『おれ、カラス クリスマスの奇跡』第二話(全三話)
クリスマスの翌日に、やまちゃんがすずと再会を果たしてから、ちょうど一年が経っていました。
はしちゃんは、ベビーベッドのなかで、「キャッキャッ」と声をあげて笑う、やまちゃんの娘、ふしぎちゃんを、愛おしそうに目を細めて見つめています。
森雪ふしぎ、これがこの娘の名前です。
「ふしぎ......かわいいな、やまちゃん」
「そうだろ、そうだろ。ふしぎは世界一かわいいんだ」
やまちゃんは目尻を下げて、親バカっぷり全開です。
「はしたん......」
「えっ! やまちゃん、聞いた? いま、しゃべったよね、ふしぎ......」
「えっ! いま、たしか、カアーカアーっていったよね」
「やまちゃん......もしかして、ふしぎって、いまカラス語を話したんじゃない?」
「プチさん、そうなのか?」
「ああ、そうだよ。いま、ふしぎはカラス語で『はしたん』っていったよ」
プチさんはやまちゃんとはしちゃんの通訳をしています。人間の姿に戻ったやまちゃんは、カラスのことばを話すことができませんでした。
「ああ、なんてことだ。ふしぎが初めて話したことばが、『はしたん』だなんて......。しかも、カラス語で.....悲し過ぎるだろ。こんなこと、すずには絶対にいえない」
やまちゃんは、がっくりとうなだれています。
「やま、やま、やまちょん......」
「おっ! ふしぎがいま俺のこと呼んだよ。ねえ、はしちゃん。聞いた? ふしぎがいましゃべったの。『やまちょん』って微妙に違うけど......」
「いや、いまなんかいったけど、人間のことばだったよね。プチさん」
「はしちゃん、いまのはそうだ、ひとのことばだったよ。どうやらふしぎは、両方のことばが話せるみたいだな」
「バイリンガルってことか......」
「やまちゃん、それなに?」
「ふしぎは、ひとのことばとカラスのことばの両方が話せるってことだよ」
「なんか、すごいな」
ふしぎちゃんが生まれてから、すずがいないときにちょくちょくこの部屋にやってきていたはしちゃんは、プチさんを介して、やまちゃんとおしゃべりしたりして、楽しい時間を過ごしていました。それで、ふしぎちゃんは、いつの間にか両方のことばを覚えていたのです。
*
やまちゃんとすずは結婚しました。
しかし、その道のりは、平坦なものではありませんでした。
やまちゃんは、すずに、名乗った『山神公平』という名前は、自分が勝手につけたもので、本当の名は自分自身にもわからない。
それに、伝えた経歴などはすべて嘘で、自分がいったい何者なのかわからない。
あのクリスマスの日、すずと出会うまえの記憶がまったくないんだ、と話しました。
そんなやまちゃんの告白を聞いて、すずはかなり戸惑いました。まだお腹のなかにいたふしぎちゃんのこともありました。しかし、やまちゃんを本当に愛していたすずは、「だからといって、いまさら嫌いになんかなれないよ。ひとを好きになるのに理由なんかいらないでしょ!だって、好きになっちゃったんだから! 」そういって、すべてのことを受け入れました。
やまちゃんが帰ってきたと聞いて、すぐに東京まで飛んでやってきた大和も、やまちゃんの口から、過去のこと、そして、これからどうしたいのかを聞かされて、またふたりが一緒に生きていくことを渋々ながらも了承しました。
もし、大和が反対しても、ふたりの意思は固く、『いまのふたりを引き離すことなんか、とてもじゃないができないだろう』と大和はわかりすぎるほどわかっていたのです。
やまちゃんの精神状態を心配したすずに付き添われて、やまちゃんが大学病院の脳外科で精密検査を受けた結果は、『特に異常なし』というものでした。
しかし、戸籍がないやまちゃんは、このままでは、すずと結婚するどころか、人としてまともに暮らしていくことができません。
大和は、『ふたりのために、これはなんとかしてやらなければ!』と八方手を尽くして、その解決方法を模索しました。
そんななか、大和は、弁護士の友だちから〈就籍〉という方法があることを教えてもらいます。
ここからやまちゃんの戸籍取得に向けての手続きが始まりました。
