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短編小説『遼之介は..。 雛人形と結婚と』
理沙は泣いていた。
後輩のことを想ってのうれし涙なのか、それとも先を越されたことへの悔しさなのか、鼻水をすすりながら、涙をぽろぽろとこぼしている。
理沙の職場の後輩、あの五反田ちゃんが、デカいの総合商社のシノダと結婚するというのだ。
「それはうれしい話だとは思うけどね。後輩ふたりが結婚って、なんか、ね……」
こんなときになんて言葉をかければいいのかなんて、俺にはまったくわからなかった。
ソファに座る理沙のとなりで、理沙を見上げながら、ただじっとしていることしかできない。
「だって、五反田ちゃんたちって、付き合い始めてまだ半年も経っていないんだよ。わたしなんて、遼ちゃんと出逢って、もう何年経った? それに同棲を始めていったいもう何年目……」
俺を見下ろす理沙の目からは、大粒の涙がぼとぼとと俺のからだに容赦なく降り注いでくる。
この涙の大雨を避けることなんて今の俺にはできない。理沙の気持ちを思えば、これくらいは俺への罰としてじっと受け止めるしかないだろう。
俺にいえることは、「すまない、ごめんなさい、申し訳ない」くらいだ。
「来世ではきっと幸せにしますから」なんていってみても、理沙が喜ぶはずもない。
もっとも、理沙は生まれ変わったら、きっと俺なんかとは二度と関わりたくないはずだ。
いまだに小説家になることを夢見ている俺には、理沙がきっと欲しがっているに違いない、「結婚しよう。幸せにするから」という、そのセリフをいい出すことができなかった。
「でもね、わたし、少なくとも幸せだなって感じる瞬間って、たしかにあるんだよ。将来に関しては不安だらけだけどね……」
そりゃそうだ。
いつもはゴキ、たまに人間、というそんな俺との未来なんて想像すらできないのはしょうがない。
来年、理沙は魔の二十九歳を迎える。
自分の人生をふりかえり、そして、これからどう生きていくのかを真剣に考えざるを得ない、女性にとってはほんとに大切な一年間だ。
「遼ちゃんと出逢って、好きになって、そして結ばれて、ほんとに天にも昇る気持ちだったの。わたしは今でも遼ちゃんの才能を信じて疑わない。けどね、生きていくためには、先立つものはお金でしょ? せめて、遼ちゃんが人間ならまだしも……」
ほんとにすまないと思う。
生活のすべてを理沙に頼りっきりのこの俺は、いつ理沙からゴキ遼ハウスごとポイされてもしょうがない。
むしろ、いまだにそうされていないのが不思議に思えるくらいだ。
いくら俺がゴキで、食べるものにもそんなにお金がかからないとはいえ、この都会で女性がひとりで生活していくのはほんとに大変だ。
「理沙……なんか、ごめんな」
「ごめんね、遼ちゃん。今日だけは愚痴らせてくんない? ほんとに申し訳ないんだけどさ」
「いいよ、好きなだけ愚痴ってくれ。好きなだけ泣いてくれよ」
俺が理沙の涙でぐしょ濡れになっているのにやっと気づいた理沙は、ティッシュを数枚取り出すと、ふわりと俺を包んだ。
そして、やさしく拭き始めた。
「びしょびしょだね、遼ちゃん。ごめんね……」
「理沙の涙だ。純粋な水より清らかに決まってるだろ。なんか、俺の心もからだも洗われるようだよ」
ほんとは少し塩からい、からだはべとつく感じがする。しかし、ここはこういっておこう。
理沙はしばらくの間、ティッシュで涙を拭いながら、そうやって泣き続けた。
「あーっ、スッキリした。いいたいこといったら、お腹が空いちゃった。遼ちゃんは?」
たまにこうやってガス抜きをする時間も理沙には必要だ。
「そうだな、俺も少し空いたかな。俺はあるものでいいよ、理沙」
「そう? じゃあ、わたしは出前を頼もうかな」
やっと泣き止んだ理沙は、笑顔を見せると、スマホでお持ち帰りのメニューを物色し始めた。
窓の外はすっかり暗くなっている。理沙は何時間も泣き続けていたんだな。
「なんでも好きなものを頼めよ、俺もそれを少しもらうからさ」
「なに、それ? なんか、遼ちゃんが奢ってくれるみたいじゃない」
「理沙、俺のお小遣いから出していいからさ」
「えっ! ほんと? じゃあ、ちょっといいやつ頼んでいい?」
「好きなものを好きなだけ頼めよ」
もちろん、基本、生活費は理沙の懐から出ている。俺の自由になる金は、ずいぶん前におふくろからもらったお小遣いの残りくらいのものだ。
理沙は律儀にも、今はまったく稼ぎのない俺が人間の姿に戻ったときのために、その分を使わずにとっておいてくれている。
*
「なにもこんなに注文することはないだろ? いくらなんでも頼みすぎだって」
「だって、食べてみたかったんだもん」
