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短編小説『遼之介は..。 月が綺麗ですね』
熱を持った俺の黒いからだが、いつにも増して、黒光りしている気がする。六月から続く九月のこの暑さに、もうダウン寸前の俺は、エアコンの下へ素早く移動する。
仕事から帰ってきた理沙が電源を入れてくれたのだ。
「お帰り、理沙」
「ただいま、遼ちゃん。あーっ、暑かった。死にそう」
外はかなり暑かったらしく、理沙は部屋に入るなりすぐに上着のシャツを脱いでブラジャーだけになった。さすがにスカートまでは脱がない。
「理沙、お願いだからエアコンはつけっぱなしにしておいてくれないか?」
「やだよ、電気代だってバカになんないんだから」
理沙はタオルで顔と脇と二の腕の汗を拭っている。
「そりゃそうだけど、暑くてしょうがないんだよ」
「そんなにいうんだったら、自分でつければいいのに!」
「バカいうなよ。俺のこの細っそい足でリモコンのボタンなんか押せるわけがないだろう?」
「だって、エアコンつけっぱなしで出かけたら、寒くなったときにどうすんのよ? 遼ちゃん、自分で調節できないでしょ?」
理沙は部屋着用のヨレヨレのロングシャツに袖を通しながら、そういって俺を睨んでいる。
「そこは、自動運転があるじゃないか?」
「前にもいったけどさ、このエアコン、買ってから十年以上経ってるでしょ。だから、自動運転がうまく働かないのよ。一度試してみたら、わたしが帰ってきたときに部屋のなかが凍えるような寒さになっていたじゃない? そのとき、遼ちゃんわたしになんていったっけ? 『俺を殺す気かっ!』て怒鳴ったじゃない。忘れたの?」
「そうだったっけ?」
たしかに、そういったことがあった。しかし、ここはしらばっくれるに限る。
「ゴキになって脳みそも小さくなったから、そんなこともすぐ忘れちゃうんじゃない?」
「そんな、ひどいこというなよ。とにかく、俺は暑いのは苦手なんだよ。理沙も知ってるだろ?」
脳みそは間違いなく小さくなっているとは思うが、「俺を殺す気かっ!」といったことはしっかり覚えている。
「そうだったね。遊園地の幽霊屋敷に行ったあとで、初めて遼ちゃんとエッチしたときも、エアコン効いているはずなのに、遼ちゃんの汗がわたしのからだの上にボトボト落ちてきて、えっ! ってかなり引いたもんね」
「けど、あのとき理沙ってすごく感じてなかったっけ?」
「……そうだったっけ? ちょっとびっくりしたんだよ。尋常じゃない汗の量だったから、何か変な病気でも持ってるのかな? なんて思ったんだよ」
「それはすまなかったな」
変な病気は持っていないが、昔から汗だけは異常にかくんだよ、俺は。
「……けど、それも含めて今ではいい思い出だよ、遼ちゃん」
理沙はそのときのことを懐かしむように優しく微笑んでいる。
「ありがとう、理沙。そういってくれて……アハハハハハッ!」
理沙の顔やからだの上に大量の汗をポタポタと溢しながら、一所懸命に腰を振っている自分の姿を想像して思わず笑ってしまった。
「なに? その笑いは!」
理沙は、目を三角にして、いつもの仁王立ちで俺を見下ろしながら、眉をしかめて呆れたような声を上げている。
「ごめん、理沙。ちょっと想像しちゃって」
「なに? どんな想像よ!」
今日の理沙は外が暑かったせいか、珍しく短めのスカートを履いている。純白の綿のパンティの眩いばかりのその白が、理沙を下から見上げる俺の目に飛び込んできた。
「そ、それはそうと、理沙。このまえ話してたキャンプの件はどうなった?」
こういうときは、話を逸らすに限る。