そして、約一年後、やまちゃんはやっと戸籍を取得することができました。
しかし、そのまえに、ふしぎちゃんが生まれました。
それで、ふしぎちゃんは森雪の戸籍に入ったのです。
そして、やまちゃんは、「森雪の家系、苗字を自分の代で絶やすわけにはいかない。できることなら森雪の家に入ってくれないか? 」という大和の願いを快く受け入れ、すずと結婚して、山神公平から森雪公平になりました。
*
「はしちゃん、今回のもすごいね。こいつって、あいつだよね? いつか、俺たちがマンションのベランダに置いてあったカラス撃退用の作り物のフクロウを『よくできてんなー』なんて感心しながら眺めていたら、『そいつ、怖くないんですか?』って恐る恐る声をかけてきたやつだろ?」
「よく覚えてるね、やまちゃん」
「そして、その作り物のフクロウが突然向きを変えてこいつの方を振り返ったもんだから、こいつびっくりして、羽をバタつかせてベランダの手すりでしたたか羽を打ちつけて、そのままベランダから真っ逆さまに落ちていったんだよな」
「それで、こいつが歩道にぶつかる寸前に、俺とやまちゃんでなんとか助けてやったんだよな」
「ああ、そうだったな。こいつ相変わらずだな。あのときのより、ちゃっちくて、明らかに作り物ってわかる、このフクロウのぬいぐるみに、なんでこんなにビクついてんだよ。しょうもなっ! こいつ、ベランダに置いてあるゴミ袋を狙ってるんだな」
「この後のシーンが笑えるんだってば。これっ!」
「おい、ホントかよ? こいつ漏らしてんじゃん。こいつのこの顔......最高だね!」
映像に映っているそのカラスは、目ん玉を大きくひんむいて、クチバシはポカンと開きっぱなし、そして、力なく尻餅をついています。
その股間からは、勢いよくおしっこが漏れ出ています。
もちろん、やまちゃんとはしちゃんの会話は、プチさんが同時通訳しています。
「やまちゃん。実は、俺が音を殺して、スーッとベランダの手すりに留まってさ、『おいしそうなカラスだなっーーーっ!』てそいつの後ろから大声で叫んだんだよ。そしたら、そいつそうなっちゃって。『いつ止まんのよっ!』っていうくらいおしっこ漏らし続けてさ。さすがの俺も『ごめんな』って謝ったよ。そのあと、俺のとっておきのエサ場に連れて行ってあげたから、あとからそいつには感謝されたけどね」
やまちゃんたちは大爆笑です。
やまちゃんは動画投稿サイトに鳥類、特にカラスに関する動画を編集して投稿しています。そしてそこから得られる広告収入を、家計の足しにしています。
やまちゃんの作品は、はしちゃんの全面協力によるものです。はしちゃんの頭に取り付けた超小型カメラで撮影したその動画の数々は、他に類を見ない、アングル、そして、カラスたちの自然な表情でかなりの人気を博しています。
やまちゃんは、一部のひとたちから、「これはカラスに取り付けた小型カメラの撮影による映像で、動物虐待にあたる」と非難されたこともありました。
しかし、「野生のカラスにカメラを取り付けようとしても、それはどだい無理な話だ。ましてや、それほど飼い慣らされたカラスなど、見たことも聞いたこともない。いったいどうやって撮影しているのか?」とみんな不思議がりました。
けれども、そんなことより、人々の関心は迫力のある映像の方で、その真偽の程は特に気にするほどのことでもありませんでした。
*
ひと月に一度、すずの父親の大和は、ふしぎちゃんの顔を見に、田舎から東京までやってきます。
初めの頃、大和は、専業主夫のやまちゃんのことを「なんだそれは」と快く思っていませんでした。
しかし、同じように炊事、洗濯、掃除をこなしてすずを育ててきた大和は、『これはこれで簡単にできる仕事ではない』と身に染みてわかっていました。
大和はそんな大変な仕事を完璧にこなして家族を支えているやまちゃんを、いまでは尊敬すらしています。
「妻が外に働きに出て、夫が家で家庭生活を支えるのも悪くない」といまでは大和もふたりの生き方を認めています。
「じいじでちゅよ。ふしぎ」
「カアーカ......」
大和が満面の笑みで話しかけると、たまにふしぎちゃんはカラス語で答えることがあります。
