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短編小説『花魁、令和の時代を満喫す』前編

「藤次、なつめはどこでありんす?」

「逃げ遅れて、まだ部屋のなかにいるみたいですぜ、花魁。外には出てねえ」

「なつめ! なつめーっ!」

「夏夢花魁、いけねえ。さあ、あっしと一緒にきてくんな」

迫りくる炎のなか、なつめを探して、二階へ続く階段を上がろうとする夏夢花魁の腕を、若い衆頭の藤次はしっかり掴んで離しません。

「誰かーっ!……」

そのとき、二階から助けを呼ぶなつめの声が聞こえました。

「藤次、その手を離しておくんなんし。後生でありんすから」

夏夢は、なつめを助けるために、藤次の手を振り払い、炎が燃え広がる部屋へ向かいます。

夏夢には、国に残してきたふたりの弟、そして、一番下の妹がいました。夏夢は、その妹に面差しがよく似ている禿のなつめをことのほか可愛がっていたのです。

「なつめ、しっかりしなんし!」

部屋に戻った夏夢は、箪笥に脚を挟まれて身動きできずにいるなつめに駆け寄ります。

「夏夢花魁、わっちはもうだめでありんす……花魁だけでも逃げておくんなんし……」

夏夢の力では、重たい箪笥はびくともしません。
そうこうしているうちに、ふたりは燃えさかる炎に囲まれてしまいました。

「どうやら、もうどこにも逃げ場はありんせん。なつめ、生きたまま焼かれるのはきっと苦しいことには違いありんせん。けれど、何十年も身を売り、生きながらえるのも、それはそれでつらいものでありんしょう……」

「わっちは、夏夢花魁と一緒なら、ちっとも怖くはありんせん」

見つめ合うふたりは、そう覚悟を決めるとうなずき合いました。吉原の遊女は良くも悪くも性根が座っています。
夏夢は、なつめのからだを強く抱き寄せ、なつめは、夏夢のその細く白い手を必死に握りしめていました。

やがて、この日吉原を焼き尽くした大火は、ふたりをゆっくりと飲み込んでいきました。



「ここはどこでありんしょう?」

涼しい風に頬を撫でられて、目を覚ました夏夢は辺りを見回します。
先ほどまで燃え盛っていた炎は消え去り、熱いどころか、静かな心地よい空間のなかに夏夢はいました。
腕のなかでは、なつめが寝息を立てています。