理沙はここぞとばかりに豪華な出前をとった。有名なフレンチレストランのセットメニューだ。しかも、ノンアルコールの赤ワインにチーズの盛り合わせも追加で頼んでいる。
おい、今から披露宴でも始まるのかよ。いったいいくらするんだよ! と思わずいいそうになった。しかし、これは俺がいい出したことだ。今日は我慢しよう。
理沙は、さっき泣いたカラスがなんとやら、満面の笑みで、テーブルに並べた豪華ディナーを堪能している。
「あー、おいしい」
俺の前には、それぞれの料理の少しずつが彩りよく盛り付けられていた。
野菜が少し多めのような気がする。
俺は人間だったころから野菜があまり好きじゃない。理沙はそれをよく知っているはずだ。
小皿にはご丁寧に赤ワインも注がれていた。俺はビールのほうが好きなんだけどな。
「そういえば、結婚式の招待状を、遼ちゃんの分も手渡されたけど、遼ちゃんはどうする?」
理沙はそういって、俺に招待状を開いて見せてくれた。式場は、チャペルも併設している、理沙が働いているホテルだ。
「どうするって、俺が出席できるわけないだろ?」
「だよねーっ、無理だよねーっ」
なんのための確認なんだよ。ゴキの俺が結婚式なんかに出られるわけがないだろ。
「悪いけど、理沙。欠席のほうに印をつけて、ふたりに返しておいてくれないか?」
「しょうがないね、こればっかりは」
「ところで、理沙は出席するのか?」
「うん、もちろん」
「けど、職場のホテルで結婚式を挙げるんじゃ、全員は参加できないんだろ?」
普通の会社で働いているみたいに、招待されたひとみんなが参列できるわけがない。ふたりの結婚式のためにホテルを貸切り、なんてことはできないからな。
「そりゃ、無理に決まってるよ。各部署から何名かずつ出席することになってるの。五反田ちゃんは働き出して、まだ一年も経っていないけど、シノダくんはもう今年で五年目だから、職場でもそれ相応の付き合いはあるからね」
「けど、なにも職場のホテルで式を挙げなくてもよさそうなもんだけどな」
同僚たちにサービスを受けるほうも、するほうも、なんか余計な気を使って、そんなに楽しめそうな気がしない。
「うちは地元のホテルだから、料金なんかをかなり融通してくれるの」
「そうなんだな」
まあ、結婚式を挙げるとなれば、かなりの出費は覚悟しないといけない。
なにしろ、人生においての、ある意味、一世一代の晴れ舞台だからな。
「他のお客さまの手前、あからさまな割引とかはできないみたいだけど、いろいろな面で優遇されていて、かなり安く挙げることができるのよ」
「それで、結婚したあとは、ふたりとも同じ職場で働き続けるわけか?」
夫婦が同じ職場で働くなんて、なんか息が詰まりそうだ。
「そうだね。五反田ちゃんが産休に入るまでは、そういうことになるのかな」
「産休って、五反田ちゃんっておめでたなのか?」
「うん、そうだよ」
「いったい今、何か月なんだよ?」
真剣に交際してますって、この前、ふたりはいってたけど、子どもができたなんて早いな。
「えーっと、……もうちょっとで安定期に入るっていってたから、三か月くらいかな」
「ということは、仕込みは十一月ごろか……なんか、無計画すぎないか?」
ざっと逆算してみる。
「やめてよ。遼ちゃんったら、お酒を仕込んだみたいないい方をして、ふたりに失礼でしょ!」
「ごめん、つい……」
「でも、十一月ってことは……五反田ちゃんが前のカレシと別れたのが、十月に入ってすぐだったよね。そう考えると、シノダくんはだらしない人っていわれてもしょうがないよね。たしかに……」
「だろ! いくら五反田ちゃんのことが好きでもさ、付き合い始めてすぐに妊娠させたんだろ。やっぱり計画性がなさすぎるよな」
「でも、気をつけていても、子どもができることってあるしね」
「けど、そこはちゃんとしないと、五反田ちゃんが可哀想じゃないか……」
「そうかもしれないけど、今のご時世、子どもでもできなければ、結婚しようなんて、なかなか踏ん切れないわよ」
「たしかに、そうかもしれないけどな」
今の世の中で子どもを育てていくことを想像するだけで、俺には絶対に無理だな、と当たり前のようにすぐに結論が出る。
もし、俺が人間であってもだ。
「まあ、とにかく……ふたりの前途に祝福あれ!」
理沙はそういって赤ワインの入ったグラスを掲げた。
「ふたりに祝福あれ!」
俺も理沙の真似をして、赤ワインが入った小皿に右前足を浸し、そのまま高く掲げる。
グラスを持てないからしょうがない。
*
「そういえば、遼ちゃん。この前、遼ちゃんのお父さんに会ったよ」
「どこでだよ?」
「人気のパンケーキ屋さんに、正月に神社で会ったあの女の子と腕を組んで並んでたのよ」
「あのパパ活娘か?」
虹色のダウンジャケットを着た、あのみあという女の子だ。
「そう。すごく楽しそうだったよ」
「あれは絶対、パパ活だろ?」