そんなときは、やまちゃんが大和のとなりでカラスの鳴き真似をして誤魔化します。
その度に、やまちゃんは大和から「なんでカラスの鳴き真似をするんだ。変なことを教えないでくれ」とキツく叱られます。
*
あっという間にそんな楽しい日々が過ぎて、七年後。
ふしぎちゃんは、八歳、小学三年生になっていました。
すずが出張で家にいないときは、はしちゃんが必ず泊まりにきて、やまちゃんとふしぎちゃん、それにはしちゃんのふたりと一羽でいっしょに食事をします。
今夜、やまちゃんは、いつもはしちゃんが協力してくれている動画撮影に対しての労いの気持ちも込めて、おいしいと大評判の寿司屋から、特上のお寿司を三人前、出前を取りました。
ふしぎちゃんも、やまちゃんも、はしちゃんも、みんなさび抜きです。やまちゃんは寿司が届いたあとで気づきました。実は、はしちゃんは酸っぱいものがあまり得意ではありませんでした。
なので、はしちゃんはシャリだけを残して、上にのった魚介類のみを食べています。
ふしぎちゃんが上手にお箸を使って、はしちゃんのために寿司ネタだけをお皿に取り分けています。
はしちゃんはおいしそうにそれをパクついています。
「はしさん、もっと食べれば」
「ふしぎちゃん、ありがとう。けど、俺、やまちゃんと違って、あんなにバカみたいに食べないから」
「だよねーっ、パパって本当によく食べるから」
「なんだ、なんていったんだ、はしちゃんは? ふしぎ教えてくれよ」
やまちゃんは、もったいないからと、はしちゃんが食べ残したシャリ玉を、次から次へと口に放り込んでいます。
「パパ、ないしょだよ」
「えーっ、教えてくれよ」
ふしぎちゃんは、はしちゃんと普通に会話ができるようになっていました。もちろん、やまちゃんがもとカラスだったことは秘密です。
すずはまえから勤めている会社で、いまでは課長になっていました。
以前、すずの上司だった係長はいまでも係長のままです。
すずは上司という立場から、彼にかなりキツくいわなければならないときがあります。
そんなとき、彼はすまなさそうな顔をしながらも、うれしそうな顔をしているような気がするのが、最近、すずのなかでは引っかかっています。
ちなみにその係長はいまだにバツイチのままです。
*
「パパ、ごちそうさま。おいしかったぁ。ふしぎ、そろそろ行こうか?」
「うん、ママ。パパ、行ってまーす」
食事は三食すべて専業主夫のやまちゃんの担当です。
サンタクロースのレシピでつくる料理は、すべておいしいものばかりでした。もちろん、炊事、洗濯、掃除をはじめ、家のなかのことは、ほとんどやまちゃんの担当です。
「えっ!」
すずは会社へ、ふしぎちゃんは学校へ、ふたりそろって出かけたあと、いつものように朝食の後片付けをやっていたやまちゃんは、突然自分の手から滑り落ちて割れた、目のまえの茶碗を呆然と見つめています。
「?......! カラスに戻っている」
実はやまちゃんは、かけられた魔法が解けないように、追加の魔法をサンタクロースから定期的にかけてもらっていたのです。
しかし、「そろそろ追加の魔法をかけてもらわないと」といつも教えてくれていたプチさんは、ここしばらく、やまちゃんと一緒にいませんでした。
サンタクロースの分身としてのお仕事を晴れて終えたプチさんは、自由を満喫していました。
というのも、ふしぎちゃんはバイリンガルですので、はしちゃんとやまちゃんが話したいときには、ふしぎちゃんがその役を担っています。
というわけで、プチさんは、やまちゃんたちと四六時中一緒にいる必要がなくなったのです。
やまちゃんとすずのラブストーリーに触発されたプチさんは、恋愛に目覚めました。
そして、サンタクロースに、床に額をこすりつけるようにお願いして、やまちゃんの羽毛から、小人の女性、ノワールを作ってもらいました。
そして、プチさんは、サンタクロースの家の近くに新居を建てて、いまはそこでノワールとふたりっきりで仲良く暮らしています。
ですからプチさんは、ここのところずっとノワールに夢中でした。それで、そろそろ追加の魔法をかけてもらわないといけないということを、プチさんはやまちゃんに伝え忘れていたのでした。