「なつめ、なつめ! 起きなんし」

「わっちが隠してた、寅寿のたまご焼きを盗ったのは、はつきどんでありんしょう?」

どうやらなつめは、夏夢の箪笥のなかに入れておいた大好物のたまご焼きの夢を見ているようです。

夏夢は、なつめの頬を二度三度、ペシペシと軽く叩きます。

「うん……」

なつめが目を開けると、優しげな微笑みを湛えた夏夢の切れ長の潤んだ瞳がありました。

「夏夢花魁? ここは地獄でありんすか? ふたりして、やっぱり地獄に落ちたでありんすね……」

「なつめ、どうやらここは地獄ではありんせん。鬼がどこにもおりんせん」

夏夢はそういいながら辺りを見回しています。周りの様子からすると、どこかの部屋のなかのようです。

「なつめ、いい加減に起きなんし」

そういいながら、夏夢はなつめを自分の膝の上から抱き起こします。

「ここはいったいどこでありんすか? 夏夢花魁……」

「さあ、わちきにも皆目見当がつきんせん」

見慣れない光景に、夏夢も、なつめも、おろおろするばかりです。

「えっ! ……あなたたち、いったい誰ですか?」

叫びにも似た女性の大声に、ふたりは振り返ります。

そこには、食べかけのモナカアイスを左手に、右手にはコンビニの袋を下げた、この部屋の住人、小百合が、見慣れないふたりの姿に呆然と立ちすくんでいました。

九月とはいえ、まだまだ暑い日が続いています。部屋のなかはエアコンが効きすぎなくらい、よく冷えていました。

「いったいどこから入ってきたんです?」

「ここはどこでありんしょう?」

汗だくのくたびれた黒いTシャツに、デニムの短パン、ショートカットのピンク色のボサボサ頭といった小百合の姿は、夏夢たちからすれば、地獄の餓鬼のように見えました。

「やはり、ここは地獄でありんすね……」

苦界に身を沈め、夜毎その身を売り続けてきた自分は、ここにこうして地獄に落ちてしまったのだと、夏夢はため息を漏らしています。

「あの、ここはわたしの部屋なんですけど。どこかと間違えてませんか?」

小百合からすると、ひとりはどこからどう見ても、吉原の遊女としか思えません。そして、その傍にいるおかっぱ頭の女の子は、どうやら禿のようです。

大学生の小百合は、日本の歴史のなかでも江戸時代が大好きで、特に吉原遊廓についての造詣が深かったのです。

しかも、その好きが高じて、自ら花魁のコスプレで、吉原遊廓のこと、花魁のことなどを、動画配信サイトで発信していました。
それなりにフォロワーもついていて、人気も上々のチャンネルでした。
だから、ふたりの格好をひと目見てわかったのでした。

そんな小百合ですが、ふたりが本物の花魁と禿とは思いもしません。

「わちきは、吉原遊廓、夢遊楼の夏夢。それにこれは禿のなつめでありんす」

夏夢はなつめを抱き寄せるとそう名乗りました。

「?......本物の花魁と禿、なんですか?」

「本物? 遊女に偽物とかいるのでありんすか?」

「いいえ、今の世には花魁も禿もいませんよ」

ふと、小百合が視線を感じてなつめを見やると、大きく見開かれたなつめの目は、小百合が手にしているモナカアイスに釘付けになっています。

「食べる?」

小百合は食べかけのアイスを半分に割るとなつめに手渡します。
なつめは恐る恐るそれを手にすると、クンクンと鼻先で匂いを確かめます。そして、ひとくち齧りました。

「あっ! 冷とうておいしゅうござりんす、夏夢花魁」

なつめはそういって、夏夢に笑顔を向けました。夏夢は優しい笑顔をなつめに向けながら、ゆっくりお上がりとばかりになつめの頭をポンポンと軽く叩いています。

「本当に、花魁なんですね。信じられないかもしれないけれど、どうやらあなたたちはタイムスリップして、こちらの時代に来たみたいです」

「たいむすりっぷ?……」

「ええ、時間を飛び越えたんだと思います。あなたたちの時代から、この時代へ。今、暦はいつですか? 覚えています?」

「慶応二年でありんす」

「慶応二年......というと、吉原で大火があった年ですよね」

「わちきもなつめも、その炎のなかで死んでしまったものと思ったでありんすが……わちきたちは生きているのでありんすか?」

「そうです、死んでいませんよ。いったいなぜなのかはわかりませんが」

現代っ子の小百合は、漫画やアニメ、それに小説などで、タイムスリップやタイムリープそれに転生という事象に慣れ親しんでいるせいか、実際、その現象を目の当たりにしても、そこまで驚くことはありませんでした。

それに、夏夢が纏っている着物や、髷に差した簪、身につけている小物などをよく見てみると、どう見てもその当時の本物としか思えないほど手の込んだ作りの高級品ばかりでした。

夏夢の出立ちは、小百合が自分でもコスプレしている花魁のものとは比べようもないほどの艶やかさです。

「そうでありんすね……」

夏夢はいまだにこの状況に釈然としない様子ですが、傍のなつめは、モナカアイスをすっかり平らげて、幸せそうな顔でふたりの会話を聞いています。

グーっ!