「ああ、職場の仲間たち数人と、親睦を兼ねて行くかもっていっていた、あれね」
「うん、それ」
「今度の水曜日から一泊で行くことになったよ」
「そうなんだ。もちろん女子だけだよな?」
一泊するんだ。俺という恋人がいる理沙が、まさか男たちといっしょに行くわけはないだろう。
「もちろん、男子もいっしょだよ」
理沙はなんでそんなことを訊くの? みたいな顔をしている。
「えっ! そんなこと会社的には許してくれるのか?」
「なによ、それ! プライベートの過ごし方まで会社が口出しするわけないでしょ。別に不倫の危険性があるわけじゃないし。参加するのはみんな独身だし。ちょっとしたロマンスか何かは芽生えるかもしれないけど……」
「えっ! そうなのか?」
「もしかして遼ちゃんって、わたしが浮気するかもって心配しているの?」
ここんとこ、俺がゴキの姿でいる期間がかなり長く続いている。それで、最近、理沙とはすっかりご無沙汰だし、あっちのほうが嫌いじゃない理沙も、かなり溜まっていることだろうし、そんなシチュエーションになったらわかんないぞ、という気はする。
「……そ、そんなことじゃないけど」
「ははん……さてはやきもち焼いてるんだね」
「そ、そんなことあるかい!」
図星だった。けれど、やきもちを焼くような小さな男だと、理沙からは思われたくない。
「まあ、わかんないけどね。キャンプの雰囲気に、わたしの好きな年下の男の子とそんな気持ちになるかもしれないし」
そういって、理沙は、両腕をからだの前で誰かを抱くようにしてまわすと、首を少し傾けてキスをする仕草をした。
あーっ、また始まったよ。理沙の俺イジメが。なにかというと、理沙は俺をからかってへこませるのが好きだ。
こいつは間違いなくドSなのだ。
「そんなに心配だったら一緒に来る?」
「えっ! 一緒に行ってもいいの? それって危険じゃない?」
理沙と一緒に行けるものなら行きたい。しかし、ひとの言葉を話しているゴキの姿の俺を誰かに見られたりしたら取り返しのつかないことになる。
そんな危険はできることなら冒したくはない。
「キャンプは山の中だし、暦の上ではもう秋だからかなり冷えるとは思うの。だから、上着はなにか羽織らないといけないでしょ。そのポケットのなかに入ればいいよ。わたしも、ここんとこ遼ちゃんとお出かけしていないから、たまにはふたりで星空を見上げる、なんていうのも悪くないかなって思って……どう?」
なんやかんやいっても、理沙は俺にぞっこんなのだ。だったら、思い切って一緒に行きたい。
「うん、理沙がいいなら俺も行きたい」
「じゃあ、決まりね。今度の水曜日だから、しっかり準備しておいてね」
理沙はホテル勤務だから、土日はなかなか休みが取れない。しかし、その分どこに行っても安あがりにすませることができる。
「準備って、こんなからだの俺になにを準備することがあるんだよ?」
「……だね、特になにもないよね。あっ! 出かける前はしっかりトイレに行っておくこと! わかった?」
「わかったよ。そこはちゃんとします」
理沙は俺が理沙のお気に入りのジャケットのポケットのなかでおしっこをしたことをいまだに覚えている。
*
「遼ちゃん、行くよ。準備できた?」
「理沙、ちょっと待って! いまトイレをすませるから」
また、ポケットの中でお漏らしでもしようものなら、どんなお仕置きが待っているのかわからない。あの、デコピンの連発だけは絶対に嫌だ。
「早くしてよ! 待ち合わせに遅れるのは嫌だからね」
「わかったって。そんなに急かさないでくれよ、出るもんも出なくなるだろ!」
ゴキ遼ハウスの横に置いてある、猫専用のトイレシートの上で用を足す。
俺は猫じゃないっつーのっ!