「ヤ、ヤバいって。どうすんのよ、これ?」
やまちゃんは、もう何度も追加の魔法をかけられていたので、プチさん任せで、そのことをすっかり忘れていました。
『プチさん、プチさん。聞こえる? 応答せよ、応答せよ。こちら、やま。プチさーん、プチさんったら、返事してよーっ! サンタのじいさんでもいいからさ。誰か返事してよっ!』
日本からプチさんのところまでは、遠すぎてなかなかテレパシーが伝わりません。
けれども、やまちゃんの思いが伝わったのでしょう。
そして、何時間もやまちゃんがプチさんを呼んだあとに、やっとプチさんは答えてくれました。
「やまちゃん、どうしたの?」
「俺、カラスに戻っちゃったよ。どうしよう。また、クリスマスが終わるまでこのままの姿なのかな?」
「心配すんなって、そんなの魔法をかければ、すぐにもとに戻るって。忘れたのか? 変身魔法は、クリスマスとクリスマスの間に一往復使えることを」
「そうだったな。じゃあ、すぐに人間の姿に戻してもらえるんだな?」
「ああ、そういうことだ」
プチさんから連絡を受けたサンタクロースは、プチさんといっしょに、やまちゃんの家まで大急ぎで駆けつけました。
しかし、サンタクロースが、やまちゃんを人間の姿に戻そうと呪文を唱えてみても、なかなか上手くいきません。
「おかしいのう? なぜじゃ」
「サンタのじいさん。いったいどうなってるんだ?」
やまちゃんはいまにも泣き出しそうです。
すると、サンタクロースは、近くにあった掃除機に、えいやっとばかりに魔法をかけようとします。
しかし、うんともすんともいいません。
「命のない物の姿を変える、こんな簡単な魔法も使えないとは......。これはどうじゃ?」
魔法をかけられた掃除機は、ブレイクダンスを披露しています。
「どうやら、使える魔法と、使えない魔法があるみたいじゃの。あのときとまったく同じじゃな」
そういってサンタクロースは怪訝な面持ちでプチさんを見やります。
「まさか......おまえ、ノアールとヤッたのか?」
サンタクロースがこんな汚いことばを吐いたのは本当に久しぶりのことでした。
何百年もまえに一度こんなことがあったのです。
そのときのプチさんの相手は森の妖精でした。
「えっ! そんなことはしてないよ......」
そういうプチサンは、目が泳いでいます。
プチさんはサンタクロースの分身です。サンタクロースがその気になればすべてお見通しです。
「そうなんだな?」
「......」
プチさんは無言でうなずくばかりです。
「やまちゃん、すまない。たぶん、何か月か、わしの変身魔法は使えないじゃろう」
「えっ! どうして?」
「すまない、やまちゃん。俺のせいなんだよ」
「プチさん、どういうこと?」
「サンタクロースはいつも純粋なこころとからだでいなければならない」
「それで?」
「ところがだ。サンタクロースの分身であるこの俺がな、おまえとすずがよくやっている夜の営みに、ノアールと一緒にいそしんでしまったんだよ。だから、本体のサンタクロースにまでその影響が及んでしまったというわけだ。もちろん、サンタクロース自身がそんなことをやってしまったら、一瞬でこの世から消滅してしまうけどな」
「それで、サンタクロースが変身魔法を使えなくなったということか......」
「たぶん、ほんの数か月の間だよ、やまちゃん。まえもそうだったからな」
「やっぱり、サンタのじいさんの分身のおまえも、同じ失敗を繰り返す、懲りないやつだったんだな、プチさん。けど、そんな簡単にいうなよ。毎日、俺は家のことをやって、すずたちふたりを支えないといけないんだぞ」
「本当にすまん。やまちゃん」
やまちゃんは途方に暮れました。
今回で二度目です。すずのまえからなにもいわずに姿を消すことになるのは。
「サンタのじいさんよ。せめて俺の代わりに置き手紙を残してくれないか?」
「そんなことはお安いご用じゃ」
サンタクロースは自慢の髭を撫でています。
「それより、やまちゃん。いっそのこと、すずには無理だとしても、おまえの娘のふしぎちゃんには、本当のことを話してみたらどうだ?」