なつめのお腹が鳴りました。

「なつめ、行儀が悪うござりんすよ」

「ごめんなんし、夏夢花魁……」

なつめは恥ずかしそうに身を縮こめてうつむいています。いつもお腹を空かせているなつめは、お腹が鳴る度に夏夢からたしなめられるのです。

「なつめちゃんはお腹が空いているのね。ちょっと待ってね。こんなものしかないけど、とりあえずこれを食べて」

そういって小百合が手渡したのは、昼食用に買ってきた、たまごサンドイッチでした。

「はい、どうぞ」

包みを開けるのに手間取っていたなつめを見かねた小百合は、袋から中身を取り出すと、ふたつの内のひとつをなつめの手のひらに乗せます。

「たまごの匂いがしんす」

両の手のひらの上で、クンクンと匂いを嗅いでいたなつめは短くつぶやきます。

「そう、これはたまごサンドよ。さあ、なつめちゃん。食べてみて」

その言葉にうながされて、なつめは恐る恐る口に運びます。

「あっ! 本当にたまごの味がしんす。このふわふわした白いものはなんでありんしょう?」

「それはパンっていうのよ」

「ぱん? 初めて食べりんす。不思議な食べものでありんすね。けど、ほっぺが落ちるくらい、寅寿のたまご焼きよりもおいしゅうござりんす」

「なつめちゃん、これもどうぞ」

ソファに座るようにうながされた、夏夢となつめの前の小さなガラステーブルの上には、グラスに注がれた牛乳が置かれました。

「なにか、初めて嗅ぐ匂いでありんす」

なつめはまたしても動物のようにクンクンと匂いを嗅いでいます。宴の料理の残りを掠めて、夏夢から借り受けている箪笥のなかに隠しておいて、質素な翌朝の朝餉のおかずにしていたなつめは、腹を下すことが何度かあってからというもの、執拗に食べ物の匂いを嗅ぐことが習慣化していました。

「夏夢さんもどうぞ」

そんななつめの様子を優しげな眼差しで見つめていた夏夢にも、小百合は残りのたまごサンドイッチをすすめます。

「美味しゅうござりんす。この白いのは、ハンペンのようで、ふわふわでありんす」

夏夢は初めて口にする不思議な食べものに驚きを隠せません。

「なつめちゃん、お口の周り……」

なつめは、サンドイッチと牛乳で、口の周りが大変なことになっています。

「これで、拭いて」

なつめは小百合に手渡されたティッシュペーパーで口の周りを慣れない手つきで拭います。

それにしても不思議な光景だな、と小百合は、この令和の時代に突然タイムスリップしてきた本物の花魁と禿の姿を感慨深く見つめていました。

「わたしは、小百合といいます。夏夢さん」

「さゆり殿……小百合殿でありんすね」

「それで、さっき伺ったところによると、吉原遊廓を襲った大火に包まれて死んだと思ったらここに来ていた、ということでしたよね?」

「そうでありんす。わちきらはすでに死にんしたと思っておりんした」

グーーっ!

そのとき、またなつめのお腹がさっきより一際高く鳴りました。

「なつめ、いい加減にしなんし」

「ごめんなんし、夏夢花魁。けんど、こればっかりはわっちにはどうにもなりんせん。お腹の虫さんが勝手に鳴くんでありんす」

育ち盛りのなつめは、いつもお腹を空かせていました。それもそのはず、禿が食べることができるのは、貧しい女郎屋の賄いだけだったからです。

「カップ麺があったはず……あったあった。ちょっと待っててね、なつめちゃん。お口に合うかどうかわからないけど。夏夢さんも食べますか?」

「わちきはいりんせん。それよりも、ここのことを教えてもらいたいのでありんすが」

なつめは、おいしいものと聞いて、小百合を目で追っています。

しばらくすると、なつめの目の前のテーブルの上に、お湯を注いだカレー味のカップ麺が置かれました。

「なつめちゃん、三分待ってね」

「さんぷん?」

「うん、わたしが食べていいっていったら、この蓋を開けて、このお箸で食べてね」

そういって小百合は、スマホのタイマーをセットします。
そして、グラスに注いだ冷たい麦茶を、カップ麺の横に置きます。

なつめはカップ麺を見つめながら、蓋の隙間から漂ってくるカレーの匂いに鼻をヒクヒクさせています。あまりのいい匂いに、グーっ! とまたなつめのお腹が鳴りました。

「なつめ!」

夏夢はあきれた顔でなつめを見やります。
なつめは申し訳なさそうにうつむいています。

「わちきたちが、たいむすりっぷ、とやらで、この時代に来たのはわかりんした。それで、今はいったいいつでありんすか?」

「ちょっと待ってください。えっーと……慶応二年というと、千八百六十六年だから、今からざっと百六十年ほど前ですね」

歴女の小百合は、この辺りの知識は諳んじることができるほど豊富です。

「つまり、夏夢さんたちは、今、約百六十年後の日本にいるっていうことになります」

小百合がなつめに視線を向けると、なつめは待ちきれないのか、蓋をそっと開けてカップのなかの様子を覗いています。

「なつめちゃん、蓋はまだ開けないでね」

小百合からそういわれて、なつめは開けていた蓋をあわてて閉じます。叱られた子どもみたいに、正座した膝の上に両手をきちんと揃えています。

「百六十年後でありんすね……明日をもしれないわちきたち廓の女にとって、想像もできないような永い刻でありんすね」

夏夢はそんな先のことなど想像したこともありませんでした。
性病や暴力が蔓延する吉原遊廓の女郎たちにとって、死はいつでも誰にでも訪れておかしくない、とても身近なものだったのです。