「準備できた? じゃあ、行こっか遼ちゃん」
ブランド物の赤いリュックを背負って準備万端の理沙は、俺を抱き上げるとリュックのポケットのなかへポンっと乱暴に投げ入れた。
「ああ、レッツラゴー!」
「遼ちゃん、そんなこというひとなんて今は誰もいないから。いったい遼ちゃんっていま何歳なのよ?」
*
「みんな、ごめん。ちょっと遅れちゃった」
「大丈夫だよ、理沙さん。五反田さんもまだ来ていないから。それに電車の出発時刻までまだ二十分ほどあるし」
「シノダくん。わたし、キャンプなんて久しぶり。すっごく楽しみ」
理沙は楽しそうにはしゃぎ声を上げている。ん? キャンプなんて久しぶり……俺と一緒に行ったことはないよな、理沙。
「すみません、遅れちゃって」
「じゃあ、五反田ちゃんも来たことだし、行きましょうか。シノダくん、ヨウくん」
どうやらこの四人のなかでは、理沙は会社で一番の古株で、なおかつ一番の年上みたいだ。
俺は理沙が背負ったリュックの外ポケットのなかで身を潜めていた。声だけ聞いても、男か女かくらいしかわからない。まさか、自己紹介をしてもらうわけにもいかないし。
それよりも早く涼しいところへ移動してほしいもんだ。風の通らないこのなかは暑くてたまらない。
「どうしたの五反田ちゃん。ちょっと元気がないみたいだけど」
みんなで電車に乗り込んだらしく、リュックのポケットのなかにも、わずかに開いた隙間から涼しい風が舞い込んできた。
こっそり外を覗くと、理沙に気遣われている、女の子の悲しそうな横顔が目に入った。
「か、可愛い……」
思わず声を上げてしまった。
理沙は俺を振り返り、すごい目で睨んでいる。おーっ怖っ! こりゃ間違いなく、あとからお説教確定だな。
四人は電車を降りると駅前からバスに乗り換えた。荷物があるから各自バラバラに座席に腰掛ける。
「着いたよ、みんな。ここで降りるから」
しばらくして、やけにバカデカい男の声がバスのなかに響いた。シノダだ。
これまで観察したところによると、理沙をはじめ、五反田とかいう女の子、グループを率いる声のデカいシノダとかいう男、それにあまり会話に参加しない、どうやら中国人らしい、ヨウという男の四人が、今回のキャンプのメンバーみたいだ。あっ! 俺もいるから、五人、いやもとい、四人と一匹だ。
そんなことはどうでもいい。
「ここだよ」
キャンプ場に着いたみたいだ。
四人は受付でチェックインを済ませて、予約してあったコテージへ移動する。
どうやら、ここはシノダの親戚がやっているらしく、理沙が、「この金額でほんとうにいいんですか?」と心配の声を上げるほどの信じられない格安料金だった。
理沙は気を利かせてみんなの一番後ろからついていく。そうするとこで、俺がリュックのポケットから顔を出して辺りを眺めることができるようにとの配慮だった。
森の中のキャンプ場はひんやりとした空気が漂い、樹々の匂いがこころを穏やかにしてくれる。
あーっ、気持ちいい!
目的のコテージに着いたようだ。
素早く頭を引っ込める。誰かに見つかりでもしたら大変なことになるからな。
「すごいね、ここ。こんなところだとは想像もしなかったわ。すごく素敵、シノダくん」
理沙は声を弾ませて、コテージの設備に感心している。
「でしょ! 前に地元の友だち何人かと泊まったときにもすごく楽しめたから」
相変わらずこいつは声がデカい。もうひとりの男は、いるのかいないのかわからないほど、声がほとんど聞こえない。
「五反田ちゃん、気分はどう?」
「ありがとう、理沙さん。もう大丈夫です」
理沙は俺以外の人たちには優しすぎるほど優しい。外面がいいとでもいうのだろうか、俺にも、もう少しだけ優しくしてもらいたいもんだ。
*
こうやって理沙とふたりで星空を眺めるなんて初めてのことだ。
空には中秋の名月が光り輝いている。
みんなと食事を終えた理沙は、俺をポケットに忍ばせて、コテージを出てすぐの芝生に座った。
誰もいないのを念入りに確かめると、理沙は俺を芝生の上にそっと置いた。
「遼ちゃん、なんかロマンチックだね」
「そうだな、理沙。『月が綺麗ですね』」
「『そうだね』、遼ちゃん」
「そこは、『死んでもいいわ』だろう? 理沙……」
「そんなこと、今のゴキの遼ちゃんにいえるわけないでしょ!」
「たしかに……なんかごめん、理沙」
こんなことをいい出した俺がバカだった。