プチさんはたったいま思いついたようにいいました。
「そんなこと話せるわけないだろ。おまえはカラスと人間の間に生まれたんだ、なんて......」
やまちゃんはどうしたらいいのかわかりません。
「そうかな。ふしぎちゃんは意外とすんなり理解してくれると、俺は思うぞ」
「なんで、そんな風に思えるんだ?」
「だって、俺のことも、はしちゃんのことも、すっかり友だちだと思ってくれている。ふしぎちゃんだけに、不思議なことは素直に受け入れる性質じゃないのか? おまけに、はしちゃんとはカラス語で話してるじゃないか?」
「確かにそうだけどさ......それとこれとは話がまったく違うだろ?」
「わしもそうしたほうがいいような気がするわい」
「サンタのじいさんまでなにをいい出すんだよ。そんなことできるわけがないだろ?」
やまちゃんはしばらく考えをめぐらせました。
ふしぎちゃんは、赤ちゃんの頃から、やまちゃん、はしちゃん、プチさんのふたりと一羽が楽しそうに話しているなかで育ちました。
ある日突然、ふしぎちゃんが、人間とカラスの両方のことばを話し始めたのを聞いて、やまちゃんたちは飛び上がるほど驚きました。
「まだ幼いから大丈夫だろう」と高を括っていた、はしちゃんとプチさんが、「そろそろふしぎちゃんの目のまえに出るのはやめようかな」などと相談し始めたときには、もうすでに遅かったのです。
結局、はしちゃんたちは、自分たちの素性をふしぎちゃんにバラさなければならなくなったのです。
やまちゃんが人間になるまえは、カラスだった、という事実を除いてですが。
ふしぎちゃんは、プチさんのことも、サンタクロースの分身だと教えられると、すんなりと理解して、それを受け入れました。
とにかく、ふしぎちゃんは、普通の子供たちより何倍も話し始めるのが早く、物事を理解する能力にも秀でていました。
「どうするのか決めたのか? やまちゃんよ」
「そんな簡単に決められないってば、サンタのじいさんよ」
「とりあえずソリのなかに移動しようか、やまちゃん。そろそろふしぎちゃんが帰ってくるだろ?」
「ああ、そうだな。そうしようか、プチさん」
トナカイに引かれたソリは、やまちゃんの家の上空をゆっくりと大まわりに旋回しています。
ソリのなかで、やまちゃんは羽組をして、どうしたものかと思案しています。
ふしぎちゃんは、家から歩いて十分くらいのところにある小学校から、友だちと一緒に帰ってきます。
ほとんど毎日、はしちゃんは、ふしぎちゃんの邪魔にならないように、すこし離れたところから、ふしぎちゃんを見守りながら家までついてきます。
「パパ、ただいまーっ! パパ、いないの?......」
ふしぎちゃんは部屋に入るとすぐにベランダに行きます。
手すりには、はしちゃんが飛んできてちょこんと留まっていました。
「はしさん、パパはいないみたい」
「そうか、珍しいな。いったいどこへ行ったんだろうな? 買い物かな......」
「とりあえずなかに入って。おとなりさんがいたらちょっとまずいから」
それはそうでしょう。小さな女の子がカアーカアーとカラスと会話をしている様子を見たら、誰だって不審に思うのは当たり前ですから。
おとなりさんは、やまちゃんが動画サイトでも人気のある映像を編集していることを知っています。
たまに、はしちゃんとふしぎちゃんがカラス語で大笑いしている声を漏れ聞いても、そんなに変なことだとは思っていません。
「なかに入って」といわれたはしちゃんは、飛び跳ね歩きで部屋のなかに入ります。
「このとびはね歩きって、ふしぎできない」
「そりゃ無理だろ。だってふしぎは人間だから」
「そうだけど......だってかわいいんだもん。ふしぎもやりたい」
はしちゃんは、ふしぎちゃんがかわいくて可愛くて仕方がありません。
「目に入れても痛くない」そんな想いを抱いています。
「おい、やまちゃん。はしちゃんも部屋にいるぞ」
「はしちゃんがふしぎと一緒なら、ひと安心だな。なにかあったら、はしちゃんがふしぎを守ってくれるから。はしちゃんの人間の声真似は、はっきりいって、ホラーだから。小便漏らしたやつもいるくらいだし」
「ただ、いつまでもっていうわけにもいかないだろ?」