「それで、小百合殿は、どのようなご身分でありんす?」

「ああ……今は士農工商といった、江戸時代の身分制度はありません」

「身分はありんせん……まことでありんすか?」

夏夢はそう聞かされて驚きを隠せません。

「ええ、そうです。ちなみに、吉原遊廓も今では跡形もありません。もっとも、その跡地では、姿を変えて、現在では似たような商売が栄えていますが……」

「身分がありんせん……」

そのことは夏夢にとっては衝撃的でした。あの時代、身分というものはそれほど絶対的なものだったのです。

それにしても……夏夢さんはとても綺麗な花魁だな。小百合はその姿を惚れ惚れと見つめています。実は、小百合は自分のチャンネルでは、夏夢のような艶やかな姿で配信したかったのです。

けれど、衣装やら、カツラやら、髷に飾る簪や身につける小物などを色々取り揃えはしたものの、自分の理想とは程遠いものでした。大学生の小百合には、高級な品など容易く買えるわけもなく、そのことについてはいつも悔しく思っていました。

「あっ! すっかり忘れていたけど、準備をしないと」

今日は大学が休みの日曜日。小百合にとって週に一度の生配信の日でした。

一万人に満たないフォロワーとはいえ、それでも片手間にやっている大学生の小百合にしては、十分すぎるほどのフォロワーの数でした。他にアルバイトを入れていない小百合にとって、趣味と実益を兼ねた、ここで得られる収入は本当に大事なものです。

「あっ! そうだ」

小百合にいい考えが浮かびました。

ピピピピピッ! 

そのとき、ケータイのタイマーが鳴りました。

「なつめちゃん、もう食べていいわよ」

その声になつめは、蓋を開けると、箸で恐る恐るなかの麺を掬い上げます。

「いい匂い!」

なつめは笑顔で、ソファに座る夏夢を振り返ります。

「なつめちゃん、熱いからね。ふーふーして食べて」

夏夢も漂ってくるカレーの匂いに鼻をヒクつかせています。

すごい絵面です。おかっぱ頭の禿が、真っ赤な着物を着て、おいしそうにカップ麺を食べています。

「あの、夏夢さん。お願いがあるんですけど?」

「はい、なんでありんしょう?」

「今からわたし、花魁の格好をして生配信をするんです。といってもわからないと思いますけれど。とにかく、夏夢さんはわたしのお友だちで、今日は遊びに来てくれた、ということにしてもらえないですか?」