鼻の下を伸ばしまくった親父の姿が目に浮かんだ。あのときの親父の猫なで声を思い出したら、なんかぞわぞわする。
「遼ちゃん、いい加減にしなよ。そんないい方、お父さんに失礼じゃない? 実際はどうなのかわかんないでしょ」
「だってさ、あんな若い子が親父と真剣に交際してるなんてこと、真に受けるほうがおかしいだろ? どう見ても年の差、三十歳以上だぞ。普通に考えたらあり得ないだろ? 親父は芸能人なんかじゃないんだからさ」
「けど、ふたりはどう見てもラブラブだったよ」
「あれじゃ、好意的に見ても、仲のいい父娘にしか見えないだろ?」
まあ、ふたりを見るひと誰しもが、パパ活だとしか思わないだろうけどな。
「まあ、見た目はそうだけどね。けど、もし、遼ちゃんのお父さんがあの子と結婚なんてことになったら、遼ちゃん、あの子のことをお母さんって呼ばなきゃいけないんだよ」
「そんなことあるかい! もし、そうなっても、俺は絶対に彼女をそうは呼ばないからな」
「けど、結婚式に呼ばれたらどうする? こればっかりは出ないわけにもいかないじゃない?」
「うーん……」
そんなことはいま考えてみてもしょうがない。もしそうなったら、そのときにタイミングよく人間の姿に戻っていることを祈るしかない。
*
「今年はお雛さまは飾らないのか、理沙?」
理沙は毎年必ず二月に入るとひな祭りに向けて、お内裏さまにお雛さまのふたりだけを飾る習慣があった。
理沙はかなり高級な七段飾りの雛人形のうちの雄雛と雌雛だけを持っていた。三人官女と五人囃子、それに嫁入り道具などの他の飾りは、邪魔になるから実家に置いてあるそうだ。
なんでも幼いころからこれを眺めるのが大好きだという。
「今年はいいよ。なんか、わたしの思い込みなんだろうけど、あれをいつまでも飾っているとお嫁に行き遅れるような気がするのよ」
理沙は目を三角にして、なぜか俺をにらんでいる。
「それって、しまい忘れると、だろ?」
「遼ちゃんも知っての通り、わたしそこはちゃんとしてるけどね。気分の問題だよ」
「あれって、無病息災を祈ってやるもんだろ? 理沙ってあんまり病気なんてしないじゃないか。たぶんあれで穢れを払ってるんじゃないかと俺は思うけど」
「うん、その点では効いていると思うよ。お母さんのいいつけ通り、二月の第一週に出して、三月六日に片付けてきたけどさ、将来、幸せな家庭を築ける気がまったくしないんだよね。はぁ……」
理沙がため息をつきたくなる気持ちもわかる。こんな俺とじゃそんな未来を思い描くことなんてできないだろうからな。
「あっ! いいこと思いついた。やっぱり、今年も飾ろうかな」
理沙はそういうと、しまってあったお雛さまを引っ張り出してきて、本棚の一番上のいつもの定位置に置いた。
しかし、となりにはお内裏さまはいない。
「遼ちゃん、たまにでいいから、お内裏さまの代わりに、寝ててもいいからさ、ここにいてくれない?」
理沙はまた思いつきで変なことをいい出した。理沙はいったんこうと決めたらあとには引かないタイプだから、ここは大人しく従うことにする。
「それはいいけど、お雛さまはこのままでいいのか? 理沙が大切にしているものなんだろ? こんなゴキの俺とカップルなんて、なんか可哀想じゃないか?」
「んーっ、……!」
理沙はまた何かいいことを思いついたみたいなうれしそうな顔で、いそいそとなにやらクローゼットのなかを探し始めた。
「これこれっ、わたしの宝物っ!」
そういって理沙が取り出してきたのは、テレビで放映されて、一大社会化現象を巻き起こした、美少女戦士のアニメの主人公のフィギュアだった。
背中まではおろか、膝下まである金色のツインテールの髪を靡かせた、あのキャラクターが変身したときのフィギュアだ。
よくこんなものを大切にとってあるもんだ。
一目でかなりの高級品だということがわかる。たぶん、何万円もするやつに違いない。
「これで、か、ん、ぺ、き。遼ちゃん、ちゃんとしないと、月が変わったらお仕事よ! コンビニで……」
なんじゃそら? 理沙は相変わらず下手なダジャレが大好きだ。いや、もはやダジャレにすらなっていない。
こんなにうれしそうにしてるんだ。たまには協力してやるか。
羽をばたつかせ、本棚の一番上に開けてくれたスペースに着地する。
「なんか、可愛いな」
となりの美少女は、肌の質感といい、キラッキラッした雰囲気といい、とてもじゃないが、お雛さまというのには無理がある。
しかし、理沙は俺と並んだその美少女のフィギュアを眺めながら、うんうん、と首を縦に軽く振りながら、ご満悦のようだ。
「いいね、遼ちゃん。素敵なお内裏さまにお雛さまだよ!」
ほんとかよ。体長十センチ程度のサツマゴキブリの俺と全長五十センチはゆうに超える美少女戦士が並んでるんだ。
どう見ても、俺が退治されているようにしか見えないだろうがよ!