プチさんは、やまちゃんに、『いったいどうするんだよ?』とプレッシャーをかけています。
「はしさん。なにか食べる?」
「えっ! いいのか? やまちゃんに怒られないかな......」
「大丈夫だよ。昨日の晩ご飯は、すごいご馳走だったの。それで、はしさんが来たら出してあげようって、パパがいってたから」
ふしぎちゃんは大きな冷蔵庫を開けると、なかからひとつのタッパーを取り出しました。
「はしさん、温っためようか?」
「いや、冷たいままでいいよ。だって俺、鳥舌だから」
「そうだったね。パパもかなり猫舌だし」
「はい、はしさん。これうなぎっていうんだよ」
「う......うなじ?」
「うなじ、じゃなくて、うなぎ!」
ふしぎちゃんは、濡れたように艶やかなショートボブの黒髪をかきあげると、
「うなじは、ここ」
そういって、はしちゃんに可愛らしいうなじを披露しています。
それを見たはしちゃんは、一瞬、ドキッとしました。
以前、人間の女性ばかりに目がいって、雌のカラスたちに見向きもしなかったやまちゃんを、はしちゃんは『俺たちカラスが人間の女と付き合えるわけがないだろ』と散々小バカにしていました。
けれど、ふしぎちゃんと同じ時間を過ごすようになって、ひとの女の子の柔らかな匂いや、可愛らしい仕草に触れるうちに、『人間っていいな』と、はしちゃんはいまではそう思っています。
「ありがとう、ふしぎ」
タッパーのなかに入っていた、大ぶりのふた切れのうなぎは、あっという間にはしちゃんの胃袋のなかに収まりました。
「おいしかった? はしさん」
「チョーうまかった。こんなの食ったことないよ」
「ふしぎも昨日初めておいしいって思った。まえに一度食べたことがあったらしいんだけど、そのときは、ふしぎ、『まずっ!』ていって、ぺって吐き出したんだって。『たぶん、ふしぎがおさなすぎて口に合わなかったんだろう』ってパパがいってた」
「ふしぎ。悪いんだけど水をもらえるかな。これ、ちょっと味が濃かったから、喉が乾いちゃった」
「あ、ごめん、はしさん」
はしちゃんに背を向けたふしぎちゃんが、水を入れたお皿を手にして再び振り返ると、はしちゃんのとなりに、カラスになったやまちゃんがいました。
プチさんも、はしちゃんのとなりにいます。
ふしぎちゃんは、やまちゃんを見つめています。
ふしぎちゃんの視線に耐えきれなくなったのか、やまちゃんは目を逸らしました。
「パパ?......だよね」
その声に、やまちゃんはビクッと驚いて、ふしぎちゃんを見返します。
「なんで、カラスになってるの? パパ......」
「ふしぎ、俺がパパだとわかるのか?」
「だって、パパの匂いがするし......」
「いや、どこからどう見ても真っ黒カラスだよな」
「そうだけど、パパはパパでしょ。なんで、パパがカラスになってるの?」
ふしぎちゃんはそういって小首を傾げています。
ふしぎちゃんはバイリンガル少女なので、カラスになったやまちゃんとも普通にお話しできます。
「実はな、ふしぎ。パパさ、はしちゃんとふしぎが楽しそうに話してるのが、本当にうやらましくってな。ちょっとプチさんにいってみたんだよ」
「なんていったの? パパ」
「俺も、直接はしちゃんとふしぎの会話に加わりたいって。そしたら、プチさんが『そんなの簡単だよ。カラスになっちゃえばいいんだ』そういうもんだから、プチさんに魔法でカラスに変えてもらったんだよ」
「へーっ、そうなんだ。なんか、いいなパパひとりだけ。ふしぎもカラスになってお空をとんでみたいな」
「ところがだ。カラスの姿の自分を鏡で見てみたら、はしちゃんには悪いけど、こんな見た目だろ。だから、『やっぱり、いいや。プチさん、もとに戻してよ』ってお願いしたら、プチさんなんていったと思う?」
「なんていったの?」
「『あっ! ごめんやまちゃん。俺、すっかり忘れてたんだけど。あとしばらく経たないと、やまちゃんを人間の姿には戻せないや。魔法のエネルギーを蓄えるのに、そうだな、あと三か月くらいはかかるかな』ってそういったんだよ」
「えっ! じゃあ、パパってあと三か月はカラスのまんまってこと」
「そうなんだよ、ふしぎ......」