「隣にいるのが、ゴキの遼ちゃんじゃなきゃ、もっと素敵なんだろうけどね。こんなんじゃ、手も握れないし」
「ほんとにごめん、理沙」
「それより、遼ちゃん。お腹空いてない? なにも食べてないでしょ。これ食べる?」
そういって差し出してくれた理沙の手のひらには、さっきまで理沙がみんなと食べていた、包み紙に包まれた数枚のポテトチップスがあった。
「気にしてくれてありがとよ、理沙。けど、ポテチ食べると喉が渇くから水を飲みたくなるし、そうすると、おしっこも止まんなくなるから、遠慮しとくよ」
「あっ、ジョーロ状態の遼ちゃん! 懐かしいな。アハハハッ」
なんやかんやいっても、理沙は俺のことを好きでいてくれる。
「今度、遼ちゃんが人間に戻ったときには、またここにふたりっきりで来ようよ」
「うん、そうだな。絶対に来ような」
星空の下で、キス。そして、コテージのなかで、理沙の財布的にはテントかな? で、ふたりっきりの甘い時間を過ごすんだ。
そんなことを夢想していると、理沙の左側から女性の声がした。
五反田ちゃんだ。
「理沙さん、大丈夫ですか? 何かひとりごとをいっているのが聞こえたんですけど……誰かとご一緒だったんですか?」
「あっ! ……いや、な、なんでもないよ。ごめんね、男の子たちのなかにひとりにしちゃって」
素早く理沙が差し出した手のひらのなかに隠れる。理沙は右ポケットに俺を滑り込ませた。
「いいえ。ヨウさんに簡単な中国語を教わっていました。最近、シノダさんが中国語の勉強を始めたそうで、文法の話になったところで、私、理沙さんのところに行ってきますっていって、こうやって外に出てきたんです」
「それにしても、ヨウくんって、すごいよね。香港のひとだから、もちろん中国語を話せるのは当然だけど、日本語もほとんど完璧に近いし、英語もすごく上手でしょ?」
「同じベルスタッフとして尊敬しています。私なんて、英語は学校でそれなりにひと通り勉強したつもりだったんですけど。でも、実際にお客様と触れ合ってみると、ほとんど聞き取れなかったり、お客様から何度も聞き返されたりすると、正直へこみます」
「それはしょうがないわよ。ひとくちに英語っていったって、アメリカ英語でさえ、東西南北で微妙に違うし、南部なんか特にね。それに、アメリカ英語、イギリス英語、英語圏でもいい回しや、単語そのものの違いもかなりあるし。オーストラリアの英語なんかは、口をあまり開けないで早口で話すし、ちょっとした訛りがあるから、かなりわかりずらいしね。グッダイマイト、とかね」
「あっ! 知ってます、それ。クロコダイルが出てくる映画で、主人公がいってました」
「わたし、いまだにインド人が話す英語はいまいち聞き取りずらいのよね。独特な訛りがあるし、すごく早口で話すからだと思うけど」
「けど、理沙さんはすごいと思います。チェックインやチェックアウトのときに、外国のお客さまと笑顔でお話しされているのを見るたびに、すごいなー、と思って、ダメダメな自分と比べるたびに、いつもため息が出ます。さすが、フロントサブリーダーの理沙さんです」
理沙がフロントサブリーダー? 知らなかった。こんな話は聞いたことがなかったが、理沙はホテルではかなりできる女なんだな。
「エへへっ! そんなに褒められるとなんかくすぐったいよ。フロントサブリーダーっていったって、その上に、フロントリーダーがいて、またその上に、フロントグループリーダーがいるでしょ。それに、ベルスタッフ、ドアマン、ナイトフロントそれぞれに、同じようにリーダーだらけだし、私たちのホテルって、いったい何人リーダーってつく人がいるのよって感じだよね。だから、私のポジションなんてたいしたことないわよ、五反田ちゃん」
理沙は、まるで『聞いた? 遼ちゃん』というみたいに、ポケットの上からポンポンと軽く俺を叩いた。
「理沙さん。私、ほんとうに理沙さんのことを尊敬しています」
「ありがとう、五反田ちゃん。……ところで、話は変わるけどさ。ここに着く前まですごく元気がなかったじゃない。なにかあったの? よかったら、話を聞くけど……」
「……実は、私のカレから今日のキャンプには行くなよって、ちょうど玄関を出たところで、電話越しに怒鳴られて。それで、別れる、別れない、っていう話になっちゃって……」
「そうなんだ、それで遅れたんだね。それなら、断ってもよかったのに」