「あちちっ!」

カップ麺をがっついて食べていたなつめが、熱さに耐えきれず思わず声を漏らします。

「それはかまいんせんが、そのなまはいしん、というのは、いったいなんでありんしょう?」

「ここに向かって話しかけたりすればいいだけですから」

小百合からカメラを指差された夏夢は、初めて見るそれをしげしげと見つめています。

「あっつ、あちちっ!」

猫舌のなつめは、カップ麺と格闘中です。吉原に来てからというもの、なつめはこんなに熱い食べものを口にしたことは一度もありませんでした。

「なつめ! 静かにしなんし」

「あい、夏夢花魁」

「じゃあ、わたし、ちょっと着替えてきますから、ここでこのまま待っていてもらっていいですか?」

小百合はそういうと、となりの部屋へ入っていきました。

しばらくして小百合が戻ってくると、なつめは口の周りをカレーだらけにしていました。カップ麺を食べ終わって、幸せそうにちょこんと座っています。

そんななつめに、小百合はそっとティッシュを差し出しました。なつめは今度は器用に口の周りを拭いています。

夏夢はうれしそうになつめをじっと見つめています。夏夢は、故郷に残してきた妹が、こんな風にお腹いっぱい食べものを口にできていることを願わずにはいられませんでした。

「雪乃姐さんにそっくりでありんす」

小百合の花魁姿を目にしたなつめは、嘲笑を含んだ声を上げました。

「およしなさい、なつめ。そんなことをいうのは!」

「でも、そっくりじゃありんせんか?」

雪乃というのは、夏夢が面倒を見ていた新造女郎で、夏夢の目の届かないところで、ことあるごとになつめに意地悪をしていた遊女です。

「夏夢さん、なつめちゃん。そろそろ配信を始めるから、わたしがなにか訊いたら、適当に答えてもらえますか?」

「承知しんした」

「あーい」

夏夢を真ん中にして、両側になつめ、そして小百合太夫がソファに座ります。

「主様、達者でありんしたか? 小百合太夫でありんす」

『誰だ? この見慣れないふたりは?』

さっそく、コメントが寄せられます。

「今日は、わっちのお友だちに来ていただきんした。夏夢花魁と禿のなつめちゃんでありんす」

『スッゲー! 夏夢花魁ってすごく艶やか。まるで、本物の花魁みたいだ』

『おい、この禿。あのおかっぱ頭ってカツラだよな?』

『けど、花魁も、禿も、コスプレのクオリティーが超高すぎだよ。横に座ってる小百合太夫が可哀想なくらいだよな』

「そうでありんす。ふたりの出来が完璧すぎて、わっちの立場がありんせん。けれど、今日はこのふたりがゲストでありんすから、これでようござりんす」

「夏夢花魁、挨拶をお願いいたしんす」

「挨拶って、どちら様にでありんすか?」

「ここを見ながら挨拶をしておくんなんし」

夏夢は少し離れたところから、カメラのレンズを恐る恐る見つめています。

「ダメ、なつめちゃん。そんなに顔を近づけちゃ」

なつめが割り込んでカメラに顔を近づけすぎたので、小百合はあわててなつめを引き離します。

「わちきは夏夢でありんす。よろしゅうお願いいたしんす」

「わっちは、なつめでありんす」

ふたりはそういって小首を傾げて挨拶をしています。

『夏夢花魁には恋人はいるんですか?』

「夏夢花魁、恋人はいますかって質問が来ています。えっーと、間夫はいますか?」

「間夫でありんすか? ……わちきには本気で惚れた男はおりんせん。何人もの男たちと契りを交わし、何度も通ってもらうのが、吉原遊廓の女郎の生業でありんすから」

『つまり、何股もかけてるってこと?』

『まあ、これだけ可愛かったら、許されることだろうな。俺でも許すし』

『付き合ってください! 夏夢花魁』

何百ものコメントがひっきりなしに押し寄せます。

「まあ、そんなに本気でガツガツ来ないでください。このチャンネルは、ゆるーく吉原遊廓のいろんなことをお届けするチャンネルですから」

いつの間にか小百合は、ありんす言葉を話すことをすっかり忘れてしまっています。

『それで、夏夢花魁はいくつのときから、廓で生きているんですか?』