やまちゃんが必死に考えた嘘がこれでした。
「......それは、わかったけど。プチさんのことも、はしさんのことも、魔法のことも、なにも知らないママには、ふしぎはなんていえばいいの?」
とにかく、ふしぎちゃんは、物事を理解するのがとても早いのです。
「それなんだが、ママには手紙を残していくつもりだ」
「手紙?......それってラブレターっていうやつ?」
「まあ、そんなもんだな......ふしぎ、おまえよくそんなことばを知ってるな」
「それくらい知ってるよ。ふしぎ、ようちえんで年長さんのとき、まさきくんにラブレター書いたことがあったもん」
「ふしぎ、パパはそんなことは聞いてないぞ。誰だ? そのまさきってやつは!」
「あんな子、もうどうでもいいの。誰にでもやさしくする女ったらしだったから。ふしぎ、まさきくんには、もうなんのキョーミもなーいっ!」
「おい、やまちゃん。話が脱線してるぞ」
プチさんがふたりの会話に割って入ります。
「けど、パパ。手紙って......その手で......その羽で書けるの?」
「いや、無理だ。だから、文面は俺が考えて、サンタのじいさんに代筆してもらうつもりだ」
「えっ! パパ、サンタクロースに会いにいくの?」
「いや、いま上で待ってもらってる」
「上って?......」
「この建物の上を飛んでいる、トナカイに引かれたソリのなかだ」
それを聞いたふしぎちゃんは、駆け出してベランダに出ると、空を見上げます。
「パパ、どこにもそんなの見えないけど」
「ああ、それはな、誰にも見られないように、サンタのじいさんが魔法を使っているからだ」
「いま、わしを呼んだかの?」
その声とともに、突然、ふしぎちゃんの目のまえにサンタクロースが現れました。
ふしぎちゃんは目をパチクリさせています。
「サンタのじいさん。俺の娘のふしぎだ」
「ふしぎ、このじいさんが本物のサンタクロースさんだ」
「ほんものの.....サンタクロースさん。すごく太ってるんだね」
『やまちゃんの娘に間違いないな。太ってる、なんて......』
小さな子供の無邪気なひとことは、ときに大人のこころをいたく傷つけることがあります。
サンタクロースはダイエットをしたり、リバウンドを繰り返したりと、なんとかソリに乗れる体重まで落としてはいるものの、そのトレードマークの衣装も相まって、見た目はアメリカ人のプロレスラー並みにかなり巨大です。
「ほんもののサンタクロースさん。はじめまして。あたし、ふしぎです」
「おお、これはこれはご丁寧に。わしが本物のサンタクロースじゃ。ふしぎちゃん、初めまして」
ふしぎちゃんは、丁寧にお辞儀をしています。
この所作は、すずから教えてもらったものです。
「やまちゃん、もう始めてもいいかの?」
サンタクロースが指を鳴らすと、便箋と万年筆が現れました。万年筆は、便箋の上、二センチくらいの空中で静止しています。
ふしぎちゃんはそれを不思議そうに見つめています。
やまちゃんは、またいなくなること、そして、また必ず帰ってくることなどを、ことばにします。
やまちゃんのことばに反応して、万年筆はサラサラときれいな文字を綴っていきます。
「サンタのじいさんの代筆じゃなかったのかよ」
やまちゃんは予想外の光景に苦笑いです。
「わしが書くと、ミミズがのたうちまわったような、誰も読めないものになるからの。それに、こんなプリプリ太った指で、こんなちっこい万年筆なんぞ持てはせんわ」
そういうサンタクロースのぶっとい指を見たふしぎちゃんは、『なんか、ソーセージみたいにプリプリしてる』と失礼なことを思っていました。
「よし、できた。これでどうかの?」
「うん、これならすずもわかってくれると思う。まあ、帰ってきたら、かなり怒られるのは間違いないだろうけどな」
「それで、パパはどこに行くの?」
「パパはサンタのじいさんの家にしばらく居ることになる。こんなカラスの姿で、ここら辺をうろうろもできないしな」
「やまちゃん。ふしぎは俺と一緒ならなんにも心配いらないぜ。なんかあったら、すべて俺に任せろ」
「ありがとう、はしちゃん。よろしく頼むね」