「そうなんですけど。ついこの前、私、彼が私の知らない女の人とふたりで手をつないで、映画館から出てきたところにばったり出会したことがあって。あとから彼は『彼女はただの友だちだよ!』っていい張って、そのことをいくら問い詰めても、しらばっくれたことがあったんです。それでその仕返しにいいかな、と思って……。それに理沙さんとはゆっくりお話ししたかったし、同じベルスタッフのシノダさん、ヨウさんはいつも遅番なので、早番の私とはほとんどすれ違いじゃないですか。それでいろいろと教えてもらういい機会かな、と思ったんです」
「そうなんだ。でも、いるよね、彼女を束縛したがる男って……」
理沙はそういって、ポケットの上から俺をキュッと軽く握った。
「じゃあ、帰ったら大変なんじゃない?」
「そうですね……」
「ちょっと気が重いね」
「……あまり話したくはないんですけど、彼って今は仕事をしていないんです」
「そうなの? 五反田ちゃんは、たしか、今は二十一歳だよね? それで彼はいくつなの?」
「十九歳です」
「年下なんだね……」
なんか、俺みたいなやつだな。もっとも、俺と理沙はもっと歳は離れてるけどな。
「ええ。彼って小説家になるのが夢で、仕事をしている暇があったら、その時間を小説を書くことに充てたいからっていって、この前、コンビニのバイトも辞めたんです」
「そうなんだ……」
なんか、どこかで聞いた話だな。
「今は、小説投稿サイトに投稿しているんです」
「わたしもやってるんだけど。どこのサイトなの?」
「えっ! そうなんですか? 理沙さんもなんですね」
「けど、職場のみんなには内緒にしてね」
驚いたことに、俺と理沙が知り合ったのと同じ小説投稿サイトだった。
「わたしも小説を書いてるからよくわかるけど、小説家で食べていけるひとなんて、ほんの一握りなのよ。才能もあって、それ以上に運が強くないと、小説だけ書いて暮らしていけないと思うわ」
「はい、そうですよね……」
俺がいい聞かせられているような気がする。
「けど、そんな夢を捨て切れないひとをわたしは知ってるわ」
「それって、もしかして理沙さん?」
「いいえ、わたしじゃないわ。わたしの知り合いにそんなひとがいるのよ」
はい、はい。それは俺だよ。こんなゴキになってまでも、そんな夢を捨て切れず、いつかは……なんて思っているのは!
「五反田ちゃん。その彼のことを悪くいうつもりじゃないけど、彼とのことは一度よく考えてみたほうがいいわよ」
「考えるって?……」
「その知り合いの彼も、もう何年も定職につかずにバイトばかりしてたのよ。そして、彼女の家に転がり込んだある日、『小説の執筆に集中したいから』って、コンビニのバイトを辞めてからというもの、仕事もしないで、生活費はじめ食費やお小遣いまで、彼女におんぶに抱っこで、寄生虫みたいなクズに成り下がったのよ」
おい、理沙。俺は寄生虫かよ、クズかよ。ひどいよ。そんなことをいわれたら俺は、俺は泣くよ。
「そうなんですね……」
「でも、別れ話が出てるんだったら、これ幸いじゃない? そのまま、別れちゃえば?」
おい、理沙。いくらおまえが可愛がっている後輩とはいえ、おまえにそこまで彼女の私生活に口を出す権利なんてないからな! なんか、自分のことをいわれてるみたいで、だんだん腹が立ってきた。
「はい、一度考えてみます……」
五反田ちゃん、考えなくっていいって。まだ、若いんだから、彼のことは大目にみてやってくれよな。
そんな言葉が口をついて出そうだ。
「おーいっ! ふたりとも、そんなところでなにやってるの? 外は冷え込んできたから、いい加減、なかに入りなよ」
シノダがふたりに呼びかけた。相変わらずよく響くデカい声だ。
「入りなよ、なよ、なよ……」と森の静寂のなかへ木霊していく。
「はーいっ。五反田ちゃん、なかに入ろうか」
「はい、理沙さん。いろいろ聞いてもらってありがとうございました」
*
「それで、ミナコちゃんは彼氏っているの?」
「えっーと……」
「シノダくん。五反田ちゃんにそれ訊いちゃダメでしょ? それって、思いっきりセクハラだからね」
どうやら、このシノダは、五反田ちゃんのことが好きなんだな。なんだよ、ミナコちゃんって! さして親しくもないようなのに、一気に距離を縮めにきやがって。ただ、単に職場の先輩だろ。この勘違い野郎がっ!
