといいましたよね。だったらイヌウさんは、一年前から人間界にいたってことになります。だって、神社でぼくを待っていましたよね」
「ゲートが一年に一度しか開かない、というのは本当だが、一方通行というのは半分本当で、半分は嘘だ。一度入るときは呪文はいらない。ただ、そこから反対側に戻るときは、呪文が必要になる。この呪文は、もともとは王さましか知らないものなんだ。あの日俺は、その呪文をサルエルから、王さまからの伝言だと伝えられて、ピイチ王子を迎えに行ったんだ。もっともいまでは、俺とサルエルも知ることにはなったが」
「えーっ!そんな......ひどいよ、イヌウさん」
「すまなかったな。けど、あのときは、おまえが記憶を失っているとすっかり思い込んでいたから、人間界に戻られたら困るだろ。だから、そんな嘘をついたんだ」
「うーん......」
「けれど、いまではそれでよかったと思う。なぜなら、おまえにこの国は救われたんだからな。俺は王子のピイチを探しに人間界に行きたいんだが、前のハッカイの件もあるし、ゲートが開く日にはなにが起こるかわからない。だから、俺たちは王子が帰ってくることを信じて、この国で待つことにする。サファイ王女は行きたがっていたが......」
「イヌウさん。もう済んだことだし、わかりました。ところで、その呪文って、どんなことばなんですか?」
「呪文か......残念だが、いくらこの国の恩人のおまえといえども、それだけは教えられない。すまない」
「......わかりました」
ピーチの脳裏に、またたび222のユコの姿が浮かびました。それを振り切るかようにピーチは首を横に振ります。
「本当にお世話になりました」
ピーチは深々と頭を下げ、みんなにお別れをいいます。
「ピーチ、元気でな」
イヌウは少し涙ぐんでいます。
「人間のお姉さんと仲良く暮らせよ」
キジアは羨ましそうに親指を立てています。
「心の真ん中に愛があれば、どんなときでも、どんなところでも生きていける。また、いつの日か」
サルエルは詩人らしく、はなむけの言葉を贈ります。
「じゃあ、みなさんもお元気で!」
ピーチはそういうと、ゲートのなかに入って行きます。
今度は来たときとは違って、スタスタと暗い穴のなかを、その先に見える一条の光を目指して、しっかりとした足取りで歩みを進めました。
*
「おや?いま入ったと思ったらもう出てきたのか?一方通行のはずじゃが、よく途中で引き返せたの」
懐かしい顔がありました。千眼孔明です。
「あ!おじいさん。お久しぶりです」
「お久しぶりって、さっき会ったばかりじゃないか」
「え?」
「おまえさん、向こうの猫の国のピイチじゃろうが」
「ぼくはピイチじゃなくて、ピーチだって」
「?......よく似ておるが、別猫じゃな。顔に品がない。さっきのピイチは王子だといっていたからの」
「品がなくて悪かったですね」
「どうでもいいが、なんかちょうだい」
またこれか。ピーチは苦笑しながら、またたび222のユコが持たせてくれた、お腰につけたきび団子ならぬ、またたび団子を差し出そうと手をかけますが、もう二本足で立っていません。なので、ピーチの両手は、またもとの不器用な前足に戻っています。
「おじいさん、これあげるから取って」
「これは、わしの好物のまたたび団子」
クンクンと匂いを嗅ぎながら、団子の包みの紐を器用に口でほどくと、なかの団子に齧りつきます。
「うーむ、美味い。これを食ったら生まれ故郷が懐かしくなったわい。わしも二十年ぶりに猫の国に帰るとするか」
「おじいさんって、猫の国から来てたんですか?」
「そうじゃ。あちら側とこちら側では時間の進み方が違うからの。あちらの二年がちょうどこちらの一日にあたる。だからわし的には十日ほどこちらで過ごしただけじゃがの」
「なんか、ややこしいや。ところで、おじいさんはなんで人間界の猫のことばを話せるんですか?」
「それはの......」
「それは?」
「秘密じゃ」
「えーっ、もったいつけずに教えてよ。ちぇっ、つまんないの」
「じゃあの」
そういうと、千眼孔明はゲートのなかへと消えていきました。
*
「ピーチ!ピーチ、どこなの?」
久しぶりに聞くまさみの声です。
ピーチにとっては一年振りに聞く懐かしいまさみの声です。
「まさみ、ここだよ」
辺りに人がいないことを確かめると、ピーチは大声を上げます。
その声を聞きつけて、まさみが駆け寄ってきました。
「もう!ピーチったら、ひどいよ。本当に家出するなんて」
「ごめん、まさみ」
「!......どうしたのピーチ。らしくないよ」
「なにが?」
「だって、いつものピーチだったら、絶対謝んないでしょ」
「うーん、まあいろいろあってね」
「それと、なにそれ」
「なに?」
「いつのまにそんな服を着たの?」
ピーチが猫の国で着ていた、お気に入りの洋服でした。
「まあ、話すことがたくさんあるから、とりあえずは家に帰ろうよ」
「そうだね」
そういうと、まさみはピーチを抱き上げ、自分の腕のなかに抱きしめます。
「ちょっと、まさみ。痛いよ」
「もう逃げないように、確保!」
「どこにも行かないよ、まさみ」
まさみを見上げながら、ピーチは懐かしい匂いにほっと安心していました。
そのピーチの頭を、まさみはクンクンと嗅いでいます。
「ちょっとピーチ、あんたなんかいい匂いする。甘い香水のような」
またたび222のユコがいつもつけていた、ニャネルNo25の残り香でした。
「まあ、ちょっとね」
「なにそれ、教えなさいよ」
「だから、ぼくはピーチだけど、まだチェリーでーす」
チェリー。これは、キジアから教えてもらったことばです。
「なんなの、それ?」
「あとからゆっくり教えてあげるから」
「いま、教えてよ」
「だから、あとから」
オレンジ色に染まった河川敷の小道を、まさみに抱かれたピーチはわが家へと帰って行きます。
思えば、遠くまで行ってたもんだ。
ピーチは、猫の国に暮らす猫たちを思い浮かべました。
「あちらの世界もいいもんだけど、やっぱりぼくは、まさみがいるこの世界が一番好きだ」
「ピーチ、いまなんていった?」
「へへへっ、教えないっ!」
「なんていったのよ。教えなさいよ!」
いつもの軽口を叩き合いながら、二人はお互いの温もりに安らぎを感じていました。
*
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