「?......! ちょっと待って、やまちゃん。あのさ、サンタクロースさんのところって、毎日おいしいものが食べ放題なんだよね?」
「たぶん、そうだけど......」
「だったら、俺も一緒に行くよ」
「えっ! ふしぎを見守ってくれないの? はしちゃん......」
「だって......俺もたまにはおいしいものを食べたいよ。サンタクロースさん、俺も一緒に行っていいですか?」
「ああ、わしは構わんよ。はしちゃん」
「ふしぎもいっしょに行きたいっ!」
「それは、ダメだ。ふしぎはここにいないと! だから、悪いんだけど、はしちゃんはふしぎと一緒にここに残ってくれないか? 学校の行き帰りだけでも、ふしぎを見守ってやってくれ!」
「えーっ......やまちゃんそれはないよ!」
はしちゃんは納得できません。
「じゃあ、パパもここにいてよ!」
ふしぎちゃんは口を尖らせています。
「ふしぎ、そんな聞き分けのないことはいわないでくれ。パパを見てみろ。真っ黒なカラスだ」
「うん。だけどハンサムなカラスだよ」
「ありがとう、ふしぎ。けど、あんまりうれしくない。ママがこんな俺の姿を見たらどうなる? ふしぎみたいに、ああそうなの? なんてすんなり受け入れてくれやしないだろう?」
「たぶんママはキャーキャーさけびながら、きっとパパをフライパンかなんかでたたくかも」
「だろう? だって、いまパパは人間のことばが話せないだろ。ふしぎはカラスのことばが話せるからこうしておしゃべりができるけど、ママはそうじゃない。ふしぎがカラスのことばがわかるなんてことをママにバラすわけにはいかないだろ? だから、パパはここにはいられないんだよ。わかってくれ、ふしぎ」
「ふしぎ......ずっとじゃなくていいの。ちょこっとだけサンタクロースさんのお家を見られたら、それだけでいいんだけど......ダメ?」
ふしぎちゃんはすがりつくようにそういって、その愛らしい瞳を潤ませています。
「やまちゃん、わしは構わんよ。ふしぎちゃんをわしの家に招待しよう」
「だって、あと何時間かしたら、すずが帰ってくるし」
やまちゃんは、ふしぎちゃんがいったんこういい出したら、なかなか引き下がらないことをよく知っています。
そのとき、家の固定電話が鳴りました。
「パパ、いる? さっきからケータイに何度かけても出てくれないから。いま、どこにいるの? 本当に悪いんだけど、今日、これから取引先の九州まで急遽行かなくちゃいけなくなったの。明後日までそのまま向こうにいないといけないのよ。それでね......」
「ごめん、ママ。ふしぎとお出かけしていて、ケータイを家に置き忘れていたんだ。たったいま帰ってきたところだよ」
プチさんはサンタクロースが手に持った受話器に向かって話しています。
やまちゃんがテレパシーでプチさんの頭のなかに伝えたことばを、プチさんは、やまちゃんの声色ですずに伝えています。
プチさんはこんなこともできるのです。
「ああ、よかった。ふしぎも一緒なのね?」
「ママ。ふしぎ、ここにいるよ」
「ふしぎ。ママね、今日と明日はお家に帰れないから、パパと一緒に家で大人しくしてるのよ。いい?」
「うん、わかった。ふしぎ、パパといっしょにいい子でいるからね」
「じゃあ、パパ、あとはよろしくね」
「ああ、わかった。ママもお仕事大変だけど、頑張ってな」
ふしぎちゃんは満面の笑みを浮かべています。
「パパ! ふしぎ、ママに『パパといっしょにいい子でいるからね』って約束しちゃった」
ふしぎちゃんは、舌をペロッと出して微笑んでいます。
「ふしぎ......本当にふしぎは賢いなぁ......」
やまちゃんは呆れるやら、感心するやら、なんともいえない表情を浮かべています。
「やまちゃんの負けじゃな」
サンタクロースもふしぎちゃんの賢さに思わず笑みがこぼれます。
「じゃあ、ママが帰ってくるまでだぞ。いいな、ふしぎ」
「うんうん。やくそく、やくそく、ゆびきりげんまん......」
「ふしぎ、それだけはやめてくれ。トラウマが......」
〈続く〉
*
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