「ごめんね、ミナコちゃん。俺、そんなつもりで訊いたわけじゃないんだ。ほんとうにごめんね」
だから、ミナコちゃんって呼ぶのはやめろよ! 聞いてる俺は、だんだん腹が立ってきた。
「……ところで、ヨウ君は、彼女っているの?」
今度は理沙が声を上げた。
「理沙さん、それもセクハラです」
ざまあみろ、理沙。五反田ちゃん、グッジョブ。理沙のポケットのなかで、俺はガッツポーズを決める。
「あっ! だね、ごめん……ヨウ君」
理沙ときたらまったく……自分が今そういったばかりなのに、そんなことを訊くかよ? ん?……まてよ、理沙は確か、キャンプの雰囲気に、わたしの好きな年下の男の子とそんな気持ちになるかもしれないし、なんてことをいっていたな。もしかしたら、このヨウのことなのか?
そう思ったら、このヨウのことが気になって、気になって、仕方がなくなった。それで、理沙のポケットから細心の注意を払いながら、そっと覗いてみる。すると、イケメン俳優も顔負けの、そのヨウの端正な横顔が目に入った。はっきりいって男前だ。どこか、俺と似ている。そう思って見ていると、誰かの視線を感じた。恐る恐るそちらの方へ目を向けると、理沙が思いっきり俺を睨んでいた。
「理沙さん、どうかしたんですか?」
「いいえ。なんでもないよ、五反田ちゃん……」
「痛っ!」
理沙は、ポケットの中で俺を押さえつけると、思いっきり俺の頭をデコピンしやがった。痛いったらありゃしない。たまらず声を出してしまった。
「今、なにか聞こえなかった。痛っ! って聞こえたんだけど」
「えーっ! 空耳じゃない? シノダくん」
理沙はそういってしらばっくれていた。
*
「おい、理沙。あれはあんまりだろ!」
「なんのこと?」
キャンプ場から我が家に帰り着いた俺は、理沙のポケットから出るなり、そういって大声を上げた。
「誰が、寄生虫だよ! 人間のクズだよ!」
「遼ちゃん、それは間違ってるよ。わたし、人間のクズだ、なんて一言もいってないよ。だって、遼ちゃんってば、ゴキじゃん」
「いっただろ、クズだって。理沙、おまえって俺のことをそんな風に思ってたんだな」
「あら、思ってたらなんなの? 違うの? わたしが働いているから、遼ちゃんは、ビバ! ゴキライフを楽しめてるんでしょ?」
「なんだよ、ビバ! ゴキライフって? 好き好んでこんなゴキになったんじゃないよ」
「あら? いつか、遼ちゃんいってたよね。ゴミ箱を漁ってたゴキを見て、『おまえはいいよな』って羨ましく思ったって、だからそんなからだになったんじゃないかって」
「……」
「わたしに不満があるのなら、どうぞ、いつでも出ていって!」
「ほんとうに出ていくぞ!」
「どうぞ、どうぞ!」
「なんだよ、どうぞ、どうぞって……」
俺はそういいながら、右前足でそのどうぞのポーズを取ってみせる。
「遼ちゃん、それって、どうぞのポーズ?」
「ああ、そうだよ。悪いか?」
「アハハハハッ」
理沙は突然笑い出した。
「バカだね、遼ちゃん。冗談に決まってるじゃない。遼ちゃんが出ていったら、わたし、悲しくて死んじゃうかも……」
理沙は人差し指で目頭を押さえている。
「理沙……」
なんやかんやいいながらも、理沙はやっぱり俺にぞっこんなんだ。俺は感無量でいっぱいになり、うつむいた。少し涙ぐみながら。……そして、再び理沙を見上げた。
うつむき加減に俺を見下ろす理沙は、白目を剥いて、あっかんべーをしている。
「理沙、おまえな、いい加減にしろよ!」
こいつは、ほんとうにドSだ。間違いないっ!
*
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