悪ノリのフォロワーからの質問です。

「夏夢花魁は、いくつの頃から吉原遊廓にいるのですか? という質問です」

「わちきは、八つのときに、吉原に売られてきんしたから、もう二十年ほどになりんしょうか……」

『すごい、設定も完璧に作り込まれてる』

『もしかして、本物? そう思って見ると、もう本物の花魁にしか見えなくなってきた』

『現代の日本人にこんな艶めかしい色気を放つ女なんてそうはいないって』

「小百合殿、さっきからここの右側に、次から次に出てくる文字はなんでありんしょう?」

「これは、夏夢花魁に質問がある人が書いたものです」

「そうでありんすか? 奇怪なものでありんすな」

夏夢は不思議そうな面持ちで、パソコンの画面に見入っていました。



「今日は本当にありがとうございました。夏夢花魁、それになつめちゃん」

「わちきは楽しゅうござりんした」

「わっちはお腹が空きんした」

「ふたりとも、しばらくはここにいてもらってもいいですから」

「ありがとうござりんす、小百合殿」

出ていけといわれても、ふたりには行き先の当てなどありません。

「夏夢花魁、その小百合殿はやめてもらっていいですか? できれば、さゆりんって呼んでもらえれば嬉しいんですけど……」

「さゆりん、でありんすか……」

「友だちからは、そう呼ばれているので」

「わかりんした、さゆりん。わっち、お腹が空きんした」

なつめは若いだけに順応性があります。

「なつめちゃんはよく食べるわね。わかったわ、江戸時代では食べられなかったものをこしらえてあげる。こう見えてもわたし、料理は得意なんだ」

小百合がそういいながら冷蔵庫の中身を確認すると、大したものは入っていませんでした。

「わたしちょっと買い物に行ってくるから、ふたりともここでわたしが帰ってくるまで、外に出ないで待っていてください」

「承知いたしんした、さゆりん」

小百合は買い物に出かけました。

「なつめ、わちきたちは狐に化かされているのでありんしょうか?」

「さゆりんは、どちらかというとお狸さんに近いと思うでありんす。あの、少しぽっこりと出たお腹は、大福帳を抱えたお狸さんそのものでありんす」

「なつめ、そんなことをいうものじゃありんせん。化かされているにしても、わちきたちはこの時代のことは何も知りんせん。小百合殿……さゆりんに頼るしかありんせん」

「ごめんなんし、夏夢花魁。けど、わっちはどちらかというと、お狐さんより、お狸さんの方が好きでありんす。見た感じが可愛いじゃありんせんか?」

なつめは、どうでもいいことをまだいっています。



「ただいま! よかった。ふたりともまだいた。帰ってきて、いなくなってたらどうしようって思ってたから」

小百合はスーパーでいろいろな食材を調達してきました。お惣菜のとんかつ、高級たまごや野菜などです。

「食事の前に、夏夢さんも、なつめちゃんも楽な格好にお着替えしませんか?」

「わちきはこれで全然かまいんせん」

「わっちもこのままでようござりんす」

「そうだろうとは思いますけど、一緒にいるわたしがなんだか落ち着かなくて、お願いですから着替えてもらえませんか?」

「小百合殿……さゆりんがそこまでいわれるのなら、着替えんす。なつめもようござりんすね?」

「あい、わかりんした」

「よかった。じゃあ、今、お着替えを用意しますから」

小百合はそういうと、夏夢となつめに適当な洋服を見繕って、ふたりの前に置きました。

「洋服の着方がおわかりにならないと思いますので、わたしがお教えします」

夏夢には、ヨレヨレのTシャツに、小百合が長年愛用しているジャージのズボン。なつめには、これまたヨレヨレのTシャツに、ダボダボの短パンをベルトで限界まで絞めてあげました。

夏夢は華奢なからだの上に、大きな髷が乗っています。なんとなくアンバランスです。
なんといっても、そのおかっぱ頭のなつめは、小百合が何度見ても吹き出してしまうほどおかしくてしょうがありません。見た目はロングボブとそう変わりませんが、なぜか笑いを誘います。