「これで、なんか御利益がありそうな気がするよ」
御利益?……。神社にお参りでもしているのかよ! なんかいろいろとっ散らかっているような気もするが、まあ、理沙が満足しているのならこれでいいだろう。
「じゃあ、遼ちゃん。来月の六日まで頑張ってね」
「ああ、わかったよ。頑張りマウス」
「なにそれ、変なダジャレいわないでよ」
どっちがだよ! そう思いながら、作り笑いを浮かべる。自分では笑みを浮かべているつもりだが、うまく笑えているのかどうかはわからない。
なにしろ俺はゴキだからな。
*
最近、となりのかわい子ちゃんが気になってしょうがない。
自分がゴキになっているせいからか、フィギュアの彼女が、もしかしたら、ほんとは人間なのかもしれない、とそんなとんでもない妄想をし始めていたのだ。
「あのさ、君って、今日も可愛いね。『いやーん、恥ずかしいっ!』そんなところも可愛いねっ!」
などと、気がついたら、ひとり遊びを何時間もやっているのだ。
まったくいい年をした大人がなにをやっているんだか、はぁ……情けない。
「遼ちゃん、ただいま!」
「お帰り、理沙。お仕事お疲れさん」
「最近、なんか遼ちゃん急にやさしくなったよね」
「そうか? 俺って基本、やさしいんだけどな」
「いや、絶対なんか変わったよ。なんていうか……浮気している旦那さんが、後ろめたさを隠すために急に嫁さんにやさしくなったみたいな、そんな感じがするんだけど」
まあ、いわれてみれば、精神的にはそうかもしれない。話しかけても答えてはくれないフィギュアだけれど、それでも、理沙が帰ってくるまでひとりきりというのは、今まで気づかなかったが、やっぱり寂しいものなんだろう。
となりにいつも誰かいてくれるというのは、なんか心がほっとする。最近、ずっととなりのこの娘に依存しているような気がする。
*
「遼ちゃん、たまにはスマホの充電やってよ。電池が切れてるじゃない」
仕事から帰ってきた理沙は、テレビの横に置いてある俺のスマホを手に取ると、そういってあきれたような顔をした。
「だって、俺に電話がかかってくることなんてほとんどないし、かかってきても電話も取れないだろ? それにこのゴキの俺がどうやって充電器につなげるんだよ?」
親父から電話がかかってきたときに一度試してみたことがあったが、俺のこの細っそい足では、スマホのタッチパネルはまったく反応しなかった。
「まあ、それはそうだけど。それより遼ちゃん、お父さんから何件か着信が入ってるよ。留守電メッセージも入ってるみたい」
「すまない、理沙。メッセージを再生してくれないか?」
「うん、わかった」
『遼之介、すまないが、今度の休みの日に理沙さんとふたりで家まで来てくれないか? ちょっと相談したいことがあるんだ。寿司でもすき焼きでも、なんでも好きなものをご馳走するから、お前たちの都合のいい日を教えてくれないか」
「なんだろ、相談したいことって?」
気のせいか、親父の声は、明るく弾んでいるように聞こえた。
「遼ちゃん、どうする?」
「どうするったって、そんなにタイミングよく人間に戻れるわけないだろ?」
最近では、ひとの姿に戻るときは、その前日にはそんな予感がするようになっていた。
しかし、それも確実ではない。
「そうだよね。けど、すき焼きでも寿司でもだって……」
たしかに、それは魅力的だ。しかし、そう都合よくゴキからひとへは戻れない。
「行けるとしても、当日にしかわかんないだろ?」
「だったら、遼ちゃんがひとの姿に戻った日に行くようにしとけばいいんじゃない。朝早くにはわかるんだし」
「そりゃ、そうだけど。理沙はその日に当日休みを取らなきゃいけないんだぞ。それでもいいのか? 理沙は、無遅刻、無欠勤でもう何年も通してきてるんだろ?」
理沙は仕事に対して超がつくほど、ほんとに真面目だ。
「だって、お寿司もすき焼きも鰻重も食べたいんだもん」
「おい、いつのまに鰻が増えてるんだよ? 親父は『寿司でもすき焼きでも』としかいってなかっただろ」
鰻重は、俺も理沙も大好物だ。食べたときにはその夜がたのしみになる。
「いいじゃん、一品くらい増えたって。お願いだから遼ちゃん、お父さんに鰻重も食べたいって頼んでみてよ。お父さんってそんなセコいひとじゃないでしょ。この前だって、お母さんから渡されたけど、実際はお父さんから五万円もお小遣いもらったんじゃない」