なつめは涼しい風が出てくるエアコンのすぐ真下で、上を見上げながら不思議そうに首を捻っています。

「今から夕食の支度をしますので、これでも観ながらもうちょっと待っていてください」

そういって、小百合はテレビを点けます。

「こ、これは? 摩訶不思議な……」

「後ろには誰もおりんせん。夏夢花魁」

テレビの後ろに回って確認したなつめは、驚いたように目をパチクリさせています。

「そうか、ふたりには信じられないものばかりですよね。それは、テレビといって、その箱のなかにひとが入っているわけではないんです」

「まことに奇怪でありんすね」

「これでチャンネルを変えられるので、気に入った番組を観ていてください」

小百合から手渡されたテレビのリモコンを手にしたなつめは、面白がって、次々とチャンネルを変えています。

「なつめ、いい加減にしなんし。わちきは目が回っておかしゅうなりそうでありんす」

「あーい」

ちょうど料理番組をやっていました。おいしいたまご焼きの作り方をやっています。

「あっ! わっちの大好きなたまご焼きでありんす」

「たまご焼きとはちょっと違うけど、夕食にはかつ丼を作ってあげるから」

すぐそばのキッチンから小百合が声をかけます。

「かつどん? 食べものでありんすか? わっちと同じ禿のかつどんではのうて?」

なつめと同じように、夏夢が面倒を見ている同い年のかつのことでした。

「なにそれ? もちろん食べものよ。すごくおいしいんだから」

しばらくして、かつ丼ができ上がりました。

「あち、あちちっ!」

「なつめ……」

猫舌なのに、懲りずに熱いものにすぐさまがっつくなつめに、夏夢は苦笑いです。

「美味しゅうござりんすね。この噛むとなかから汁が溢れ出す、これはなんでありんしょう?」

食べ物も、飲み物も、熱いものがまったく平気な夏夢は、たまごで綴じられたとんかつをひとくち口にしました。

「ああ、それはとんかつです」

「とんかつ? 魚でありんすか?」

「いいえ、それは豚肉です。確か江戸時代は獣肉食は禁忌だったよね。えーっと、いわゆる四つ足ですよ。猪に近いものです」

「えっ! 四つ足でありんすか……」

獣の肉と聞いて、パタリと箸を止めた夏夢を尻目に、なつめは箸が止まりません。

「なつめ、それは四つ足でありんすよ。食べたらいけんせん」

「夏夢花魁、わっちは猪なら食べたことがありんす。なんにも食べるものがありんせんときはなんでも食べんした。たまに食べる猪はおいしゅうござりんした」

「けれど、四つ足でありんすよ」

「けんど、これは、猪より柔らがぐで臭ぐもねぇ。それにこのだまごも信じらんねえほどうんめぇ」

猪に近いと教えられた豚肉を口にしたなつめは、生まれ故郷の記憶が甦ったのでしょう。自分でも気づかないうちにお国訛りが出ていました。

「なつめ、言葉使いには気をつけなんし」

「ごめんなんし、夏夢花魁」

「無理にとはいいませんが、どうぞ夏夢さんも召し上がってください。今ではみんなが、四つ足を……牛や馬なども普通に食べています。なので、誰に憚ることもありません」

「牛や馬もでありんすか……」

再び丼を手にした夏夢は、食べ進めるうちにそのおいしさに魅了されて、もう箸が止まりません。そして、最後のひとくちを残して夏夢は箸を置きました。

「わちきたちは本当に生きているのでありんしょうか? もしかしたら、ここは極楽ではありんせんか?」

「夏夢さん、心配しないでください。ふたりとも間違いなく、この令和の時代に生きています」

「れいわ? 今の暦はれいわというのでありんすか?」

「そうです。万葉集の一文から採られたもので、人々が美しく心を寄せ合うなかで、文化が生まれ育つという意味だそうです」

「……人々が美しゅう心を寄せ合う、今の世はそんな世でありんすか?」

「確かに物質的には、驚くほど豊かな世の中になったと思います。けれど、精神的には、夏夢さんのいた時代とそんなに変わってはいないと思いますよ」

「でも、身分の違いはないのでありんしょう?」

「ええ、表立ってはありません。けれど、お金持ちとそうでない人はいろんな意味で線引きされています。ある意味それは、江戸時代の身分制度となんら変わるところはないと思います」

「そうでありんすか……」

「ですが、心のありようは、人それぞれです。善人もいれば悪人もいる。歩み寄ろうとする人もいれば、拒絶する人もいる。いつの世もそうなのでしょう」

「だから、願いを込めてつけられた暦でありんすね」

「そういうことだと、わたしは思います」

「それにしても、こんなに美味しい食べものを気安く口にできる世の中がきたのでありんすね……」

夏夢は、丼のなかのかつ丼の残りに、感慨深げに視線を落としています。夏夢は、このひとくちを食べ終えたら、この夢から覚めるような気がしていました。

「あふぅ……」

なつめはふたりの会話についていけず、お腹いっぱいになったせいなのか、あくびを噛み殺しています。

「おいしかった、なつめちゃん?」

「すごくおいしゅうござりんした。頬っぺたが落ちるかと思いんした」

「そうそう、おはぎも買ってきたの。はい、どうぞ」

小百合はつぶあんときなこの二種類のおはぎが乗ったお皿をふたりの前に置きました。

「おはぎ! 昔、何度か食べたことがありんす!」

なつめは目を輝かせています。いつの世も甘いものは別腹です。

「わちきもこれは好物でありんす。この時代でもよく口にするのでありんすか?」

「ええ、わたしは特によく食べます。わたしの大好物だから。なんでも、代々うちの家系は、かつ丼とおはぎが大好物なんだそうです。変わってますよね」

「わっち、眠くなりんした」

あっという間におはぎを食べ終えたなつめは、夏夢にもたれかかっています。今にも眠りに落ちそうです。

「あっ! もうこんな時間」

小百合がケータイを見ると、時刻は夜の九時を回っていました。

「なつめはいつも眠そうにしているでありんす、さゆりん」

「なつめちゃん、寝る前にお風呂に入ってね。十分くらいで準備ができるからね。よかったら夏夢さんも一緒に入ってあげてください」

「ありがとうござりんす、さゆりん」


〈後編へ続く〉


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鯱寿典
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