そうだった。この前、親父がおふくろと再婚するっていってたときに、超ゴキゲンだった親父が気前よく俺たちにくれたんだった。
「まあ、親父はセコいといわれるのだけは昔から嫌っていたからな。ただ、気になるのは相談したいことってやつだな」
俺の見栄っ張りなところは、間違いなく親父の血だ。
「そうだね、なんだろう? まさか結婚とか……」
「神社で会った、あの派手な女の子のことか?」
「うん、十分にあり得る話じゃない?」
みあという、あの娘の甘ったるい声が耳によみがえった。それに、あのド派手な格好も目に浮かぶ。
「もし万が一、そんな話だったとしても、親父が望むことなら、俺が反対することでもないさ。親父はまだ若いんだし。遺産がどうのとか俺にはもともとどうでもいい話だし」
「でも、遼ちゃんって、この前そんな結婚の話が出たときには、『俺は絶対にあの子のことを母さんとは呼ばないからな』って、すごく怒ってたじゃない」
「あれは、親父と彼女が結婚するということに反対していたわけじゃないさ。ただ単に、俺は彼女を母さんとは呼ばないっていっただけだろ。だって、どう見ても俺より年下だろ」
「そうなんだ。別に反対じゃないんだね」
理沙は俺のそのことばが意外だったのか、感心したようにつぶやいた。
「親父の人生は親父のもんだ。俺がとやかくいうことじゃないよ。おふくろは自由奔放にやっているんだ。親父にだって好きなように生きて欲しいよ」
俺も自由に生きているしな。いつもはゴキ、たまに人間のこの俺だ。
「わたし、ちょっと遼ちゃんのことを見直しちゃった。これってやっぱり、遼ちゃんがゴキになったことで、遼ちゃんの人生観が変わったせいなのかな?」
「まあ、人生観というか、ゴキ生観というか、そんなものが変わったのはほんとだろうな。こんなに何度もゴキになったり、またもとの人間に戻ったりしていれば、いつ死ぬかなんて誰にもわかりっこないだろ。今日が最後の日になるかもしれないじゃないか」
ついこの前も、危うく死ぬところだった。
というか、あの絶妙なタイミングで目を覚ましていなければ、きっと今ごろは殺されていたかもしれない。
「そうなんだ……だからなんだね。前日にどんなに大喧嘩しても、朝、わたしが仕事に行くときは、『行ってらっしゃい、気をつけてな』って、必ず明るい声でいうようになったのは」
「そうだな。お互いに、いつなにがあるのかなんてわからないからな。それに、声だけじゃなくて、思いっきりの笑顔も見せてるんだけどな」
「だって、遼ちゃんの顔ってどこからどう見てもゴキじゃん。そんな笑顔なんてわかんないよ。なんか触覚だけはうれしそうにピクピク激しく動いてるけどね」
触覚がうれしそうなのはわかるんだな。
まあ、たしかに、自分で鏡を見ても厳しい顔にしか見えないからな。
俺はゴキだから、それはしょうがない。
*
「へえー、地下アイドルなんだ、みあさんは」
「ええ、全然売れてないけど」
親父には、前に話した会社勤めは辞めて、また俺はコンビニでバイトしていると嘘をついた。
ただ、最近、バイト仲間のふたりがからだの調子が悪くって、代わりにシフトに入っているから、行ける日は当日にならないとわからないけどいいか? と事前に断っておいた。
そして、ひとの姿に戻った今朝、親父に電話をかけて約束を取り付けた。
もちろん、理沙もそれに合わせて休みを取ることになっていた。けれど、ちょうどタイミングよく理沙が休みの日だったので、理沙は欠勤することもなく、昼過ぎには、親父の家にこうしてふたりで訪れていた。
親父のカノジョのみあさんは、このまえ会ったときは十代後半に見えたけど、実際は二十五歳だった。
彼女は、地下アイドルとして活動している、となんら隠すことなく堂々と自己紹介した。
意外と年がいっていたことに少し俺は驚いたが、それでも親父と三十歳くらいの年の差がある。
俺より三歳ほど年上だった。
「理沙さん、どうぞご遠慮なく召し上がってください」
テーブルには、特上の握り寿司、鰻重が並べられていた。
それらに加えて、見るからに高そうな極上国産黒毛和牛のすき焼き用のロース肉が、まるで薔薇の花のように白い大皿に盛り付けられて、どーんと置かれていた。
これだけ並ぶと、量もかなり多く、さすがに豪華だ。
「どうぞ、召し上がってください、理沙さん」
親父にすすめられるままに理沙は、「それでは遠慮なくいただきます」と軽く頭を下げると、さっそく料理に箸を伸ばした。
理沙は満面の笑みを浮かべ、まず最初に鰻重を口に運ぶ。
「おいしいですぅ……」
理沙の目尻には涙が光っている。
そういえば、この前、この家で母さんと会った帰りに、理沙とふたりで食べたとき以来、久しぶりに食べる鰻重だ。
理沙もほんとにうれしいんだろう。
親父の彼女のみあさんは少食らしく、すき焼きとご飯だけで十分だという。
見た目の派手さとはまったく違い、すき焼きを手際よく仕上げると、俺と理沙、そして最後に親父へと、それぞれ取り分けて手渡してくれた。
その時々にアイドル然とした笑顔を振り撒くことも忘れていない。
近くでよく見ると、たしかに目尻にすこだけシワが浮き出ている。十代の女の子にはこの小皺はまだないだろう。
「アイドルっていろいろ大変でしょ? 変なオヤジとか、なんていうの……キモオタっていうの、それとかストーカーまがいの行為をするひとたちも多いんでしょ?」
親父に視線を向けながら冗談半分にいう。
「そうだね。たしかに、なかにはそういうひとたちもいるけど、みんなあたしを応援してくれる大切なファンだから、ほんとにありがたいの。感謝しかないわ」
さすが、アイドル。いつ、どんなときでも百点満点の受け応えができる。すげーな。
「ところで、父さんとはどこで知り合ったの?」
「それは……ある日、あたしが街でスカウトにしつこくいい寄られているところに、純ちゃんが割って入ってくれて追い払ってくれたのよ。あたしのお父さんのふりをして」
「みあちゃんがあのスカウトマンに手を焼いているようだったから、余計なことかなとは思ったんだけど、つい助け舟を出したんだよ」
そのときのことを思い出したんだろう。
みあさんは「あのときはほんとにありがとう」とそういって、親父に頭を下げた。
たしかに、父親だといわれればそのスカウトマンも納得して引き下がっただろう。
「それで、そのあと、地下ライブまで少し時間があったから、あたしのほうから純ちゃんをお茶に誘ったの、お礼も兼ねて」
「あのときは本当にうれしかったよ、みあちゃん」
「ほんとは男のひととふたりきりでお茶なんてしたらダメなんだけど、お父さんってことで、まあ、いいかっ! て思って」
「それで、付き合い始めたっていうことなの? みあさん」
俺は自分が食べることよりも、ふたりのことが聞きたくてしょうがなかった。
となりの理沙は、恍惚とした表情で鰻重に舌鼓を打っている。
「うん、そうなの。純ちゃんはそのあとに何回かあたしたちのライブに来てくれたんだけど、あたしのほうがツラくなっちゃって」
「なにがツラくなったの、みあさん」
親父は恥ずかしそうにうつむいている。
借りてきた猫かっていうくらいに大人しくみあさんのことばに耳を傾けている。
「毎回、地下ライブのあとには、握手したり、サインをしたり、チェキを撮ったりするんだけど、たまにダメだっていってあるのに、抱きついてきたり、なかにはキスをしようとするひとなんかもいるのよ」
「まあ、想像ではわかるけど……」
「それでね。そんな姿を純ちゃんに見られたくないって思っちゃう自分にある日とつぜん気がついて。あたし、純ちゃんのことを好きになっちゃったんだとそのときに初めてわかったの」
俺たちが真剣に話し込んでいるのを一向に気にすることもなく、鰻重を平らげた理沙は、今度は寿司にターゲットを絞った。
「おいしいですぅ……」
特上寿司は、そういって、満面の笑みを炸裂させている理沙の口のなかに、次から次へと吸い込まれていく。
「それで、あたしのほうから純ちゃんに、『もうライブには来ないで』ってお願いしたの」
「それって、父さんを本気で好きになったってこと、みあさん?」
「そう。あたしも最初はなんでこんなに年上のひとをって思ったけど、好きになるのにそんなのは関係ないよね」
「まあ、それはそうだろうね。恋愛には年齢なんて関係ないし、ましてや、種も関係ないよね」
理沙は、いつもはゴキ、たまに人間のこの俺を見捨てずに愛してくれているからな。
「しゅっ、てなんだ? 遼之介」
「……いや、なんでもないよ、父さん。それで、父さんの話ってなに?」
やべーっ、変なことをいってしまった。
「実はな、みあちゃんと今すぐ結婚するとかそういう話じゃないんだ。彼女はアイドルをまだもう少しの間、続けていきたいっていっているし、俺もそれを応援したいって思ってる」
「結婚の話じゃないんだね。うん、それで」
よかったよ。親父の年齢を考えれば、こんなに若い娘と結婚するなんてことになったら、さすがに俺も、心の底からおめでとうと祝福できる気がしない。
「彼女のご両親は早くに亡くなっていて、故郷にはお祖母さんしかいないそうだ。アイドルっていったって、収入はそんなに多くはない。今、ひとり暮らしの彼女は、たまに誰かにつけられているようなときもあるんだそうだ」
「そうなんだな。まあ、みあさんくらい可愛かったら、そんなことをする奴がいてもおかしくはないだろうけど」
「それで、みあちゃんにここに住んでもらおうと思うんだ。そうすれば、防犯上の心配もなくなるだろうし、経済的にも助かるだろうからな。遼之介にはこのことを了承して欲しくて、今日、ここに来てもらったんだ」
「それは、父さんの好きにしたらいいよ。俺がとやかくいうことじゃないし」
「遼之介さん、ありがとう」
みあさんはそういうと、軽く身を乗り出した。
そして、彼女は両手で俺の両手を上と下からやさしく包み込んだ。
やわらかくて温かい。おまけになんかいい匂いがする。
アイドル業が身に染みついているんだろう。考えるより先にその行動が先に出ているようだった。
そういえば、選挙期間中に街立ちをしていた立候補者からも同じようにされたことがあった。
けれど、そのときは、相手がおっさんだったこともあって、こんなにうれしくは感じなかったな、なんてどうでもいいことを思い出していた。
俺は次の瞬間、親父の殺気を感じて、あわててみあさんの手を振り払った。
「おいしいですぅ……」
となりに座る理沙は、そういって、今はすき焼きに夢中だ。
さっきから理沙はみんなの話に参加もせず、口をついて出ることばはこればっかりだった。
それからしばらくして、ひととおり食べ終えた理沙は、やっと満足したんだろう、みあさんにアイドル業のことについていろいろと訊き始めた。
みあさんも、その一つひとつに丁寧に答えていく。そのことばの端々にも嫌味なところが一切ない。さすが、アイドルとして生きていこうとしている人間は違うものなんだな、と俺は深く感心していた。
「それで、お父さんとみあさんは恋人同士なんですよね……」
「それは、そうだろ、理沙。当たり前のことを訊くんじゃないよ」
俺には理沙がいわんとするところがわかった。つまり、理沙が訊きたいのは、親父とみあさんはもう肉体関係があるのかってことだ。
それは訊くだけ野暮ってもんだ
「遼之介、理沙さん。誤解のないようにいっておくけど、俺はみあちゃんとは男と女の関係は一切ない」
その親父のことばに驚いて、俺はみあさんに顔を向けた。
「純ちゃんは今はあたしをそんな風には見られないっていうの」
「そうなんだな、父さん」
「みあちゃんにそう思ってもらえることは本当にうれしいし、俺もみあちゃんが大好きだ。けどな、みあちゃんはアイドルだ。まだしばらくはアイドルでいたいそうなんだ。だから、恋人はつくれないだろ?」
「けど、この前さ、神社でふたりに会ったとき、父さんはみあさんのことをカノジョだって、いま付き合っているっていってたよな」
いくらあんまり売れていない地下アイドルだからといっても、あんな派手な格好で、神社なんていう人目に触れるところで、腕を組むなんてことをしちゃダメだろ。
だれが、どこで、見てるかわからない。
「あのとき俺は年甲斐もなく舞い上がっていたんだよ。だって、こんな可愛いみあちゃんと初詣だなんて、うれしすぎてな」
「まあ、たしかに、父さんが自慢したかったのもわかるよ」
「けど、みあちゃんの話を聴いて、いっしょに住むことを決めてからは、少し冷静になって考えてみたんだよ。それで、みあちゃんがアイドルを辞めるまでは、恋人同士がやるようなことは一切しないってな」
「けど、だったらそもそも男といっしょに住むのはまずいんじゃないか?」
なんか、いってることがめちゃくちゃだな。そりゃ、女の子が困っているときに助けたい気持ちになるのは、よくわかるけどな。
「それは、大丈夫。純ちゃんはあたしのお父さんってことにするから。あたしの名字も純ちゃんと同じだし、それで疑われることもないと思う」
みあさんが、話に割って入った。
理沙は黙って俺たちの会話に耳を傾けているようだったが、その目は虚だ。
きっと、お腹いっぱいになって急に眠気が襲ってきたんだろう。
「事務所のほうとか、それで納得してくれるの?」
今までひとり暮らしをしていたのに、急に父親といっしょに住むっていうのもなんか無理がある。
「それも、大丈夫。だって、今の事務所に入ったのは去年だし。そのときは、緊急連絡先にはおばあちゃんの名前を書いたから。だから、今度は事務所に、『アイドル活動に大反対だった父と喧嘩して家を出たんです。けれど、その父がやっと理解してくれて、今度またいっしょに住むことになりました』って伝えるつもりなの」
「なるほど……名字が同じなら、親子っていっても、疑われることもないだろうな」
まあ、よくある名前だけれど、苗字が同じっていうのは、なんか運命的なものも感じる。
「あたしもそう長くはこのお仕事を続けるつもりはないの。でも、一度でいいから、なにかほんとにやり切ったって思えるくらいの大きなお仕事をやれたら、そのときには満足して辞められそうな気がするの」
たしかに、自分の青春を捧げたアイドル活動で、なにか思い出になるようなもののひとつくらいは成し遂げたい、とそう思うのはよくわかる。
「そういうことだから、みあちゃんがアイドルを辞めるまでは、そういう関係にはならないようにしているんだよ、遼之介」
「そうなんだ。父さんは純粋にみあさんを応援したいんだな。なにしろ、親父は純一郎だもんな。一途に真っ直ぐひとを思いやれる人間だもんな」
*
「理沙、今日はお腹いっぱいになったか?」
「もう、お腹ぱんぱん。遼ちゃん、気づいてた? わたし、途中からすごく眠くなっちゃって」
「ああ、気づいてたよ。だって、理沙の目は半分くらい閉じてたからな」
「なんか、ごめん。三人が真剣に話していたのに、わたしだけうわの空で」
「いいって。理沙が満足してくれたのなら、そっちのほうが俺はうれしいよ」
鰻重やら、なんやかんやとご馳走をお腹いっぱい食べて、エネルギーを充分チャージできたせいなのか、眠気が吹き飛んだ理沙の目は、今は爛々と輝いている。
「俺、なんか親父のこと見直しちゃったよ。ただのロリコン親父だと思っていたのが申し訳ないくらいだ」
「そうだよね。あんなに若くて可愛いみあちゃんに指一本触れていないなんて、信じられないよね」
「ある意味、すごいよな」
「誰かさんとは大違い」
「俺と比べてだよな、理沙」
おっしゃる通り、俺はエッチ大好き人間ですよ。
「だって、遼ちゃんって、ゴキのときもわたしのからだをしつこく触ろうとするじゃない。くすぐったいから嫌だって何度もいってるのに。隙を見せたらいつもそうでしょ」
「それは、理沙が魅力的すぎるからだよ」
「あら、わたしはみあちゃんほど魅力的じゃないと思うけど」
「だって、俺にとって理沙はアイドルじゃない、恋人なんだから。そりゃ手も出すし、足も、頭も出しまくるだろ?」
「なにそれ? まるで、でんでん虫みたいじゃない。遼ちゃんはゴキなんだから」
「今日はまだ人間さまだよーん。槍を出すよーん」
俺はそういって腰を振って見せる。
「遼ちゃん、バカじゃない? こんな大通りで。なんなら、今日はやめとく? お父さんを見習って」
「嫌だ、絶対ヤる」
人間に戻れたときは、必ずエッチはしたい。これだけは譲れない。
「冗談よ。久しぶりだからわたしも期待してるんだから。お腹いっぱい食べたし、食後の運動がてらにね」
理沙はそういって俺の手を握ろうとして、ぱっとその手を引っ込めた。
「みあちゃんの感触がなくなるけどいい?」
理沙はそういっていたずらっぽく笑っている。
そういえば、さっきみあさんに両手でやさしく包まれたんだった。
理沙は食べることに夢中で、そんなことなんて気にもしていないと思っていたけど、そこはしっかり見逃さなかったんだな。
自分の大好きなアイドルからされたんだったら、しばらくは手も洗わない、なんていうものなんだろうけど。
「なにいってるんだよ。理沙のやわらかな温もりのほうがいいに決まってるだろ」
理沙とふたり、つないだ手をぶらぶらさせながら我が家へ向かう帰り道。ふと、親父とみあさんの結婚式のシーンが頭に浮かんだ。
きれいに着飾った理沙は、ふたりの晴れやかな姿をうらやましそうに指をくわえて見つめている。となりに座るゴキの俺は、スーツ姿でそんな理沙を見上げている。
そんな光景だった。
理沙といつか結婚できるのだろうか?
いつもはゴキ、たまに人間のこの俺の受難は、まだまだ続きそうだ。
*
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